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日本古書通信掲載記事 育った時代の本を中心に

育った時代の本を中心に

福島・岳陽堂書店 斉藤 俊一

http://www.e-furuhon.com/~gakuyodo/

 岳陽書店はこの九月で開店二十五年目となった。この間、試行錯誤の連続で、おおよその同業者なら出会うことであろうことを経験してきた。  どれもが中途半端なかたちで実を結んではいないのだが、とにかく二十五年の間に古本屋として過ごせたのは幸運だと思う。  現在、店舗は閉めて事務所のみの営業となっている。そのため売上の一〇〇パーセントをネット販売に頼っている。自店のホームページと東京古書組合がたち上げた「日本の古本屋」への参加だ。

 ともに目標とする数字には達していないのが現状だが、とにかく日常の業務としての本のデータの入力と更新だけは心がけている。  当店の場合、ホームページは全国の古書ファンに岳陽堂書店という存在を知っていただく格好な手段であり、「日本の古本屋」は本を売る場所と割りきっている。「日本の古本屋」の検索で探していた本を見つけていただいたついでに、当店のホームページに来ていただき、品揃えを知っていただければいいと考えている。

 ホームページには人文書を中心に約二万点の在庫を掲載している。日本歴史や昭和史、教育など十五のジャンルに分類している。その「哲学」の品揃えを見た方から「四十年前にワープ」したかのようだ、とのご指摘を受けたことがある。うれしい限りだ。意識したつもりもないが、自分の育った時代の本はひそかに集まってくるものらしい。この大分類の下に独自の小分類によるジャンル分けをしている。そしてこの小分類を関連づけるために、あえて小分類ごとの区切りを入れないことにしている。ホームページ上で本棚の間をめぐっていただく疑似体験を味わっていただけたらいいなと思っている。

 本の仕入れのさい、未知の本を手にすると今でも心ときめくのはこんな理由かも知れない。  当店のホームページは探求書を探すためのものだけではなく、本と出会うという方向性ですすんでいきたいという考えだ。  どうか一度、岳陽堂書店のホームページを覗いて見て下さい。

日本古書通信社:http://www.kosho.co.jp/kotsu/

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日本古書通信掲載記事 新しいもの好き

新しいもの好き

東京・金井書店 花井 敏夫

http://www.kosho.co.jp

 その昔、ソニーから高性能ポータブル計算機が発売されていた。電子そろばんと言われた時代である。古書通信誌位の大きさで、縦横の計算もできるメモリー付、一六桁の当時としては画期的な製品で、欲しくてたまらなかった。価格は七万円弱かと記憶している。販売店も少なく、探し当てて買い求めた。同等の性能を持つ電卓は、今なら千円程度である。

 古書業界にお世話になったのが二〇歳頃、とても多くの方々に可愛がられた。金井一雄の孫として、花井由松の息子として。おかげで、小遣い稼ぎもタップリとさせていただいた。例えば、目録用の写真撮影。チョットだけ、撮影技術を学んでいたことがとても役に立ったのである。古書展の準備や片付けなどにも良く出掛けた。  このお小遣いをコツコツ貯めては、新しいものを買う資金にしたのである。新製品が出るとカタログを集め、眺めてはその性能をチェックした。レンズ一本買うにしても、ニッコールクラブに所属していた関係から、三木淳先生に相談しながら購入した想い出がある。親身に相手してもらえたことの有り難さは後年にしみじみ感じ、感謝一杯である。  一〇〇インチプロジェクター、VHSビデオカメラは買ったもののあまり使わなかった。  パソコンはPC9801(NEC)を八〇年代半ばには使っていた。早いほうだろう。ホームページは九七年からスタートしている。携帯電話は一八年を超えた。

  さあ、話題を本業のことに移そう。  この新しいもの好きが、八重洲出店への原動力であったのかと思う。スーパーダイエーの出張販売で「人の集まるところなら古本は売れる!」と確信し、新宿駅周辺への出店を目指したが、その当時急成長した日本初の貸しレコード店「黎紅堂」に出店競争で破れたり、門前払いを受けたりと出店先が決まらず時間が経過した。釣り好きで、釣りの本を集めていた懇意のお客様が不動産仲介をしており、この方のネットワークが功を奏し、昭和五八年、八重洲への出店が決定した。  業界に入って一二年、自分なりの古書店像を描き具現化し、今日に至る出発点であった。幸いなことに、古本が売れている時代で少しの努力が大きな果実となった。

 自店の位置づけは…新規顧客の獲得が最大の使命で、買取が二番目である。自店が繁栄して欲しいと考えるのは誰も同じで、品揃えやサービス、立地で各々努力するのだが、業界としてのパイ(顧客)が大きくないと各自の努力効果が減少してしまう。パイを大きくするのは一軒一軒の古書店であり、自店のお客様が古書の世界に興味を持ち、他店を利用するようになればよいし、業界により良い商品が環流するよう仕入にも努力することが肝要であろう。  R.S.Booksと八重洲古書館で頑張っていることは…まず、入りやすい店づくり。ショッピングセンターに相応しいファサードと内装、店内の見やすさに配慮して、更に、チョット個性的な設計で魅力アップ。陳列は面出しを多用して引きつけポイントを増やしている。そして、何より重要なのが、接客。専門的な古書関連の質問よりも、それこそ、道案内から始まる。初めて立ち寄る方、初めてお買上になる方、リピーターとなっていただくには第一印象が大事。SC協会が掲げる「もう一度この人に接客して欲しい」と思われるようなお客様にとって満足・感動を与える接客を目指したい。ポイントは「好感度・コミュニケーション力・販売力」であり、売買共に影響力は大きい。その延長線上に顧客獲得による業績アップが見込めるのだろう。  全国の古書店が毎月一〇人の新たなお客様と接すると、年間一二〇人、全国では二七万人になる。その一割がリピーターになれば、二万人以上の購買力がアップする。新古書店の成長ぶりを見ていると充分考えられることであり、こういったことを意識することから何かが生まれるのだろう。

 古書業界は、「商品」に多大な投資をして、本と専門知識が財産であったが、近年はその評価が相対的に下がっている。価値観が変わってきているのだ。古書店は特別なものではなく、一般的なものであるべきなので、不特定多数の顧客のもとへ我々が出向く、近づく努力、投資が必要なのだと思う。販売ツール「日本の古本屋」はその一例である。次は、仕入にかかわる流通ツール。古書店が都市部に集中すると全体として集荷能力が落ちると思うが如何だろう?  品揃えや工夫された展示が好評の青山ブックセンターでさえ自立できない現実、古書店も元気になれない現実、だから、業界として新たなビジネスモデル構築が必要なのだろう。新古書店は昨今の出版事情に左右されるだろうが、我々の取り扱う書物たちはまったく次元が違い、工夫次第で愉しい商いができることであろう。

 異業種のオーソドックスな販売、宣伝手法が自店にとっては新鮮であったり、真似することで新たな窓が開いたりしている。常識破りが受け入れてもらうきっかけとなる時代かもしれない。ファンづくり、古書人口増加を大きな目標にしたら如何だろう。  私の思考回路は古書業界に馴染まぬ点が多く、独自な道を歩んでいるが、内外で大きな石を動かすきっかけに幾度となく遭遇したのはよい経験であった。頂戴した様々な知識や経験を生かして、賑わいを確かなものにしたい。  古書業界に、新風とともに賑わいが増すことを祈念したい。

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日本古書通信掲載記事 二年連続売上増

二年連続売上増

熊本・舒文堂河島書店 河島 一夫

http://www2d.biglobe.ne.jp/~jobundou/

 店の決算月は三月である。毎年のことではあるが、その時棚卸をする。大変な作業である。二か月以内に申告となるので、五月末までに申告しなければならない。税理士さんがまとめて持って来られる時は、学校での成績表を見る思いである。昨年度の結果は、五年前の売上にもどった。

 店を新築した時が十三年前になる。同時に、店を有限会社にして毎月の経理を税理士事務所に委託している。店を新築した時は、まだ景気は左程悪くなかった時期だった。一年目も売上はよかったが、二年目はもっとよかった。大台の売上を記録した。この先、十年後はもっとよくなるだろうとその時思った。しかし、思いに反して三年目は売上が落ちた。初年度よりも悪かった。それから、毎年微妙に落ちていくのである。その後も八年間で初年度の七割の売上まで落ちた。一昨年の売上が、久しぶりにその前の年度より良かった。その時やっと右肩下がりの売上のグラフがちょんと上向いた。税理士さんに経理をお願いした時から、売上や在庫等をグラフにして持って来られるようになったのだ。何年ぶりかに前年度の売上よりよかったのかとグラフを見て思った。この春のグラフは、一昨年度より、またぐっと右肩上がりの線になっていた。二年連続売上増である。やっと底から脱却したかと、少々安堵した。

 細かな売上の内容は差し控えるが、売上増の要因は、ウブな史料性が高い仕入れが数回あったためであろう。それも一点が数十万円から百万円を超えるような仕入れにめぐりあえたことであろう。やはり良くて高額の品物を扱わないと売上は伸びないと思ったし、良い品物は高くても売れていくものだと思った。もうひとつある。店売りが回復してきている。一日の最低売上の金額も大きくアップしている。入店者も増えてきている。若い女性が増えたのは場所がらかもしれないが、嬉しいことである。

 私は、多くの方々から教えを受けながら商売をしてきているのだが、その中でも反町茂雄氏に出会えたのが、一番の商売の糧になっている。私は熊本で商いをしているのだから、細かな本の知識などを受けたわけではない。この商売をするにあたっての心構えのようなものを反町氏に会う度に、叱咤されながら教えを受けた。「いいですか、同じ本を扱うのに安い本を扱うも高い本を扱うも同じ時間を要します。それだったら高い本を扱う方が、商売として良いに決まっているではないですか。できるだけ良い本を扱うように努めなさい。」そのようなことを、会う度に言われたことが体に沁み込んでいる。良い本とは、この商いの本流となるようなものをいうのだと思っている。歴史的資料性の高いのもその内のひとつだ。

 それともうひとつ、売上が伸びたのは、東京や関西等の同業者の方々との交流があるのも大事なことだ。地方にいれば特に、多くの業界の方々と親しくなることは業績を伸ばすひとつに他ならない。最後に、長男康之が二年前から店を手伝い始めたのも売上アップに繋がっている。特に、目録作成や学校関係の接客は雄松堂書店仕込みで頼もしい。  今年度も、今までの良かった面と悪かった面をよく考えて、二年目の売上まで回復するよう頑張っていきたい。

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日本古書通信掲載記事 競り場の戦争

競り場の戦争

福岡・葦書房 宮 徹男

http://www.ashishobo.com/

 「五万」「十万」競り人の五万の発声から始まった江戸初期の文書四点はすぐさま五十万の大台を超えてしまった。声を出しているのは、私と同業のA氏。会場は福岡から高速を使って一時間半の道のりを車で走らせた熊本の田舎。この骨董市場は月二回開催されているが、競られる品物のほとんどは、陶器や道具類で他には掛け軸の軸類と呼ばれるものが、加わることとなる。したがって私たちの目的とする紙類は出ても極僅かである。たいがいは書籍の新古書と言われるもの。地方文書などは二~三ヶ月に一度出れば良い方である。それを承知で我々が毎回顔を出すのは、今日のような古文書が一年に一度くらいひょっこりと出て来るから油断がならないからだ。同業は大体三~四人くらい顔を出している。私は常に親友のI氏と行動を共にするので、敵は大体一人くらいか。

 今日も文書は誰でも知っている秀吉の朱印状と、豊後の切支丹大名大友宗麟、他の二通は佐賀の武将龍造寺隆信とその嫡子鎮賢親子のもの。秀吉の朱印状で極普通の内容であれば今は可成り値段は下がっている。宗麟はまあそこそこの値を踏んでよいであろう。A氏もこの二点は踏みきるであろうが、問題は龍造寺の二点である。A氏は龍造寺の文書を誰の武将のものか判断しきらないと私は睨んだ。今、値は八十五万まで来ている。龍造寺は鍋島が佐賀を治める前の武将であるが、近年その文書は市場などで姿を見ることはほとんど無く、是非扱いたいとの思いは強い。隆信の文書は花押ではなく扇形の黒印が押されいて珍しく、このような形の黒印は私も初見である。息子の鎮賢は文書の内容も悪くない。頭の中であれこれ考えを廻らしながら、相手の顔色もそれとなく観察するうちに、百万の大台を超えてしまった。よし、とにかく落とそうと一二〇万の発声でようやくA氏もあきらめて降りた。競り人の五万の発声から一〇分は経過していないであろうが、随分と長い時間だったような気がした。

 私は常々思うのだが、古本の業界と骨董の世界での本当に旧いものの出現に、これほどの落差があるのをどのように説明すれば良いのか。 次ぎの話も未だ一年と経たない昨年の夏の事であった。この骨董の市場は月一回の開催で、常に八十人から百人くらいの業者が顔を出す大きな市場である。東京、関西などの骨董業者の顔も見へ福岡では一番活気のある骨董市場であろうと思われる。我々同業もいつものメンバー五~六人が顔を出している。下見で永禄から文禄にかけての古写本から、慶長三年頃の往来物数冊まで江戸極初期の文書は豊後国東の名刹寺院の出と覚しき文書であった。文書を確認しながら鳥肌の立つのを覚えたことを私は記憶している。競り人の発声は一万からであった。私は十万単位で上げていったが、あっけなく五十万で発声は止まり少々気が抜けた気がした。今度も私と競っていたのは同業のA氏であった。地元の古文書は自家目録に掲載することとし、往来物などの古写本類を東京の市場に送ったら、原価をはるかに超える金額が振り込まれて来た。

古本屋の業界と骨董の業界を比較すると、東京の市場は別として九州の古書市場に関する限り、このような事例の出現は皆無に等しい。一年経っても十年経っても古書の市場では遭遇しない商品が骨董の世界では当たり前の如く出現する。今日も早朝より高速を飛ばして骨董市場へ車を走らせている私である。

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日本古書通信掲載記事 本棚を作ってみよう

本棚を作ってみよう

名古屋・山星書店 山田 康裕

http://www2.starcat.ne.jp/~yamabosi/

 前々から物置場としてあまり活用していない部屋を整理して、本棚を置き倉庫としてうまく使いたいと思っておりました。しかし長いこと市販の本棚を見て回りましたが不思議と使える本棚が売っていない。これがまったく不思議な話で、ヤフーオークションのカテゴリーで本棚を見ると九〇〇〇点以上出てくるが、全て目を通しても無駄でした。まず棚板のほとんどがプリント化粧板と呼ばれるスカスカの板であり強度の面でかなり不安がある、また奥行がありすぎるのがほとんどで30センチの奥行に14センチの四六判の本を収めると無駄でしょうがない。プリント化粧板さえ我慢すれば高さ180センチ奥行22センチ、棚板を1・5センチピッチで可動できる本棚も売ってはいるが真ん中の棚板は動かす事ができないのがほとんどで、きっちり四六判、菊判のサイズに合わせて組み上げる事はできない。

 どうにも我慢できないのでこれから長く使う物だし、多少面倒でも自分の使いやすい物を自作してみようと思いました。サブロク板(910×1820×21ミリ)をカットして作るため高さ1820ミリ横(棚板)910ミリ奥行220ミリの外枠な感じはすぐに決まりましたが、中身の棚板の間隔は難しい。四六判がうまく入る21センチの間隔ばかりで棚板を組んでいくと菊判、大判の本が入らないし、大きめに間隔を取っていくと本来の目的でない無駄ばかり生じる。かなりの長考の末、四六、菊、大判の割合を3:4:1で決めました。本当はもう少し菊判の割合を増やした方が良かったのですが側板(1820ミリ)の都合上うまく割り振りができませんでした。

棚板の厚み21ミリ×8枚+四六判の入る間隔210ミリ×3+菊判入る間隔240ミリ×3の残り302ミリが大判を入れる棚になります。別に作っておいた菊判の入る棚を上に載っける形で完成です。設計図が完成したので早速近くのホームセンターに行ってみると、サブロク板21ミリのランバーコア材というものが三五〇〇円ぐらいで売っていました。今にして思えば、すぐ隣に売っていたシナランバーコア材(四五〇〇円ぐらい)の方が良かった気がします。ランバーコア材ですと表面がベニヤに近い感じなので塗装を終わった後でもザラザラした手触りが残り、またカットの断面からベニヤがくずれて木屑が出てきます。

シナは表面がさらさらしているのでカット面さえうまく処理をすればニス等の塗装がなくても使えたかもしれません。カットもホームセンターでやってもらいましたが、これがなかなか良く20枚に1枚ぐらい1ミリずれているぐらいの正確さでした。後はビス、ボンド、ニスを買って、鉛筆で正確にけがいた側板に棚板を万能ビス(48ミリ)とボンドで留めていき、ニスを塗って完成させました。13メートルぐらいの壁を本棚で埋めるのに150枚もの棚板と30枚近くの側板を作り700ヶ所以上ビスで留める大変な労力がかかりました。  しかし、最近の仕事のメインであるパソコンと睨めっこしているよりかは遙かに楽しく作業することができた気がします。なにせ本のための本棚ですしね。その本棚を1ミリ単位まで考えて作れたのは古本屋として良かったと思います。結構楽しい物なのでみなさんも一度自作の本棚にチャレンジしてみてはいかがでしょうか?

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日本古書通信掲載記事 根拠なき希望のありか

根拠なき希望のありか

東京・日月堂 佐藤 真砂

http://www.nichigetu-do.com/

 百科事典の編集という仕事を終え、いつもの定食屋で夕飯を済ませると、テレビもラジオも置かない自宅に帰って本を読む。見るべきものがあれば美術館へと足を運び、歌舞伎、文楽には定期的に通う。戦没した旧友・知人の未亡人に宛てて時にペンをとるのは、少しでも慰めになればと思うからだ―主を失った家には、こうした日々を積み重ねて集められた膨大な蔵書が残されていた。

 聞くところによると、京都帝大在学中に学徒出陣で応召、「回天」の搭乗員に選ばれ、出撃を目前にして終戦を迎えたという。生涯独身を通し、自宅には例え血を分けた兄弟姉妹であれ、誰にも一歩も立ち入らせなかった。だから、庇を接して建つ隣家の妹さんでさえ、家中の様子を知ったのは主の没した後のことだったと。  今年二月から、こうして残された蔵書の整理をお手伝いさせていただいている。蔵書のなかに「回天」の搭乗員として訓練を受けていた当時のノートがあった。どの角度で突っ込めば敵艦にどのようなダメージを与えられるのか、シュミレーションした頁がある。自ら乗艦するはずの「回天」を示す、それはもう小さな丸印から、巨大な敵艦船首に向けて何本も何本も引かれた几帳面な直線。それは、自らの死への航跡に違いないというのに、どの線もまるで建築物の設計図のように精緻で、心の揺らぎや迷いなど微塵も感じさせないものだった。このノートと、学生時代から綴られた膨大な量の日記とが、妹さんご夫妻の手元に残されることになった。

 この家の主だった人物が、戦中・戦後を一体どのような思いを抱えて生きたのか、それを想像できるような深い洞察力・想像力を、残念ながら私はもたない。ただ黙々と、私は書架から本を取り出し、重ねて縛るばかりだ。いまは彼岸にある主にとって、書物が物事を思索する上での道具だったのであろうことは、美術畑を専門とされた仕事に関する書物を除けば、硬い人文科学・社会学系の書物が大半を占め、純粋に趣味的なものはミステリ以外に見当たらない蔵書の内容からも推察される。縛る度に積み上がっていく蔵書の圧倒的な物量と、その上に立つべき思索の主体であった人の絶対的な不在。いっそのこと、「鮮やかな」とでも云いたくなるこの対照を、私はどう受け止めればよいのだろう。

 書物というものが複製品である限り、再びの入手が叶わぬものなど実際にはごくわずかなものでしかない。けれど、一人の人間が長い時間をかけて集めた本を、一冊も違えることなく全て同じタイトルで揃えることは、至難の業ではないだろうか。命あるもの誰しも等しく、人生は一回きりのものだ。一人の人間が一生かかって集めた蔵書の全体像もまた、その一回性を映すようにして姿を現す。この事実の前に、これらを「塊」として「見る」最後の人間であることに、私はいつも何かしら粛然とした気分を味わうことになる。「塊」を切り分けていく途上には―店頭であれ市場であれ売ることが私の仕事だから―蔵書を「見つめる」はずの私の立場は、いつしか、残された蔵書を通してお手並み拝見とばかり、故人から「見つめられる」ものへと反転する。視線が交錯する。古本屋である私はこうして、今生、出会うことのなかった人たちと、この世で確実に「出会う」のだ。

 思えば古本屋になってからというもの、幾度かの、いまは亡き人との印象的な出会いを果たしてきた。ある家の昭和三代にわたる物語とともに、残されたモノを販売することになった「ムラカミさん」や、ウェブ上で特集目録を組んだ「K・K氏」は、なかでも忘れ難い存在だ。そして今回。国家という権力によって生死までをも翻弄され、情報革命の到来を見た二十一世紀初頭までおそらくは書物以外のメディアを信じることなく生き抜いたある男の生涯に、その片鱗ではあれ接することができるのは、古本屋という少し風変りな仕事に就いていて初めて可能になることだ。普通ならいくらお金を積んだところで得られるものではない。誤解を恐れずに云えば、こんな面白い仕事が他にあるだろうか。

 生活実態としては極貧に近い状況が続く商いである。本来なら、感傷に足を止め、故人を偲んでいるような余裕などあるわけがない。けれど、故人に対して誠実であること。これだけを見誤らずにやっていけば、いつか少しは楽になる日もやってくるだろう。根拠も理由も全然なく、けれどそんな確信がある。根拠のない確信であれば、例え水泡に帰そうとも、やがて私が彼岸の住人となった時、あちらの世界ではお前も少しは人様の役に立ったかと、頭のひとつも撫でてもらえたなら、すべてよしというものだ。

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日本古書通信掲載記事 頑張ってる?

頑張ってる?

前橋・山猫館書房 水野 真由美

http://members3.jcom.home.ne.jp/yamaneko-kan/top.htm

 二枚目だった頃のエノケンを使った百貨店のポスターが店の天井に貼ってある。「道楽者で、しっかり者」のコピーも良い。そのポスターを見上げて、当店の相棒は、「せめて、こうなってくれたら…。うちは〈道楽者で、うっかり者〉」とつぶやいた。その通りです。返す言葉もありません。  いつもやりたいことがあり、頑張っている気がするのだが、古本屋としてではない。

 毎年、神輿を担ぐのも仕事ではない。だが仲間の一人が中国に絵画留学した事を古本市で初めて知った。水墨画の画集を買ってくれたのだ。毎年、隣町の映画祭に通い詰めるのは店にとってマイナスなのだが開場を待つ行列でいつも顔を合わせる人と親しくなった。今では郷土、芸能などの資料を探しに来てくれる。「前橋宴会」という日本酒の会、これは本当に道楽だが顔馴染みから実家の蔵書整理を頼まれたりする。(シングルモルトを飲む会もあります)  俳人になったのも仕事とは関係ないが、金子兜太の門下生同士だからと本を探しに来る人もいる。さらに店のお客さんが当店を編集部とする俳句誌の同人や購読者にもなってくれた。友人の画廊で一年ほど前から始まった俳句講座では「いい俳句を作りたければ本を読め!目玉を磨け!」と店の棚のオススメ本を紹介兼販売している。

 朝日新聞の群馬県版で「郷土ゆかりの本」という書評欄を書き、さらに俳壇の選者を始めたら、古本だけでなく、新刊書店で「猫的俳句本」という棚を持たされた。ちなみに、その店では『女子の古本屋』(岡崎武志 筑摩書房)が「山猫館書房、掲載!」とポップ付きで平積みされ、それを見た友人から「お前、女子だったのか!」と電話が来た。  高校時代の恩師がやっているルソーやウェーバーを一行ずつ何年も掛けて読む人文書の読書会も仕事とはいえない。だが古本屋にとって自分が浅学非才だと思い知ることは悪いことではないはずだ。知ったつもりの方がコワイ。で、居酒屋通いも無論、仕事ではない。とはいえ大晦日の古本市搬入を十年以上、手伝ってくれたのは、その店の仲間だ。「清河への道」で知られる新井英一のライブを群馬で開催出来るのも、その店のおかげといえる。

 こんなふうに遊んでいるのだから、売上はキビシイ。先日、電話が止められた時は友人が驚き、ジャガイモと炊き込みご飯を抱えて飛んで来た。  どうやら頑張っているのは山猫館書房ではなく周囲の人たちなのである。  あっ、苦手だけど少し頑張ったことが一つだけある。初めて行政と組んだ「上州・大古本まつり」だ。組合員が力を合わせ、周囲の協力を得て、今年の春、群馬県庁県民ホールを会場に主催・群馬県古書籍商組合、後援・群馬教育委員会で開催した。参加店の多さや城跡の松が見える明るい会場などが好評で全国紙の県版や地元の新聞、テレビでも紹介された。何より多くの来場者が嬉しかったです!

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日本古書通信掲載記事 ローカルな視点から

ローカルな視点から

札幌・弘南堂書店 高木 庄一

http://www.konando-book.com

  明るい話題を寄せて欲しいとのことで、そうは云われても昨今書き易いテーマではないのだが、二〇〇〇年以降の営業を振り返って何がしかを書いてみようと思う。  小店の場合は取り扱った目ぼしい品や仕入れの記録は概ね自家目録に見て取れる。インターネットの普及で販売の様態はこの数年大きく変わったが、古本屋としての云わば肝の部分では紙の目録優先主義者である。最近は「紙の目録」略して「カミモク」と呼ぶそうだ。  小店のカミモクは殆どが「北方関係を中心とした…」と冠題がついたローカル性の強い目録だが、最近になって、長年この路線で蒐書を積み重ねてきた事を本当に良かったと感じている。単に地の利といった話ではない。ローカル性は実際には其の中に多種多様の分野を含んでいて、この事は特に掘下げた部分の古書資料を求められている本誌読者には、よくご存知の事と思う。

 地方の古本屋にとっては、中央の古書店とは一味違った品揃えの豊富さを持てるし、古書市場の変化にも順応し易いところがある。  さて、そんな小店のカミモクの中では、二〇〇四年に出した「樺太文献特輯」が近年最も充実した内容であったと思う。そもそも特輯目録は、通常の在庫目録に較べてボリュームは薄くともインパクトが強く、販売効率も格段に良い。但し、作成の為にはどうしても核となる仕入れが必要で、その点でもこの目録は幸運だった。  一括で譲り受けたコレクションの持主は父が開店した当初からのお客さんであり、私にとっては古本屋の喜びを教えてくれた人と言おうか、「こんな本、良く見つけて来たなぁ」などと褒めて貰い、励まされた懐かしい方である。恐らく亡くなられる間際まで、本誌目録欄は欠かさずご覧になっていたと思う。

 よくまとまったコレクションであり、施政資料、産業史、自然史、民族関係ほか写真帖・絵葉書に至るまで、今後これだけ蒐める事は至難だろう。  特筆すべきものとして、目賀田守蔭「樺太図」全五枚をあげておきたい。作成者は谷文晁の門人で、幕命で北方の地理調査を行い、極めて美麗な「延敍(エゾ)歴検真図」なる風景画集を献上している。この調査を元に作成された樺太全島図らしく、恐らくは新出図である。  さてこれらの樺太資料もそうであったのだが、様々な研究家・蒐集家が存在して、各々の全体的な研究・蒐集の為にローカルな資料が求められる。一方こちらはローカルなものを通して全体を見ようとしている古本屋と云えるかもしれない。

 北方関係資料にも、新たに産まれてくる部分が無くてはならないし、その手がかりは外側から、全体的な研究の成果、市場の動向から得られることが多いのである。また、北海道は歴史的にも特に人の出入りの激しい土地柄で、日本中の何処にどんな伏流が潜んでいるとも限らない。本誌読者の皆様のご教示を乞う次第である。  全体性とローカル性の間を行ったり来たりしながら、少しでも自分の仕事を深めていきたい。  明るい話題かどうかわからないが、ある地方の古本屋は現在こんなモチベーションの上に日々の仕事をしているといった話である。

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日本古書通信掲載記事 京の古書即売会

京の古書即売会

京都・キクオ書店 前田 司

 今年の二月、私はロスアンゼルスのブックフェアー初日、開場を 待つ列に並んでいた。いづこも同じ古書即売会初日の風景で、開場の午後二時前にはすでに二百人以上が列をつくっていた。この並んで いる人達を見わたしてみるとほとんどが年配。欧米人は日本人に 比べると老けて見えるとはいえ平均年齢は五十才を下るまい。 昨年六月のロンドンのオリンピアで開催されたABA(英国古書籍商連盟)主催の古書即売会でも、 またもっと一般的な古書が出品されるので人気のあるPBFAのブックフェアーでも訪れる客は高年齢層が多かった。そして行くたびに気になるのは、ここ数年だんだんと来場者が減って活気が無くなってきていることである。世界をとりまく長期の不況のせいばかりではあるまい。古書即売会に来る客層の老齢化が多分にそうさせているように思う。

  昨秋日本の古書ファンの高齢化を取り上げたテレビ番組があった。ここには東京の古本まつりで本を漁っている初老の人々ばかりが映し出されていた。こうした番組は編集者の意図でいかようにも作れるので100%信ずるわけにはいかないものの、穿って見れば古書業界は次代の客層が続いておらず未来はなかろうと暗翳を投げかけている。洋の東西ともに事情は同じということらしい。
  ところがこの五月、私共京都古書研究会が催した恒例の「春の古書大即売会」ではこんな心配を払拭する活況がみられた。開催の初日、平日にもかかわらず開会の十時前には六百人の人が会場の市営勧業館の外にまで列をつくった。この列には年配の馴染のお客さんに負けぬ数の若い古書ファンが並んでいた。その上この行列は華やかでもある。女性が三~四割も占めているからであろう。開場するやまたたく間に四十五店が出店した四百坪のフロアーは熱気でムンムンしてきた。この活気と華やかさはゴールデンウィークの五日間の会期中とぎれることはなかった。
 
三十年前、京都の古書業界の活性を目指して京都の若手古書業界が集まり「古書店経営を研究し、企画し実践する会」を結成した。略して「京都古書研究会」と称した。そこでは古書店主として自己研鑽を積み、古書ファンを獲得するために古本まつりなどのイベントや「京古本や往来」という機関誌の発行などに取り組んだ。そして同時に未来の古書愛好家を育てることも大きな活動の中心にすえた。次代を担う子供達が本好きになってくれるように、この会が催す古本まつりでは児童本を超廉価で提供するコーナーを設けた。またこの売り上げの純益金を公立図書館へ児童図書購入基金として寄付して子供達が本に接する環境を作っていただく応援をしてきた。
 
三十年前京都古書研究会が初めて設けた児童本コーナーでお母さんに手を引かれて絵本を買ってもらった坊やが、今年の五月の催しには学校の先生になって生徒を連れてやってきた。小さな手に100円玉をにぎりしめて童話を買った女の子が、今は我が子を抱いて絵本を漁っている。会の発足以来の活動の積み重ねによって次代の客が育ってくれ、今また次の世代が芽生えてきている。京都の古書業界の先行きは洋々である。

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日本古書通信掲載記事 少しの仕掛と趣向

少しの仕掛と趣向

福岡・かぼちゃ堂 首藤 卓茂

 目録で本を買いあさりはじめた時代に古本屋になろうという気持ちがこうじた。念願かない脱サラ、古本屋となってはや十年をすぎた。本屋になるまえの気持ちはことのほか強く、店をもつこと、目録をつくること、テーマにこだわりたい、というドグマじみたものであった。

しかし店舗を探しながらもうまくいかず、先延ばししながら無店舗。 始まっていくばくもないネットや即売会になりわいの糧をもとめた。 また目録のテーマは日々の仕事のなかでかなり変わってきている。即売会の共同目録への参加、集書でのこだわりといったところにテーマ意識がすこし顔を見せるだけである。
 
時代がすっかりかわってきた。地方都市ゆえか本屋も激減し、紙目録もすっかり減ってきていて、もはや豪華版の目録しか目にはいらない。主役はネットとネット目録にかわりつつある。しかしネット時代とはいっても物足らなさは一入である。パソコン嫌いということもあるし、店を持たない分それだけ増幅されるのかも知れない。日々本に向かう楽しさや苦行はあるものの、こんなつもりではなかったという気持ちもある。送られてきた目録をあさり、目を通していた時代のわくわく感が思い出される。それはたんに出物だけではない本屋のいろいろな小さな仕掛けが目録にあったのではないだろうか。
 
目録を作る側になって、自前の目録づくりには踏ん切りがつかないままできているが、共同目録へは機会があれば参加してきた。目録をつくりながら、これと思う本を並べたつもりになっていたが、後になってみるとあまりに思い入れが強すぎたようだった。これは珍本だと合点した本がじつはそうではなかったり、というような試行錯誤つづきだ。そのせいがあるかあらぬか近ごろは目録タイトルもさることながら、かぎられた紙面にすこし仕掛けや趣向をこらせないものかと思うことがある。なかなかうまくいかないものだが、時間に追われての投げ込みもあれば、ネタ不足であらも丸見えのものもある。お客から冷やかされることもままある始末だ。

  かぎられた紙面、すこしの仕掛・趣向。それも十分できていないのであるが、共同であれ、自店であれ目録はおもしろく広げることができるのではないかという思いはつよい。またネット時代であるためにかえってアナログの世界が刺激的ではないか。これは無店舗に対する店舗にもいえることかもしれない。いっきに結論にとんでしまうが、すこしの仕掛・趣向のひとつは、だんだら模様の近世近代の九州の風土を目録にすこしでも刻みこんでいけたら、ということだ。目録はおもしろいもの、それが原点。

日本古書通信社:http://www.kosho.co.jp/kotsu/

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