東京天理教館、昭42、26cm
まえがき
本は,歴史 入間文化の物指しにたとえられた。 だが, 近世が, 太古の時代の扉をひらいた
ときは,この鍵,この物指しをつかつたのであろうか。われちは。否と答えねばならない。 本を形
成した紙は,2000年にわたり,人間文化の生産をりけ伝えた。けれどもそれに先達つ時代開明の
手引きには不向きであつた。 それを明かしてくれたのは, 石刻, 金刻, 土塊などの文字の伝承によ
つてであり,ここ100年あまりの考古学の驚異的成果は、 皮肉にも, 今日から見ればむしろ, 文化
のより鈍器といわるべき, それ等原始的, だが不磨の遺物に負うのである。
紙は,本の時代をささえ, はこび,この時代特有の技術にのつて本をつくり,本はかえつて,そ
れをつくつたものを進化させ, 発展させた。 かの鈍器の比ではなかつた。 その産物として,図書館
は生じたのである。 その図書館は,今や,2000年の蓄積と保存の堆積とをゆり動かし、すべてのも
のを開放し、とり蒐め, 放出する。 今や, 図書館の任務は,取引場のように,そこでは物は,とり
寄せられ,与えられ, すみやかに帳づけされる。 この帳場は, はげしい自転のためしだいに, 気圧
が低下し,何物かが疎外されていることに気づきはじめる。 それは、ふたたび、何物かの蓄積を考
えはじめているのではないか。
このような時にあたり,われわれは立ちどまり,これまでをふり顧り, 洗いざらい並べてみたの
が〝本の歴史〟である。 人は,図書館とは,そのような本とも関係があつたのか,と今更笑うかも
しれない。 だが,笑ってはいけない。 その陳列をみて, むかし本があつて図書館ができたが,今,
図書館があつて本が失われた, と嘆じるもの, 豈ひとりに止まるであろうか。
ただただ, 時は流れる。 今, われわれは, 紙文化の洗いざらいを前にして, そして問う 「お前は
どこえゆくのか?」と。われわれは,その答えを, かならずしも俄かに求めない。 求めないのは,
こし方をふり顧り,しばしものの在りようをながめてみたいからである。
(少スレ)