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渡邉恒雄 メディアと権力
『週刊読売』1972年7月18日増刊号
健児の精神 拝と奉仕
週刊読売 1975年3月1日特別号
私の死亡記事 <文春文庫>
本土決戦幻想 : 昭和史の大河を往く 第8集 コロネット作戦編 コロネット作戦編
歴史と私 史料と歩んだ歴史家の回想 中公新書2317
政治記者後藤基夫 後藤基夫さんを偲ぶ文集刊行会 1985年 全 314ページ後藤基夫(1918年10月20日 - 1983年4月5日)日本のジャーナリスト、朝日新聞社常務取締役。大分県佐賀関町生まれ。第三高等学校を経て1941年12月東京帝国大学法学部政治学科卒業、1942年1月朝日新聞社入社、翌2月陸軍東部第62部隊入営。主計少尉として中国湖北省で終戦を迎える(ポツダム宣言受諾後に主計中尉)。1946年2月に朝日新聞社に復職。同年6月東京本社政経部員、1950年1月政治部員、1956年10月アメリカ総局員、1958年2月政治部に復帰、1960年1月政治部次長、1963年2月ロンドン支局長、1966年6月論説委員、1967年1月論説副主幹、1969年12月東京本社編集局長、1973年9月取締役・大阪本社代表、1974年6月常務取締役、1978年12月総合企画室担当(東京本社)、1981年4月東京本社代表となり、在職中に脳出血のため死去。享年66(満64歳)。東大在学中に昭和研究会の教育機関「昭和塾」に入り、三木清の影響を受けた。「室町将軍」と呼ばれた同郷の右翼の大物三浦義一(父親が元大分市長、衆議院議員)と親しく、政界の裏情報にも通じて「書かざる大記者」と呼ばれた。宮沢喜一は後藤を「一番親しい友人」と呼んでいる。「書かざる大記者」ゆえに敵対する政治家の双方から相談を持ち込まれることも多く、政治記者として読売新聞社の渡邉恒雄も一目置く存在だった。中ソ対立が社内の派閥抗争に波及していた当時の朝日においては、親中派の重鎮の一人で、東京本社編集局長時代の1971年秋に特派員団長として北朝鮮と中国を訪問し、金日成首相、周恩来首相と会見。総合企画室担当時代の1980年にも北朝鮮を訪れている。「書かざる大記者」のため、書いたものは少ないが、晩年、雑誌『世界』に連載された石川真澄、内田健三との鼎談で、戦後政治についての見聞の一部を語っている。
中国仏教史 岩波全書
トマス・アクィナスの言葉と思想(英)
曖昧の七つの型 上下揃 岩波文庫 赤293 1、2
白楽天詩選 上下揃 岩波文庫 赤44 2、1
ニコライの日記 ロシア人宣教師が生きた明治日本 上中下揃 岩波文庫 青493 1から3
デイヴィッド コパフィールド 全5冊揃 岩波文庫 赤228 1から5
ノートル ダム ド パリ 上下揃 岩波文庫赤532 3、4
船出 上下揃 岩波文庫 赤291 1、2