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本音と建前

本音と建前

高島 利行(語研/版元ドットコム有限責任事業組合 組合員)

版元ドットコムでは先日から品切・重版未定や絶版の書籍について「日本の古本屋」へのリンクを設定しています。同時に図書館検索のカーリルにもリンクするようにしました。実際の例は版元ドットコムで探してみてください。現在191社の出版社が書誌情報を提供しています。けっこう面白い本ありますよ。

『男でも女でもない性 インターセックス(半陰陽)を生きる』 青弓社
http://www.hanmoto.com/bd/isbn978-4-7872-3155-0.html

『暴走列島80 全日本暴走族グラフティ』 第三書館
http://www.hanmoto.com/bd/isbn978-4-8074-7903-0.html

『スリ その技術と生活』 青弓社
http://www.hanmoto.com/bd/isbn978-4-7872-3101-7.html

『陸軍登戸研究所の真実』 芙蓉書房出版
http://www.hanmoto.com/bd/isbn978-4-8295-0275-4.html

版元ドットコムでは元々「手に入らないという情報にも意味がある」と考え、品切・重版未定や絶版書籍の情報も積極的に公開してきました。実は、品切・重版未定や絶版の書籍については以前から復刊ドットコムへのリンクを設定しています。出版社に在庫が無い本についてどれぐらいニーズがあるかわかりませんが、どうしても読みたいのに出版社にも在庫が無くて手に入れられないという読者の復刊リクエストにお応えするためです。

で、考えてみると、「どうしても読みたい」読者は、復刊ではなく図書館で借りても古書店で入手してもいいわけですよね。いや、むしろ「どうしても読みたい」読者は昔からそうしていました。大人しく出版社の復刻版や新版を待っていたわけではありません。

出版社で働く人間にとって「作った本は売れて欲しい」のが本音です。「図書館で借りられたり古書店で買われては売れる本も売れなくなってしまう」という声もあります。古書で流通していなければ買うのかという問題は別として、実際問題としてそういう声は少なくないです。

一方、「作った本はより多くの人に読んでもらいたい」というのも出版社で働く人間にとっての偽らざる本音です。いや、建前かもしれません。やっぱり本音かも。建前か。どっちでもいいのですが、本が売れないと、かなり悲しいです。売れなかった本を断裁するのは常に心苦しいです。断裁するぐらいなら古書として販売、とは思います。そういう形で徐々に古書の業界と出版社はつながり始めています。

「買って読んでね」は、出版社が増刷を重ね在庫を持っているうちは全然問題ないんですよ。でも、在庫がなくなると売れません。当たり前ですが「読みたい」に応えることもできません。

そこで、「品切・重版未定や絶版の書籍からの古書店・図書館へのリンク」なんです。

これが、どれくらいのニーズに応えられるのかは分かりませんが、出版社と古書店・図書館とが読者のニーズに応えるためにできることの新しい一歩となれば幸いです。

最後にもうひとつポロッと本音を。ネットのリンクでアフィリエイトという仕組みがあるじゃないですか、将来的にはあれであわよくば古書の販売や図書の貸出から少しでも……、無理か……。

版元ドットコムについて
高島 利行(語研/版元ドットコム有限責任事業組合 組合員)
http://www.hanmoto.com

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108

自著を語る108 『名古屋とちくさ正文館』

『名古屋とちくさ正文館』

古田一晴

中学一年の後半、一九六五年一月九日、名宝文化劇場で、ポーランド映画アンジェイ・ムンク『パサジェルカ』(一九六一)を観る。ATG正月特別番組であった。名古屋地区は、封切りであっても、二本立てが慣例であった。併映は、イェジー・カワレロウィッチ『尼僧ヨアンナ』(一九六一)記念すべきATG第一回作品。二度の衝撃であった。

 名宝文化劇場は、名宝会館内にあった。名宝劇場(東宝系封切)スカラ座(洋画封切)などが入居。娯楽総合ビルであった。当時は市電が運行していて、納屋橋駅の南側にあり、二〇〇三年閉館になるまで、名古屋の映画館のシンボル的存在であった。

 上映後買い求めた、アートシアターのパンフレット(No26)が素晴らしかった。 岡田晋「アンジェイ・ムンク評伝」進藤重行「ポーランド映画界と映画人」などと、必ずシナリオ再録があり、それまで、スター紹介の商業映画のパンフレットしか知らなかった私はカルチャーショックをうける。

アートシアター、NR6に、当時(六二年)マネージャー鈴木文男氏は、「中部日本唯一のアートシアターと云えども、背景は偉大な田舎?名古屋市、発足当初はつくづく知識層の浅くて狭いことを思い知らされました。」と記している。同年二月二十日には、ミハイル・カラトーゾフ『送られなかった手紙(一九五九)』も観ていて、アートシアターを読むことが映画の背景を知り、知識の蓄積のきっかけとなる。

当時の映画誌より高いレベルの情報が得られた。お決まりのコースだが、高校生になった頃には手元にある映画資料が余りに貧弱で、映画史の本を読めば読むほど、未見作品の多さを思い知らされる。当然図書館の蔵書リストを書き写したりしたが、雑誌のバックナンバーは皆無であった。古書店に出入りする頻度が高くなる。

大学入学頃には、ほぼ日常化していた。これもお決まりのコースである。アートシアターのバックナンバーも全巻は大きな目標のひとつであった。ある時、古書店めぐりのコース、鶴舞、日光堂書店に、アートシアターのバックナンバーの揃いが店頭にあった。そのときは確認しただけで帰り、再度出向いたときは、すでに誰かの手に渡っていた。

ご主人とは言葉を交わしたこともあり、忘れられない思い出になっている。同じような失敗をもう一度した。「パンテオン」の揃いが、栄町の尾関書店に並んだ。この時は、東京の古書店が買っていかれたと、後日談。その時入手した「ロゼッティ紀念號」が今でも手元にある。
108
『名古屋とちくさ正文館』古田一晴 著
論創社 1,680円(税込) 好評発売中
http://www.ronso.co.jp/index.html

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107

自著を語る107 『なごや古本屋案内』について

『なごや古本屋案内』について

シマウマ書房 鈴木 創

 この秋、『なごや古本屋案内』(風媒社)を刊行しました、名古屋の古書店、シマウマ書房の鈴木と申します。
 本書は、名古屋市内を中心に愛知・岐阜・三重県の50軒の古書店を取材し、古本屋めぐりを楽しんでいただくためのガイド本として作らせていただきました。その動機の一つは、かつて名古屋古書組合が発行していた「東海古書店地図帳」が平成13年版を最後に改訂されなくなっていたこと。従来の古本屋ファンのみならず、新たなファンに振り向いてもらうためにも、現状に合った案内本が必要と考えました。

 もう一つの動機は、自分自身、古書店を営む若手の同業者として、今こそ、長年この地域で古本の仕事を続けてこられた先輩方に、いろんなお話をうかがっておきたいと思っていたことでした。店主の高齢化や不況などさまざまな理由により、東海地方においては(インターネット専門の業者さんは、若い方も含めて増えているのですが)実店舗を構える古本屋が年々減ってきている現状があります。また、過去に遡っても、名古屋の古書店についての文献は限られていることから、本書を手がけるに際しては、2013年という現時点における名古屋の街の古本屋の記録、店主の方々の証言集としての意味合いも踏まえて、取材と執筆を進めさせていただきました。

 実際、この本のなかには、戦前から戦後、高度成長の時代、バブル期以降の現在に至るまで、名古屋の古書店の歩みを反映したさまざまなエピソードが読み取れるかと思います。私自身、古本屋の仕事というのは、単にモノを売るだけの仕事ではなく、世の中や地域の人々との関わりのなかで、読者からまた次の読者へと本を受け継いでいく役割を担っているということを再確認できたように思います。「古本屋は文化を担っている」と、この仕事を誇りにしておられる店主の方々がおられたことも、とても心強く感じました。

 なお、それぞれの古書店についての情報や地図のほかにも、本書ではこの地方にゆかりの作家さんなどによる、古本や古書店にまつわるエッセイやイラスト、対談なども多数収録しております。一部の方からは「文芸誌なみのラインナップ」とお褒めをいただきましたが、ご協力いただいた執筆者の皆様のおかげで、(名古屋の方はもちろん、それ以外の皆様にもお楽しみいただける)読み物としても充実した内容になりました。

 本書を通じて、街の古本屋をあらためて身近に感じ、実際に足を運ぶ上での手がかりにしていただけたら幸いです。

※エッセイなど
堀江敏幸/諏訪哲史/清水良典/大島真寿美/木下信三/小松史生子/
安住恭子/岡田正哉/高井信/大江麻衣/浅生ハルミン/
古書ほうろう 宮地健太郎/紫書苑 永津登/前田幸三/ぱんとたまねぎ/
吉川トリコ/広小路尚祈/石橋毅史(順不同)
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『なごや古本屋案内』鈴木 創 編著 風媒社刊 好評発売中
 定価1575円(税込み)
  http://www.shimauma-books.com
  http://www.fubaisha.com

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112-1

自著を語る112 拙著『岩波茂雄』について

拙著『岩波茂雄』について

中島岳志

 2013年は岩波書店創業100周年の当たる年でした。創業者は岩波茂雄。最初は出版社ではなく、古書店でした。  今から5年ほど前、岩波書店から「岩波茂雄伝を書かないか」という打診がありました。その時、担当編集者の方に言われたのは、「これまでのものとは違う岩波茂雄を書いてほしい」ということでした。

 岩波茂雄については、すでに多くの著作があります。代表的なのは安倍能成『岩波茂雄伝』と小林勇『惜櫟荘主人 一つの岩波茂雄伝』でしょう。安倍は一高以来の友人。小林は会社の側近。身近な二人が書いた岩波伝は、非常に精度が高く、愛情にあふれています。

 しかし、私が一読して感じたのは、身近であるがゆえの甘さが、記述に反映されているという点でした。戦後のパラダイムから岩波を演繹的に見ている側面があるため、岩波の重要な部分が意識的に(もしくは無意識的に)捨象されていることがどうしても気にかかりました。  私が引っかかった問題は、ナショナリズムの扱いについてでした。岩波は、一貫したナショナリストで、生涯にわたって吉田松陰と西郷隆盛を敬愛していました。社長室には大きく五箇条の御誓文を張り出し、大東亜戦争の開戦に当たっては歓喜の声を上げた一人です。実際、岩波は戦中に陸海軍に戦闘機を寄付しています。晩年は右翼の大物である頭山満に心酔し、岩波書店から頭山を顕彰する伝記を出版しようとしていました。

 一方で、岩波は極めてリベラルな人物でした。彼は偏狭な皇国史観に反発し、『原理日本』の蓑田胸喜から激しい攻撃を受けました。しかし、岩波は果敢に立ち向かい、美濃部達吉や矢内原忠雄を全力でサポートしました。岩波書店からはマルクスの『資本論』も出版されていますし、講座派のシリーズを出したのも岩波のイニシアティブです。

 問題は、この岩波の両面を「矛盾している」と捉えるのか、「一貫している」と捉えるのかです。これまでは、彼のリベラルな側面ばかりが強調されたため、彼のナショナリストとしての側面は脇に追いやられていました。  私は、岩波を一貫した人物として捉えるべきだと考えました。彼は「リベラルなのにナショナリスト」だったのではなく、「リベラルであるがゆえにナショナリスト」だった人物と私は考えました。そして、その延長上に彼の強烈なアジア主義のパッションを位置付けるべきだと考えました。

 一見すると節操がないように見える彼の思想を貫く「論理」と「情念」とは何だったのか―――。  拙著では、岩波の若き日の煩悶に焦点を当てながら、その歩みを近代日本の中に位置づけることを試みました。
 年末年始のお時間があるときに、お読みいただければ幸いです。
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『岩波茂雄  リベラル・ナショナリストの肖像』
中島岳志著 岩波書店刊
定価 1,995円(税込)
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0259180/top.html

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111-1

自著を語る111 本屋のある街はなぜ素敵か 『街を変える小さな店』

本屋のある街はなぜ素敵か 『街を変える小さな店』

堀部篤史

手許の手帳によれば2010年の冬。京阪神エルマガジン社のオンラインマガジン「lmaga.jp」上での連載を始めるにあたって、どのような打ち合わせをしたのかをすでに僕は覚えていない。「ここだけの店、ここだけの話」と題されたその連載は、自分が勤める書店、[恵文社一乗寺店]が立地する、京都市は左京区という学生と商売人の多いエリア周辺の、かねてより懇意にしてきた喫茶店や酒場、レコードショップなどの個性的な個人店を取材し、そのあり方の特殊さに、本屋である僕が学ぶという体裁の連載に落ち着いた。

連載終了後、単行本にまとめていただけるというお話をいただいた後、大幅に加筆修正をすることになり、一年以上の時間をかけ推敲した結果、連載内容を大きく逸脱し、ほぼ書き下ろしの内容になってしまった。つまり、今回上梓した『街を変える小さな店』という本は、わかりやすいテーマを掲げ、直線的に綴られたものではなく、紆余曲折を重ねながら出来たとてもわかりにくい本だ。

全ての始まりは、仕事中に取材と称して繰り返し問いかけられる単純な質問だった。「本の売り上げが低迷する中、これから街の本屋はどうなるのでしょうか」。明快な答えが出るはずもないこのシンプルな問いかけを幾度となく投げかけられ、思索するにつれ、本屋の未来を考えはじめれば、本というメディアや本屋の仕組みだけでは収まらないことに気がついたのだ。この本には、シンプルな疑問から始まった、複雑な思考の足跡が、時間と共に綴られている。つまり本書は、複雑きわまりない状況に、明解な答えを与えてくれる、いわゆるビジネス書や自己啓発本とは反対の構造になっている。

あらゆる嗜好品は、本と同じく非合理故の良さを持っている。われわれは日々、本を読み、喫茶店で一服し、仕事の帰りに一杯の酒に癒され、映画館で涙し、心を揺さぶられる。そのことでなんとか単調で退屈な日常をやりすごすことができているのだ。一方で、合理性や損得を追求しはじめれば、嗜好品や無駄のある生活の豊かさは顧みられることがない。いま、どこの街を見渡してみても、二つの価値観によるせめぎ合いが行われている。しかし、嗜好品の良さ、美しい街のあり方は、明確に言語化されることの少ない故に、非合理な本や本屋を愛するわれわれはいつも劣勢に立たされてしまう。結果、街はつまらなくなる一方である。

本書は、書店論の枠を越え、合理性の物差しで測ることの出来ない、嗜好品の美しさとは何かを追求する試みである。その中にはもちろん、本屋や古書店も含まれている。「読書離れ」や「電子書籍」、「長引く景気の低迷」に嘆くのではなく、本屋のある街の豊かさ、古本屋での出会いがわれわれに与えてくれる喜び。そういったものをわれわれ本に携わる人間は、真摯に考え、訴え続けていくべきではないだろうか。
堀部 篤史(恵文社一乗寺店 店長)
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 『街を変える小さな店
 京都のはしっこ、個人店に学ぶこれからの 商いのかたち。』
  堀部篤史著 京阪神エルマガジン社刊
  定価:1,680円(税込)好評発売中
   http://lmaga.jp/book/machi_mise.html

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110-1

自著を語る110 『善き書店員』で見つけたのは「日常業務の幸福」

『善き書店員』で見つけたのは「日常業務の幸福」

木村俊介

『善き書店員』という書店員の方々への取材をまとめた本を振り返ると「普通の人への取材のみでノンフィクションをまとめる挑戦」に対するわくわくする気持ち、「殺伐とした状況の中でこそ、むしろ日常業務の合間に偶然のようにじわっと出てくる実りや恵みが感じられるかのような肉声」に対する今の時代ならではの話をうかがえたなという充実感を思い出す。

 私自身は人の話を聞いて呑みこむ魅力にとりつかれて取材ばかりしてきた職業的なインタビュアーである。取材技術を身につけるにつれ、言葉が発せられた時の空気ごと文章に封印し、読む人が来たらその封印が解かれその人に会えるように、と肉声の迫力、特にロング・インタビューの奥の深さに業務の醍醐味を感じてきた。そこで通常なら何らかの結果や事件に関わる「特殊な人」に行われがちなロング・インタビューという道具を、市井の町人とでも言えるような方と一緒に使い続けたらどうなるかという視点でできたのが本書だ。

 学生時代から現在に至るまで外出すれば空き時間につい本を買ってしまう私には、さまざまな年齢のさまざまな関心を持つ人が集まる「町の鏡」のような場で働く書店員の方々を取材対象とするのは自然だったけれど、現実社会のミもフタもない変貌に晒されているがゆえに十年後はもうこんな形では残っていないのかもとも感じられた、書店員のみなさんがどこか抱えようとしている「良心」のようなものは、風前の灯火にも見えた。語りからは現代の商売の厳しさの中での悩みも迷いもあふれる。しかし、綺麗事が言えない難しさの中で「好きでもなければ、やる意味のない仕事」と言う人の多い環境でこそ、その「好き」の中に入りこみ、人や本と出会う合間に金銭や成果と別にそれぞれが個人的に心の底で見つけていく喜びや慰めのような感触に、私は人の「善さ」としか言いようがないものを見せていただいた気がした。

「神は細部に宿る」と言うように、それぞれの方が仕事の細部、例えば接客の際の些細な会話といった経験の中で得られては育てるようになる、業務における「滋養」のようなものは、二時間、三時間と長めにうかがった話を、長めの肉声のまま大事に記録する形でしか、まるごとは伝えられないようにも思った。大変な状況を語ってもいただくのだけれど、そのうちにそれぞれの方ならではのタフさや笑顔も見えて心が温まる、そんな「ほんとうに人間に出会ったなぁ」と感じられた取材体験を、なるべくそのまま書籍の中に封印して紹介したくなってできた本……というわけである。
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『善き書店員』木村俊介著 ミシマ社刊
定価:1,890円(税込) 好評発売中
http://www.mishimasha.com/books/yokisyotenin.htm

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109-1

自著を語る109 新しい洋服なんていらない! おいしいごはんもいらない!

新しい洋服なんていらない! おいしいごはんもいらない!

古本屋ツーリスト 小山力也

 誰しも一度は、自分の本が出来るということを夢見るだろう。それはやはり、照れながらも人に薦められ、それほど売れなくともいいから(本当は売れて欲しいのだが)、ジワジワと長く読み継がれたりする本。読み易い文章で…いや、難解な文章であっても、世界の秘密に触れているような本。手に馴染み易く、たくさんの本と並んでいても、何かがポォッと光り輝いている本。己が死んだ後でも、ひとつの時代を生きた証として、本屋に並び続ける本…。

 しかしその『自分の本が出来る』と言う夢が叶った今、この目の前にある本はどうだ。やたら大きく、やたら分厚く、書かれているのは、古本屋さんのことばかり。載っている写真も古本屋さんの店先ばかり。世界の秘密になんて近付いていずに、古本屋さんばかりに近付いている。その文章は、ただ勢いに任せて書かれており、読む物の目と心を無闇に目まぐるしく加速させて行く。その上、古本とはセットであるべきの、滋味溢れる感覚は皆無…。

 だがしかし、悲しんでなどいない! これは、段々と真剣になり、もはや人生と言う己の生き様を賭けることになってしまった、五年間の集成なのである。だから、胸を張って、ほくそ笑みながら、この出来上がった本を眺めることにしよう。

 『ツアー』と称して、全国の古本屋さんの自主的調査を始めたのは、二〇〇八年の五月。その時には、一応『全国の古本屋を巡る』野望を早々と掲げてはいたが、現実のこととしてはまったく捉えておらず、ただ無軌道に古本屋さんを、次々訪ね歩いていただけであった。ただ数だけを重ね、その数さえ数えていなかったのである。しかし次第にその『ツアー』の面白さと奥深さにのめり込み始め、真剣に全国に散らばる古本屋さんのすべてを、いつかこの目で見てみたいと、漠然と思うようになって行った。そんな思いに引き摺られるように、古本屋調査の日々とブログ更新は続いて来た。ただただ夢中にがむしゃらになって、時に調査しない日があると後ろめたく思ってしまうほどに、継続して来たのだ。

 古本屋と古本のキュートな絵が描かれた表紙を開き、分厚い本のページを繰ると、そこには頭がちぎれんばかりに悩み、ひとまず選び抜いた150のお店が載っている。読んでも読んでも古本屋さんについての文章が続いて行く。これを自分がすべて書いたのかと思うと、空恐ろしくなって来るほどである。尋常ならざる、常軌を逸する一歩手前。しかしこの本はあくまでベスト盤であり、さらにこの十倍以上のお店が、文章化されて、ネットの中を漂っているのである。そしてその記事のひとつひとつに、それぞれの王国が封じ込まれているのだ…つまりはまだ後十冊は、同様のクオリティで、本が作れるのである! それほどに古本屋世界は、個性と愉快なエピソードに溢れている。だからこそ、まだ見ぬ古本屋さんを求めて、これからも…。

 ライブ曲で構成されたベストアルバムの如き、瞬間瞬間を切り取ったこの本を見て、切に思うことがある。…売れてくれ! これからも全国の古本屋さんを訪ねることが出来るほどに、売れてくれ! 新しい洋服なんていらない! スマホなんていらない! おいしいごはんもいらない! 家なんかもいらない! ただ、未知の古本屋さんを訪ねられれば、それでいい! 

 それと贅沢にもうひとつ望みを上げるとしたら、古本屋さんで自分の本を、古本として買ってみたい…本が出来たことにより新たに生まれた、古本屋ツーリストとしての真剣な思いである。
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『古本屋ツアー・イン・ジャパン 全国古書店めぐり 珍奇で愉快な一五〇のお店』
 小山力也著 原書房刊 発売中 定価2520円(税込み)
  http://www.harashobo.co.jp/

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日本古書通信掲載記事 動かなくなったお客様

動かなくなったお客様

名古屋市・三松堂書店 松本公生

 私は大学を卒業してから2年間神保町の大雲堂書店で修業して、昭和48年に父が営業していた店を手伝うようになりました。
 修業した店が店売り主体だった所為もあるのでしょうが、私も店頭販売に力を入れました。その頃は店売りが大変活発な時代で、入ったものはすべて店頭で売っておりました。そのせいか東京・大阪など地方からも随分お客様に来ていただき、お茶を飲みながら古本談義をしたりして、時間に余裕もあり楽しい時代でした。すべてがうまく回っていたように思います。
 そんな時に即売会に誘われても、店売りが楽しくて、「うちは毎日が即売会だから」と断っていた覚えがあります。
 そのうちに名古屋古書会館での即売会が始まり、誘われて参加することになりました。15年ほど前の話です。初めて参加したときは品物もうぶかったのでしょうか、目録販売はこんなに売れるのかとびっくりしました。それを皮切りに即売会を始め、最盛期には年に10回以上の即売会に参加しておりました。その頃はお客様も目録で注文された品を会場に取りにこられ、そのついでに他のものも買っていただくという活発な時代でした。
 暫くはそんな商いを続けておりましたが、そのうちに「日本の古本屋」が始まり、弊店も平成11年より参加させていただきました。今ではネット上にさまざまな古書のサイトがありますし、有力な古書店は立派なホームページを持っておられ、ネット販売が主流になりつつあります。時間と空間に煩わされずに買い物ができるためこんな便利なものはありません。実際、お客様が注文してくださる時間を見ると夜中に買い物をしておられる方が大勢いらっしゃいます。地域も全国にまたがり、時々外国からもご注文をいただきます。
 当然の事のように目録でご注文をいただいていたお客様もネットでご注文をいただくようになりました。ネットの時代になってつくづく感じるのはお客様が動かれなくなったことです。即売会の目録で注文してくださる近所のお客様でさえも即売会の会場・店に取りにこられなくなりました。随分変わったものです。お客様の顔が見えなくなり、楽しい古本談義もできない味気ない商売になりましたが、これも昔気質の古本屋の言い草でしかないのかもしれません。
 こんな風ですから、弊店は即売会を減らし始め、今では年に2回になっております。来年は一度もないかもしれません。
 古本屋になった頃、業界の大先輩が「自家目録をだして一人前の古本屋だ」と言っておられたのが今でも頭の隅に残っております。販売形態が以前とは変わりましたので、紙の目録が今ではホームページに変わったのかもしれません。目録であれ、ホームページであれ、自分で編集した頁をつくり、お客様に楽しみながら本をお買い上げいただき、たまには店にも遊びに来ていただく、そういう古本屋にまたなれたらと思います。
 デジタルに疲れた方たちがアナログを懐かしむという傾向があるように聞いたことがあります。そういえば最近なんとなく店頭にお客様が戻ってこられたような気がしないでもありません。またお茶を飲みながら、お客様と楽しい古本談義ができるようになるかもしれません。

日本古書通信社:http://www.kosho.co.jp/kotsu/

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日本古書通信掲載記事 がんばれ!古書業界!

がんばれ!古書業界!

神田駿河台 文化学院 瀬川 茜

 総てのものがその組み立てを根元から見直さねばならぬこの時代に、私達は何をその「柱」としたら良いのか。
 古来日本独自の文化として学問のみならず人々の生活に貢献してきた古書の世界が、その伝統をくずされ、本来の働きが変質しようとしています。今こそ「本」というものはいかなるものか、あらゆる淘汰を生きのびてきた古書のもつ価値とはなんであるのか問いなおさねばなりません。
 絵画きの家に育った私にとって古本や目録は常に身の回りにある馴染み深いものでありましたが、つい最近古書業界の方々と仕事をするようになるまで、その本当の意味に気がつきませんでした。ではその意味とは何か。
 本は人です。古本は亡くなった人の魂そのものと言えます。短い寿命しか与えられていない人間は、その人生で得たもの学んだものを後世に伝える為いろいろな手段を用います。ひとつは人から人へのナマの伝達。親から子へ、師匠から弟子へ、上司から部下へ、日々の生活の中、生きる姿勢や知恵が口伝を持って、または無言の後姿で伝えられていきます。これが最も広く全人類を貫通して行われてきた本来の継承であろうと思われます。もうひとつはカタチを残すことです。子孫を残すこともそのひとつでありましょう。芸術家は作品を残し、文字を書く人は書類や手紙や本を残します。なぜモノのカタチとして残すのか。口伝や体得したものだけではだめなのか。それは人間が「忘れる」からです。日々忙しい脳ミソの働きの中で古人の伝えようとした心を「忘れる」のです。そしてそれを思い起こさせる起爆剤となってくれるのが残されたモノのカタチなのです。
 鬼と言われた法隆寺の宮大工、西岡常一氏は、「建物を残しておけば、後でそれをこわせばわかる。」と語っておられました。千年たって薬師寺の西塔を分解すれば、西岡さんの求めたもの、伝えようとしたものがわかるはずです。
 学問における遺産はまさに「本」であります。テープレコーダーの無い時代に「本」はまさに古人の言葉を記録した、その人本人に他なりません。ずっと昔、人間が文字でことばを記録するようになって以来積みあげられてきた本の数々。各時代の淘汰を経て生きのびてきた本達。そのお宮を守り続けてきたのが古書業界の人々です。
 英詩の授業でジョン・キーツの「ギリシアの甕に寄す」をとりあげようと思った時、父の蔵書に村田數之亮先生の「ギリシヤの瓶繪」というアルス文化叢書の古本を見つけました。ネットで調べれば美術史のデータとしてあらゆる情報が手に入るのでしょうが、私は会ったこともない村田先生の瓶を見る見方にとても魅かれました。図書室の人が何気なく机にのせてくれた英詩の古いアンソロジーをあけた時、その序文に脈打つ山宮允先生の詩歌に対する思いに感応したこともあります。職員室で埃をかぶっていた巨大なWorld Atlasの献辞には「世界の男、女そして子供達へ。地球とその人々に関する知識をふやすことによって、お互いの問題を理解することにつとめ、そしてこの理解を通して、民族のコミュニティが平和に生活する為尽力する。そういった人々に、エンサイクロピィディア・ブリタニカはこの巻を献げる。」とありました。迫りくる大戦前夜一九四二年にシカゴ大学で刻明な地図を残して世界に貢献しようとしていた人々を思うと涙がこぼれます。
 こういったものがなぜ私の目にふれるのか。それは、それを拾ってくれた人、残して守ってきた人々がいるからです。古書業界の皆さん。経済的に自立できなければ仕事にならぬのは、少子化による経営難に苦しむ学校も同じです。ビジネスとして成り立たせながら、どうやって魂のバトンを子供達に渡していくか。スピードを重視する世の中で、手間のかかる学問の芽を育てるにはどうしたらいいか。しかし、私達は誇りを持って古人の心を後世に伝えねばなりません。そして私共自身、迷った時、困った時、行く先を見失ってしまった時、いにしえにかんがみ、先祖の足音に耳をすませて、そのむかおうとした先を見きわめねばならぬのです。

日本古書通信社:http://www.kosho.co.jp/kotsu/

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日本古書通信掲載記事 即売会は観察される場である

即売会は観察される場である

群馬前橋・山猫館書房 水野真由美

http://members3.jcom.home.ne.jp/yamaneko-kan/

 開店から二五年間、参加している即売会は、ほぼ群馬県内に限られる。
 会場は市街地の百貨店、スーパー、郊外の大型店、新刊書店などだ。それぞれ売れ筋が違うため在庫の負担は大きいが、お声が掛かれば何でもやる。
 店も文学書や美術書が多い程度の普通の町の古本屋である。
その範囲で感じる即売会の変化はどんなことがあるだろう?
 ここでは参加店で合同目録を発行している百貨店催事について考えてみたい。
 まず同一会場での開催が不安定になった。
 前橋市では市街地の大型店で二十数年間、正月に「吉例大古本市」を続けていたが同店の撤退により二〇〇三年に終了した。地方では市街地という場が成立しなくなったのだ。
 その後、同じ地域で別の季節に開催していた新刊書店ギャラリーでの古書展が県内における中心的な催事となり、開始から五年ほどで、お客様から「夏の古本市」と呼ばれるようになった。だが、それも営業方針の変更でギャラリーが閉鎖となり、終了した。高崎市の百貨店での催事もあるが定着するまでに至っていない。
 同じ県内でも開催する地域、会場によってお客様の傾向は違う。高額な趣味書は売れるが、じっくり読む本が売れない会場もある。その逆もある。会場の変化で手探りが続いている。
 昨年からは前橋市の市街地に唯一、残った百貨店で即売会を開催している。「前橋に古本市が帰ってきた」と喜んで下さるお客様の声は嬉しいが来場者数はあまり多くない。だが百貨店側からは「普段、来店しないお客様が多いですね」と言われた。元・文学少女も含め、デパ地下では呼び込めない本好きの中高年のことだ。
 かつて古本市は、その魅力の一つとして子供からお年寄りまで、どんなお客さんが来ても、それなりに楽しめる催事だと言われたが客層は変わった。たしかに若い人が少ない。アニメや宝塚などのファンもいない。
 そして高齢化は会話を増やした。探求書だけでなく、「お宝を持っているけど、いくらになる?」などの質問、さらに本や家族の思い出話にもなる。「こんな私で良かったら!」とお話しを伺う。
 また地方では多くの人を集めることが、どんどん難しくなっている。即売会の記事が地方紙に掲載された場合、かつては会場が狭く見えるほど来場者が増えた。現在では効果はあっても二、三割増しぐらいだ。一つのメディアに反応する人数が減り、複数のメディアでの広報が必要になった。
 商品の変化で言えば店売りの傾向と同じで、一般的なコミック、文庫、児童書を持ってくる店はほとんどない。また見事に売れないのは重くて嵩張る全集物だ。
 抱え込んだ本をレジに積み上げるお客様も殆どいなくなった。目録と同じで珍しい物のピンポイント攻撃だ。但しそれが流行り物ならサイクルは短い。
 客数は少ない、売れ筋も少ない。ならば高額の商品でそれをカバーするという考え方もできるだろう。だが、ここまで来たらそんな仕入れは、しない、出来ない、やりたくない。
 自分が読みたい作家や持っていたい写真集、画集にしかお金を出せないっ。
 今更ながらだが、最近、お客様に教えられたことがある。
 私好みの文学書を一週間位の間に何度も売りに来てくれた方とその本について話していたら「やっぱり山猫さんで良かった」と言われた。
 「どこかでお会いしましたか?」とお聞きしたが違った。
 会ったのではなく見たのだと言う。古本市で猫の絵のラベルが付いている本を買い、会場にいた私を「太っているけど、きっとあれが山猫だ」と一目で分かったそうだ。そして、もし本を売るならあそこだと思ったらしい。即売会は本を売るだけではなく、店が観察されている場でもあるのだ。
 そういえば二五年前、初めての即売会で稲垣足穂を買ってくれた最初のお客様は、その後、飲み友だちとなり、今では一緒に雑誌を出している。
 というわけで即売会、恐るべし!

日本古書通信社:http://www.kosho.co.jp/kotsu/

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