JavaScript を有効にしてご利用下さい.
文字サイズ
古書を探す
アダルト商品の検索を行う場合、18歳未満の方のご利用は固くお断りします。 あなたは18歳以上ですか?
野ゆき山ゆき海辺ゆき 初版
野ゆき山ゆき
野ゆき山ゆき海辺ゆき
ATG 野ゆき山ゆき海べゆき 162号
野ゆき山ゆき海べゆき 大林宣彦
野ゆき 山ゆき 海辺ゆき
子ども図書館 少年少女詩曲集 野ゆき山ゆき
アートシアター162 野ゆき山ゆき海べゆき
アートシアター 162号 大林宣彦監督作品「野ゆき山ゆき海べゆき」シナリオほか
野ゆき山ゆき海べゆき 映画パンフレット アートシアター162
年鑑代表シナリオ集 ’86 コミック雑誌なんかいらない!/火宅の人/人間の約束/鹿鳴館ほか
莫山書話 新装版
莫山書話
キネマ旬報 946号 通巻1760号 1986年10月下旬号
芸術新潮 52巻8号 2001年8月号
路傍の書(正・続) 署名入り
ワンス・アポン・ア・タイム・イン尾道
抒情小曲集
イタリアの歓び 美の巡礼 中南部編 <とんぼの本>
キネマ旬報 945号 通巻1759号 1986年10月上旬号
五十一番めのザボン 昭和27年第5版 与田準一 著 帯付き 出版社 光文社 ページ数 237p 校舎を建てるために、片がわの枝を切られた「むくやん屋敷」のザボンの木――ザボンは51個の実を結び、実には生徒の発案で「手紙」がつけられて市場から北へ南へと送られ、いくつかの返事がきた……。詩人らしい感性と斬新な手法とで、大人と子供たちとの暖かい心の交流を描いた、戦後児童文学の代表作。与田 凖一(1905年6月25日(戸籍上は8月2日生まれ)- 1997年2月3日)は、日本の児童文学者・詩人。昭和期の日本の児童文学界において指導的役割を担った。作詞家を担当、巽聖歌らと親交を結びその後も本格的な執筆活動を開始し、1929年に初の童謡集「旗・蜂・雲」を出版した。作詞家橋本淳の父。ドイツ文学翻訳の与田静(1942- )は長女。與田凖一[1]、与田準一[2]の表記もある。日本ペンクラブ会員。1905年、福岡県山門郡瀬高町(現在のみやま市瀬高町)に浅山与太郎、スエの次男として生まれた。翌年、親戚の与田家の養子となり、以降は与田姓を名乗った。養父母を相次いで亡くしたため、実家である浅山家で育つ。1924年に筑後市で小学校代用教員に採用され、翌年から下妻尋常小学校訓導となる。ドルトン・プランの影響を受け、児童の作品とともに自作を『赤い鳥』などに投稿する。1926年教職を辞し、1928年北原白秋を頼って上京。『白秋全集』の校正を手伝うも体調を崩して一時帰郷する。翌年再び上京し、『乳樹』を創刊しつつ、赤い鳥社に入社する。1933年、同社を退社。1940年日本文化協会から第1回児童文化賞を受賞する。終戦後は周郷博の斡旋により、1950年から1960年まで日本女子大学で講師として児童文学を講じた。門下には、まど・みちおをはじめ、岩崎京子、生源寺美子、あまんきみこ、神沢利子らがいる。1962年より日本児童文学者協会の第6代会長を務めた。1967年『与田凖一全集』でサンケイ児童出版文化賞、1973年『野ゆき山ゆき』で野間児童文芸賞を受賞した。
在庫検索から見つからなかった場合は、書誌(カタログ)からも検索できます。 お探しの古書が登録されていれば、在庫が無い本や条件に合わない本についても、こちらからリクエストを行うことができます。