わが解体 高橋氏死去より、概ね二年乃至一年以前の著作である。表題作「わが解体」は文芸誌の1969年6・8・10月号掲載とある。 他三篇の評論集「三度目の敗北」「死者の視野にあるもの」「内ゲバの論理はこえられるか」は、1970年7・9・10月の掲 載である。高橋和巳コレクション「わが解体」のレビュアである ぶんちょ氏 は「誠実さの終焉」と一文を寄せておられる。 大学闘争という社会的風潮が日常的だった日々は、中国では文化大革命の陰りが見え始めた頃である。 爾来の国立大学全般に巣くっていた官学志向から、暴力も辞さず機構改革を担おうとした学生たちが、「文革」運動に触発 され、当時でいうブルジョワ社会機構の諸矛盾の摘発の一端である大学闘争に目を向けた点は自然と言えよう。 事実三島由紀夫氏は1969年5月東大全共闘とのスピーチのなかで、「わたしは全共闘の諸君が、大正教養主義からきた 知識人の自惚れの鼻を叩き割った功績は認める」と述べているほどである。 所謂「帝大志向」に裏打ちされた教授連の学生に対する懐柔策は尽く腹を見透かされ、「帝大解体」はいまや現実化する。 「わが解体」冒頭に提示された、大正期の京大の教授選に絡む部落出自の問題に高橋氏は官学弊害の淵源を求めている。 高橋氏は京大助教授に地位に甘んじることなく、自由な一著作人として学生運動に心情を寄せる。大病に犯されながら鎌 倉の自宅から学舎を往来し、封鎖された学内で学生たちとは隔てなく身を接するが、今ひとつ自分の立場が曖昧なのことに 気づく。戦後知識人としての自分の中に、自己批判を含む意識的な戦後処理が未決だという事である。 別誌「明日への葬列」に携わった経緯のなかで、現代版「きけ わだつみの声」ならぬ学生運動半ばで散った樺美智子氏を はじめとする、70年安保の内ゲバ闘争などで死亡した学生たち数名に花を手向け、マスコミや世間で通称化された「暴力学 生」の観念とその汚名を雪ぐべく哀悼を捧げる高橋氏の姿があった。 また「内ゲバの論理をこえられるか」などは、共犯性によってしか集団の絆をもてない人間の「群れの思想」を問題提起している。 この三篇は作家高橋和巳とは別の、心ある戦後知識人なら思わず身を背けたくなるほどの眩しい慟哭の書である。
我が心は石にあらず 高橋和巳コレクション 8 河出文庫 <河出文庫>
悲の器 高橋和巳コレクション 1 河出文庫 <河出文庫 高橋和巳コレクション 1>
さわやかな朝がゆの味 <河出文庫 高橋和巳コレクション 5>