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アミエルの日記 木村毅訳 春秋文庫54 出版社 春秋社 刊行年昭和8年縮刷発行 記名あります。函なしです。
マカベ前後書註解 著者 ラルボレット/守屋興雄訳 出版社 カトリック思想研究 刊行年 昭和8年初版 解説 文庫サイズ//函なし
『玩草亭 百花譜 福永武彦 昭和56年 額装用 絵葉書2セット』中央公論社。六枚組 袋付絵葉書2セット。
五十一番めのザボン 昭和27年第5版 与田準一 著 帯付き 出版社 光文社 ページ数 237p 校舎を建てるために、片がわの枝を切られた「むくやん屋敷」のザボンの木――ザボンは51個の実を結び、実には生徒の発案で「手紙」がつけられて市場から北へ南へと送られ、いくつかの返事がきた……。詩人らしい感性と斬新な手法とで、大人と子供たちとの暖かい心の交流を描いた、戦後児童文学の代表作。与田 凖一(1905年6月25日(戸籍上は8月2日生まれ)- 1997年2月3日)は、日本の児童文学者・詩人。昭和期の日本の児童文学界において指導的役割を担った。作詞家を担当、巽聖歌らと親交を結びその後も本格的な執筆活動を開始し、1929年に初の童謡集「旗・蜂・雲」を出版した。作詞家橋本淳の父。ドイツ文学翻訳の与田静(1942- )は長女。與田凖一[1]、与田準一[2]の表記もある。日本ペンクラブ会員。1905年、福岡県山門郡瀬高町(現在のみやま市瀬高町)に浅山与太郎、スエの次男として生まれた。翌年、親戚の与田家の養子となり、以降は与田姓を名乗った。養父母を相次いで亡くしたため、実家である浅山家で育つ。1924年に筑後市で小学校代用教員に採用され、翌年から下妻尋常小学校訓導となる。ドルトン・プランの影響を受け、児童の作品とともに自作を『赤い鳥』などに投稿する。1926年教職を辞し、1928年北原白秋を頼って上京。『白秋全集』の校正を手伝うも体調を崩して一時帰郷する。翌年再び上京し、『乳樹』を創刊しつつ、赤い鳥社に入社する。1933年、同社を退社。1940年日本文化協会から第1回児童文化賞を受賞する。終戦後は周郷博の斡旋により、1950年から1960年まで日本女子大学で講師として児童文学を講じた。門下には、まど・みちおをはじめ、岩崎京子、生源寺美子、あまんきみこ、神沢利子らがいる。1962年より日本児童文学者協会の第6代会長を務めた。1967年『与田凖一全集』でサンケイ児童出版文化賞、1973年『野ゆき山ゆき』で野間児童文芸賞を受賞した。
「喜劇 男の顔は人生よ」スピードポスター 三波伸介夏純子藤江リカ 約71.5cm-25.5cm右上角若干いたみ ピンあとあります。監督江崎実生キャスト赤間清松=三波伸介 菊地鉄五郎=砂塚秀夫 竹島陽子=夏純子 田沼とき子=藤江リカ 小柳ユリ=渋沢詩子 郷原=野呂圭介 森安=杉山俊夫 小松=木島一郎 セールスマン=菊田一郎 松平先生=伊豆見雄 女事務員=森みどり 小料理屋の女将=牧ひろ子(本編クレジットは槙ひろ子) 司令官=マイク・ダニーン ピアノ教師=大泉滉 水野先生=柳家かゑる 司令官通訳=太刀川寛 加原=富田仲次郎 空軍将校=E・H・エリック 田沼則次=清水元 竹島祐二=内田良平 宇根靖彦 篠木毅 アナウンサー=能村庸一 記者A=江崎実生 脚本 山崎巌 前川宏司 音楽/たかしまあきひこ 製作:日活 S・M・P製作年:1971公開年月日:1971/7/3 時間:カラー/82分/シネマスコープ・サイズ/7巻/2266m
東京都神社・神職名簿 平成25年東京都神社庁368p 19×26cm
大友克洋 GOOD WETHER出版社 綺譚社 刊行年 1987年重版 ページ数 265頁 サイズ A5判 解説 プラスチックカバー少し経年いたみ
趙根在写真展図録 地底の闇、地上の光 ― 炭鉱、朝鮮人、ハンセン病 ― 2023年 全223ページ趙根在(日本名は村井金一/1933~1997年)は、1960年代から1980年代にかけて、国内各地のハンセン病療養所を訪ね、隔離政策によって収容された入所者、とりわけ在日朝鮮人に焦点を当てながら、病や民族の複層的な差別のなかで生き続ける人間存在に迫る写真を撮り続けました。愛知県知多郡大府町(現大府市)に生まれた趙は、家庭の事情で中学3年生のときに亜炭鉱山で炭鉱夫として働きはじめます。地底の闇のなかで危険と隣り合わせの仕事をする日々は、地上の光への強い脱出願望へとつながっていきました。やがて在日朝鮮人の歌舞団の照明係となって全国公演に帯同し、旅の途中で熊本県の国立療養所菊池恵楓園を訪れたことを機に、ハンセン病に関心を寄せるようになります。1961年の初夏、東京の国立療養所多磨全生園を訪ねて在日朝鮮人の入所者に出会いました。「人間同士として向きあえ語りあえる写真」を撮りたいと、以来約20年間、北は青森の松丘保養園から南は鹿児島の星塚敬愛園まで各地の療養所に足を運び、2万点におよぶ写真を撮影しました。感染、発症の可能性が低い病気であるにもかかわらず根強い差別の残る時代に、患者や回復者と分け隔てなく接する姿勢は深い信頼を寄せられ、その写真は類例のない生活記録となってあらわれました。文芸運動の盛んな療養所において、詩人たちは出版物に趙の写真を掲載することを望みました。とりわけ、1981年に刊行された谺雄二との共作『ライは長い旅だから』は、社会的にも大きな反響を呼びました。その仕事に注目した記録作家の上野英信は、筑豊の炭鉱写真集の編集にあたり、趙に参加を依頼しています。1984年から1986年にかけて全10巻が刊行された『写真万葉録・筑豊』には、上野とともに趙の名も監修に連ねています。趙にとっては、差別のなかで生き続ける人たちの姿を記録することは、自分自身も含めた人間の存在の根源的な意味を獲得する行為であったのでしょう。本展では、国立ハンセン病資料館の協力を得て、趙根在の残した多様な仕事を、未公開写真を含めた209点の写真を紹介。