倉本聰他編集、劇団仲間、1954年~1982年、57部一括
旧蔵者の津島康一は、太宰治の実兄・津島文治(1898~1973)の長男。
●倉本聰(本名・山谷馨)は昭和31~38年まで劇団仲間の文芸部に在籍。常盤新平(ペンネーム・入谷彰)も文芸部に在籍していたことがある。
●「劇団仲間は、青山杉作の弟子である演出家中村俊一を中心に結成された新進劇団で、当時ヴァイゼンボルンやギュンター・アイヒ等のドイツ演劇を続々と紹介し着目を集めていた。殊に中村俊一の方針として文芸部が充実しており、独文の加藤衛、小宮晧三、仏文の川口博、梅原成四、小津次郎、詩人の菱山修三、劇作家の秋元松代と錚々たる顔ぶれが揃っていた。小宮先生の紹介状を持って江戸川アパートに俊ちゃん(中村俊一)を訪ねたのはそのすぐ直後。俊ちゃんは即座に、おいでと云ってくれ、しばらくは見習い待遇で、そのうち春には俳優座養成所第五期生が入ってくるからその連中と同期扱いにしてあげようと云ってくれた。こうして僕はその後の四年間を大学へは全く顔を出さず、劇団仲間へ入りびたることになる。当時劇団仲間の事務所兼稽古場は、芝仲門前の生井武夫さんの実家を借り受けてあり、奥の倉庫が稽古場になっていた。倉庫に至る廊下の右手にいくつかの部屋が並んでいて、その中の一室が経営部の部屋、その次のこたつのある四畳半をあてがわれて、そこで機関紙、チラシ、パンフレットの編集をするのが僕に与えられた仕事だった。(中略)劇団仲間の四年間は、毎日がそれこそ目から鱗の、瞠目充足の四年間だった。与えられた編集の仕事をサッとあげ、一日の大半を奥の稽古場の隅っこの小さなベンチで過ごした。俊ちゃんの演出を隅から見つめ、あらゆることを、空気を吸収した。芝居を役者が起てて行く脚本の実際を、演技を、役者の演技する心理を、そして演出を徹底的に学んだ。まさにそれは僕の人生でのかけがえのない吸収の時だった」(倉本聰著『愚者の旅』(理論社/2002年刊)。
●「入谷彰君(26歳)。ヘエリヤショウとも読める如くこのイリタニ君、風の如く入団いたしました。ひげそり後の青みがかったスポーツ刈りの男、眼はきつく、頬骨高く、まさに剽悍そのもの。反して心はやさしく、思慮深い英文学者です。非常にタフネスな男で、年も若いのですから、きっと、よい仕事をしてくれると思います。ズーイとよろしく」(生井武夫「稽古場だより」より★『仲間』28号★昭和35年6月15日)
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