『ダンセイニ、その魅力』(後編)
小野塚 力
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つぎにダンセイニ作品の流れから考えてみたい。処女作品集である「ぺガーナの神々」は、ダンセイニの幼少期に見た無垢なる記憶が 〈神話〉という形で形象化されている。ダンセイニ好きで知られる作家、稲垣足穂「一千一秒物語」にもいえることだが、両者とも〈世界解釈〉(=〈神話〉)の物語という側面がある。その視点から切り込むのであれば、風土的な差異と作家としての嗜好の差異とがそれぞれの作品の違いになっていることに気付かされる。「一千一秒物語」には、足穂の人工物への傾斜があり、そしてなにより月も星も人間と等価に存在する世界である。そこには絶対的な存在が前提として存在しない。すべての事物はオブジェとなり、永遠の運動をくりかえす。宇野邦一氏のいう「和製の未来派、星菫派」の装いにつつまれたモダンな〈神話〉なのだ。一方、「ぺガーナの神々」は、絶対者が夢みる多神教的世界という構造に絶対者という意識が ある時点で一神教的な価値観の投影を感じさせる。結局のところ、根本的なところには「ぺガーナの神々」にも西洋的な根が存在している。両者に共通するのは、世界そのものも突き放す創作者としての自我の強靭さである。これは、ある種の強みといってよいかもしれない。創作者としての強靭さが二人の作家としての長い歩みを耐えさせたようにも感じられる。「ぺガーナの神々」における暫定的な脆い多神教の世界には、儚さゆえの美しさというものも計算されていたようにも思う。原初性、つまり、自分の言葉で世界を把握することのできた黄金時代、そうしたものは当たり前だが一回性を前提とする。しかし、こうして形象化されたダンセイニの幸福な記憶は、読書という行為を経ることでなんどでも復活する、ある種の永 遠性、不死性を獲得することになったのではないだろうか。
「ぺガーナの神々」における唯一神の夢見る多神教的世界、「ヤン河の舟歌」における、アイルランドから来た「私」が見聞する多神教の世界という構図に、ダンセイニの内的な緊張関係の投影を認めるとするのならば、そこにはダンセイニ自身の〈汎神論的感受性〉と〈一神教的価値観〉の〈対立〉をみいだすことができるのではないだろうか。初期ダンセイニの創作衝動は、すべてこの内面における異なる価値観の衝突から起因しているように感じられるのだ。そうした文脈で考えるのならば「サクノスを除いては破ることあたわぬ堅砦」などは、ダンセイニ自身の未知の領域である内世界における汎神論的なものを一神教的なもので照らし出そうとした軌跡を冒険譚としてのこしたのではないかと思うのだ。龍殺しを経ることで敵である魔術師と対等の地平にたつ英雄レオスリックは、結果として人間世界への回帰を許されない。それゆえにラストの強制的な距離感を設定する、有名なあの一文が登場することになるのだろう。レオスリックの内的な探索行もやはり一回性のものであったのだろう。「ヤン河の舟歌」においても以降の二部作で「私」が二度と川鳥号に乗船することができなかったように。こうした初期作品から認識される作家としてのダンセイニの気質に、風景先行型、閃き重視、短編型という側面を認めることができよう。
さて、初期ダンセイニにおいて総決算的な色彩をもつ長編がある。傑作「エルフランドの王女」である。初期短編に好んで用いられた主題がすべて投影され、妖精の王女と人間の王子との恋愛をめぐるファンタジーであるが、この作品のラストには、ダンセイニの作家としての変化が投影されている。これまでの作品世界を支えた〈対立〉という要素が〈融和〉に変化しているのだ。「エルフランドの王女」の最後は、妖精の国と人間の世界とが一体化した形で終わる。ここにダンセイニ自身の感受性の問題の投影を認めるのならば、どのようなことがいえるだろうか。ひとことでいえば、妖精の国に〈汎神論的気質〉を、人間の国に〈一神教的価値観〉が仮託されているとするのならば、それは二つの異なる価値観の〈融和〉でしかないだろう。そして、この「エルフランドの王女」以降に登場した「ジョークンズもの」つまり、ホラ話という形態で、幻想を現実世界に〈融和〉させるという作品群が登場し、ダンセイニは、ハイ・ファンタジーの世界から離れ、現実と夢想の交錯した作品世界を増加させてゆく。つまり、ダンセイニは「エルフランドの王女」の発表以前と以降とで作家としての相貌を変化させるのだ。いわゆるファンタジーの祖としての役目をダンセイニは「エルフランドの王女」を執筆することで終えたようにも感じられるのだ。
私が「エルフランドの王女」のラストシーンに感じた異世界の輝き。しかし、けっして届くことのない、たどりつけない場としての距離感の生み出す美しさ。こうした距離感によって保証される幻想美は、やはり儚さを基調とした夢想そのものに近いのだろう。ただ、そうした幻想性をメインとした形での作家像の把握に私は違和感を感じる。より端的にいうのならば、荒俣宏の論考にあるような作家を神秘化、絶対化するような志向には一切賛同することができない。荒俣宏の恣意的なダンセイニ紹介はすでにあきらかだが、この荒俣史観ともいうべき前提からダンセイニをとらえる限り、新しいダンセイニへのアプローチは決して生まれることはない。作家の神格化からはなにも生まれないからだ。時代は常に動き、人の価値観もまた 流動的である。そして、時代時代によって作家像も変貌する。その時代にそぐった新しいダンセイニ像を読み手ひとりひとりが確立すればよいのだろう。逆にいえばそれだけ柔軟かつ豊かなものをダンセイニの遺した作品世界には内包されていると私は確信している。 |
『ダンセイニ、その魅力』(前編)
小野塚 力
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幻想作家、ロード・ダンセイニ。ある人にとっては「エルフランドの王女」「ぺガーナの神々」に代表されるような幻視者としての側面が重要視され、ラヴクラフトを魅了し、トールキンやル=グインらへの影響が顕著なファンタジーの祖の一人として意識されている。また、翻訳家であり歌人でもあった片山広子に積極的に紹介され、菊池寛らに大きな影響を与えた戯曲作家としてもしられている。いずれにしても、作家ダンセイニをめぐる評価軸は多岐にわたっている。
日本におけるダンセイニ受容をふりかえると大きく分けて二期にわけることができよう。ひとつは、大正から昭和初期にかけてのケルト文藝復興運動と関連した形での戯曲作家としての受容、そして戦後のファンタジーおよびミステリーの書き手としての受容である。戯曲作家としてのダンセイニ受容を語るうえではずせないのが、前述した、翻訳家松村みね子こと片山広子である。歌人としての評価も高い片山広子であるが、芥川龍之介ファンならば、彼女が晩年の芥川から「越し人」とよばれプラトニックな恋愛関係にあったことを知る人は多いだろう。芥川からもその才媛ぶりを認められた片山広子であるが、大正から昭和のはじめにかけて、松村みね子の筆名で、シング、ショオ、イエイツ、ダンセイニらのアイルランド文学作品を翻訳し紹介している。(なお、ダンセイニ戯曲については現在、沖積社から「ダンセイニ戯曲全集」が刊行され、比較的容易に手にとることができる。)片山の訳は平易かつ格調が高い理想的な文章で貫かれている。他方、「かなしき女王」の訳では雅文体に近い韻律の美しさを優先させた文体で翻訳をおこなっている。このあたり、片山広子という女性の非凡さを如実に感じさせる部分である。
片山のこうした貴重な訳業から提示される戯曲作家ダンセイニの作品世界は、シンプルな構成の中から提示されるダイナミズム、一貫してながれる緩やかな虚無感、どこか神秘的なものをかんじさせる東洋的な舞台立ての多さなどがその特徴といえるだろう。ダンセイニをはじめとするアイルランド文学の影響は、芥川や菊池寛、久米正雄といった第四次新思潮派にも認めることができる。特に菊池寛においては明白だ。卒業論文がアイルランド戯曲についてであり、また、ダンセイニとの関係でいえば、片山の「ダンセイニ戯曲全集」の序文を執筆し、自身の戯曲「閻魔堂」においてもダンセイニ「山の神々」からの影響が指摘されている。久米正雄も自作「地蔵教由来」について、ダンセイニ「山の神々」を参考にしたという久米自身の証言が報告されていたのを読んだ記憶がある。こうした事象から浮かび上がる大正から昭和初期にかけてのダンセイニ観は、劇作家としてのイメージであり、現在流布しているような幻想作家としての側面は殆どない。むしろ現在ダンセイニを代表する初期短編世界の魅力について取り上げた文章はこの時代皆無といってよいだろう。ダンセイニの幻想性を称揚する見方は、戦後しばらくをまたねばならない。
日本で戯曲作家として受容されたダンセイニであるが、戦争をはさんでしばらく忘却状態が続く。そして、戦後のダンセイニ受容を語るうえで決して外すことのできない人物が現れる。作家、荒俣宏である。自身の幅広い活動の初期において精力的に幻想小説を紹介しつづけた荒俣宏であるが、ことダンセイニへの惚れこみようは半端ではなく、「思潮」におけるダンセイニの幻想小説の紹介の記事とダンセイニ論は大変な熱気に包まれている。荒俣宏のこのダンセイニ論は、作家を「幻視者」という規定のもとに、その〈幻想美〉を称揚するものとなっている。事実、荒俣宏のダンセイニ紹介は、そうした路線を決して裏切るものではなかった。自身が精力的に構築した「幻視者ダンセイニ」のイメージをまもるかのように。このファンタジーの祖、幻視者という典型的なダンセイニ像は今も多くの鑑賞者に印象つけられているのではないだろうか。「二瓶のソース」のような軽妙なミステリーの書き手という評価もあるだろうが、ファンタジー関連の評価の方が優勢を占めているだろう。しかし、河出書房から刊行されたダンセイニの初期短編集の全訳は、これまでの幻視者ダンセイニという固定観念を崩しかねないものをはらんでいる。こうした短編集に収録された多彩な短編群から浮かび上がる作家としてのダンセイニは、わりあいに様々な作風に対応する短編小説家としての顔をみせている。
(次月 後編に続く) |
大阪モダン古書展より
大阪・矢野書房 矢野 龍三
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ようやく朝晩涼しくなってきました。今年の夏は本当に暑かった。私共にとっても大阪古書組合での月いち即売会・百貨店での催事・恒例のOMM大即売会・モダン古書展・お盆の天神橋おかげ館プチ古本まつりなどなど、まさに古書即売会夏の陣といった様相を呈しておりました。その内私共の仲間みんながガンバッタ「モダン古書展」での「古本サミット」の様子をクライン文庫さん、モズブックスさんたちのレポートを参考にご報告申し上げたいと思います。又、今後も続く即売会の宣伝になればなどと考えております。
〈古本サミットⅠ・Ⅱ〉
於・大阪古書会館/芦屋市美術館 平成20年6月7日(土)午後1時より、大阪古書会館6Fの会議室にて「古本サミット VOL.1本の買い方」が行われました。当日は、古本屋を中心に、新刊書店の方、一般のお客様を含め約30名が参加。最初に、司会のクライン文庫・フルカワさんより趣旨の説明。以下の四つのテーマに沿って活発な議論がなされました。
(一)古本屋さんは、如何にして本を買うのか。 市会が中心で、客買いは難しいとの発言が相次ぐ中、天牛堺さんからは市会よりも客買いの方がやりやすいとの御意見。一般の方は、古本屋側の利益分も含めてこの金額になると、きちんと自信を持って説明すれば納得していただけるが、市会では儲からないぐらいの高値になることもあるから、と。
(二)古本と新刊本の買い方に違いはあるのか。 新刊書店にお勤めの方からは、「やはり違う。いつも新刊書店で買っている人は、品切れ本で古本屋にならあるかもと御案内しても、古本屋まで探しにいかないのではないか。あと、今テレビで紹介してた本と言って問い合わせてくる方も多い。そういう人は古本屋には行かないだろう」との御意見。
(三)古本の販売価格はどのように決まっていくのか。 古本屋にとっては企業秘密的なところもある話しにくいテーマだと思いますが、「相場は過去の経験から決まってくる」「仕入れ値と経費を考慮して付ける」となかなか堅実なお答え。「日本の古本屋」が出来たことで、値段の付け方が変わってきたのでは? との問いかけにも、「参考にはするけど、あまり左右はされない。そういうものが通用しない商品もあるので、そこでいくらの値段を付けられるかが、古本屋の力」と頼もしい意見が出されました。古書象々さんからは、「自分はまず生活者なので、その日のお金の要り用によって値段を決める。」とのユニークな発言もありました。
(四)古本の価格は、本当に、安い方がいいのか。 一様に「安いにこしたことはないでしょう。」とにべもない返事が返されましたが、「安く付けすぎてお客様から怒られたことがる」というお話も。一括で買った映画パンフを目録に載せた時、希少品が混ざっていて、知らずに安値を付けていた為、注文が殺到し、こんな値段では絶対ハズレてしまう!と抗議されたということです…。このあたりで時間切れ。 続いて7月19日(土)モダン古書展(芦屋)にて「古本サミット VOL.2本の売り方」が開催されました。古書店主11人とお客様およそ20人が対面形式で着席し、討議。各古書店主がそれぞれ力を入れている「売り方」を披露するなど、前半は古書店サイドに発言機会が多かったようですが、後半からはそれを踏まえてお客様のご質問に答える形に移行し、積極的な討論、意見交換が行われました。サミットは予定の2時間を大幅に超過し、休憩なしに2時間半近くも続きました。 お客様からのアンケートには「古本屋さんたちの本音・問題点が聞けて、非常に参考になった」「各店主さんのお顔と肉声にふれることができたのが収穫でした」という声をいただきました。 われわれ古書店主も、帳場の奥にじっと座っているだけでなく、こういう機会を設けて、お客様の声をじかに聞かせていただくとともに、お客様に対して古本屋のやろうとしていることを積極的に発言していく必要があるのかもしれません。そういう意味では、大阪と芦屋で行われた2度の「古本サミット」は、古本屋にとっても、いろいろと大きな収穫がありました。 〈『谷町月いちAuAu通信』について〉 AuAu通信は「谷町月いち古書即売会」会場にて配布いたしますが、遠方で会場には行けないけれど読みたい! という方は『AuAu通信希望』とお書きの上、下記「谷町古本の会」迄お申し込み下さい。無料で送付いたします。 |
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ひとつの古書展を通じて
神田・西秋書店 西秋 学
http://nishiaki.jimbou.net/
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私の参加していた「アンダーグラウンド・ブックカフェ 地下室の古書展」(以下、地下展)は、本年六月の第十一回をもって、ひとまず終了した。ポスターや目録に「ファイナル」と記載したためか、多くのお客様に惜しんでいただいたのは嬉しい限りであった。 そもそも地下展は、新・東京古書会館に作られた新しい設備をフルに活用すべく始まった古書展であった。とは言え、最初は我々も何をやっていいのか分からず、知人の協力を得て、どうにかこうにか映画上映と展示を併催した。イベントも古書展も初めてにしては中々良い内容であったが、いかんせん平日の初開催。来場者数の面では決して満足のいくものでなかった。
ここで一念発起した。もっと色々やらねばならないと。ただでさえ新規参入、平日開催のハンデがあるのだから、普通ではだめだ。 地下展の諸先輩方は実に寛容で、まずダメとは言わない。「新しい設備を活用する」をまさに額面通り受け止め、トークショー、落語、映画上映、ライブ、ワークショップ、展示、フェア。思いつき、実現できるイベントはドンドンやってみた。
日程も組合に要望して日曜初日とした。ご存知のように日曜の神保町はいささか寂しい。最初は不安だったが、驚くほど人が来た。 新しい客層を開拓せねばならないと、チラシを新刊書店、美術館、カフェ、雑貨店などに撒いた。撒いた……と簡単に書いたが、当初は苦労ばかりだった。何しろお膝元の本の街・神保町ですら、「古書会館」「古書展」という言葉が通じない。本当に愕然とした。 イベントのおかげで来場者は増えたが、かならずしもすべての方が本を購入する「お客様」にはならない。イベントに参加し、展示を見るだけで帰られる方もいる。じゃあ何のためにやるのかと言えば、話題性・広報の面が大きい。何も買わない来場者の方も、イベントや展示の様子を自身のブログで報告してくれる。これが次に繋がる立派な宣伝になっている。そして主催者である私達が「楽しい」。これが大事。
一方で「買う」お客様が増えていったのもよくわかった。注文品の受け取りとは別に、ある程度の高額品がよく動くようになった。理由はわからないが、ゆっくり見られるような落ち着いた会場の雰囲気のせいだろうか。また客層の幅が目に見えて広がっていった。これほど女性客の多い古書展は無かったと思う。 これらの新しい動きの多くは、お客様や異業種との交流から生まれたものだ。投げかけてみれば、必ず反応があった。昨今、業種を超えた「本」のイベントが各地で盛んである。悪いニュースの方が多い「本」の業界だが、明るい話題はまだ作れるはずだ。 |
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育った時代の本を中心に
福島・岳陽堂書店 斉藤 俊一
http://www.e-furuhon.com/~gakuyodo/
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岳陽書店はこの九月で開店二十五年目となった。この間、試行錯誤の連続で、おおよその同業者なら出会うことであろうことを経験してきた。 どれもが中途半端なかたちで実を結んではいないのだが、とにかく二十五年の間に古本屋として過ごせたのは幸運だと思う。 現在、店舗は閉めて事務所のみの営業となっている。そのため売上の一〇〇パーセントをネット販売に頼っている。自店のホームページと東京古書組合がたち上げた「日本の古本屋」への参加だ。
ともに目標とする数字には達していないのが現状だが、とにかく日常の業務としての本のデータの入力と更新だけは心がけている。 当店の場合、ホームページは全国の古書ファンに岳陽堂書店という存在を知っていただく格好な手段であり、「日本の古本屋」は本を売る場所と割りきっている。「日本の古本屋」の検索で探していた本を見つけていただいたついでに、当店のホームページに来ていただき、品揃えを知っていただければいいと考えている。
ホームページには人文書を中心に約二万点の在庫を掲載している。日本歴史や昭和史、教育など十五のジャンルに分類している。その「哲学」の品揃えを見た方から「四十年前にワープ」したかのようだ、とのご指摘を受けたことがある。うれしい限りだ。意識したつもりもないが、自分の育った時代の本はひそかに集まってくるものらしい。この大分類の下に独自の小分類によるジャンル分けをしている。そしてこの小分類を関連づけるために、あえて小分類ごとの区切りを入れないことにしている。ホームページ上で本棚の間をめぐっていただく疑似体験を味わっていただけたらいいなと思っている。
本の仕入れのさい、未知の本を手にすると今でも心ときめくのはこんな理由かも知れない。 当店のホームページは探求書を探すためのものだけではなく、本と出会うという方向性ですすんでいきたいという考えだ。 どうか一度、岳陽堂書店のホームページを覗いて見て下さい。 |
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新しいもの好き
東京・金井書店 花井 敏夫
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その昔、ソニーから高性能ポータブル計算機が発売されていた。電子そろばんと言われた時代である。古書通信誌位の大きさで、縦横の計算もできるメモリー付、一六桁の当時としては画期的な製品で、欲しくてたまらなかった。価格は七万円弱かと記憶している。販売店も少なく、探し当てて買い求めた。同等の性能を持つ電卓は、今なら千円程度である。
古書業界にお世話になったのが二〇歳頃、とても多くの方々に可愛がられた。金井一雄の孫として、花井由松の息子として。おかげで、小遣い稼ぎもタップリとさせていただいた。例えば、目録用の写真撮影。チョットだけ、撮影技術を学んでいたことがとても役に立ったのである。古書展の準備や片付けなどにも良く出掛けた。 このお小遣いをコツコツ貯めては、新しいものを買う資金にしたのである。新製品が出るとカタログを集め、眺めてはその性能をチェックした。レンズ一本買うにしても、ニッコールクラブに所属していた関係から、三木淳先生に相談しながら購入した想い出がある。親身に相手してもらえたことの有り難さは後年にしみじみ感じ、感謝一杯である。 一〇〇インチプロジェクター、VHSビデオカメラは買ったもののあまり使わなかった。 パソコンはPC9801(NEC)を八〇年代半ばには使っていた。早いほうだろう。ホームページは九七年からスタートしている。携帯電話は一八年を超えた。
さあ、話題を本業のことに移そう。 この新しいもの好きが、八重洲出店への原動力であったのかと思う。スーパーダイエーの出張販売で「人の集まるところなら古本は売れる!」と確信し、新宿駅周辺への出店を目指したが、その当時急成長した日本初の貸しレコード店「黎紅堂」に出店競争で破れたり、門前払いを受けたりと出店先が決まらず時間が経過した。釣り好きで、釣りの本を集めていた懇意のお客様が不動産仲介をしており、この方のネットワークが功を奏し、昭和五八年、八重洲への出店が決定した。 業界に入って一二年、自分なりの古書店像を描き具現化し、今日に至る出発点であった。幸いなことに、古本が売れている時代で少しの努力が大きな果実となった。
自店の位置づけは…新規顧客の獲得が最大の使命で、買取が二番目である。自店が繁栄して欲しいと考えるのは誰も同じで、品揃えやサービス、立地で各々努力するのだが、業界としてのパイ(顧客)が大きくないと各自の努力効果が減少してしまう。パイを大きくするのは一軒一軒の古書店であり、自店のお客様が古書の世界に興味を持ち、他店を利用するようになればよいし、業界により良い商品が環流するよう仕入にも努力することが肝要であろう。 R.S.Booksと八重洲古書館で頑張っていることは…まず、入りやすい店づくり。ショッピングセンターに相応しいファサードと内装、店内の見やすさに配慮して、更に、チョット個性的な設計で魅力アップ。陳列は面出しを多用して引きつけポイントを増やしている。そして、何より重要なのが、接客。専門的な古書関連の質問よりも、それこそ、道案内から始まる。初めて立ち寄る方、初めてお買上になる方、リピーターとなっていただくには第一印象が大事。SC協会が掲げる「もう一度この人に接客して欲しい」と思われるようなお客様にとって満足・感動を与える接客を目指したい。ポイントは「好感度・コミュニケーション力・販売力」であり、売買共に影響力は大きい。その延長線上に顧客獲得による業績アップが見込めるのだろう。 全国の古書店が毎月一〇人の新たなお客様と接すると、年間一二〇人、全国では二七万人になる。その一割がリピーターになれば、二万人以上の購買力がアップする。新古書店の成長ぶりを見ていると充分考えられることであり、こういったことを意識することから何かが生まれるのだろう。
古書業界は、「商品」に多大な投資をして、本と専門知識が財産であったが、近年はその評価が相対的に下がっている。価値観が変わってきているのだ。古書店は特別なものではなく、一般的なものであるべきなので、不特定多数の顧客のもとへ我々が出向く、近づく努力、投資が必要なのだと思う。販売ツール「日本の古本屋」はその一例である。次は、仕入にかかわる流通ツール。古書店が都市部に集中すると全体として集荷能力が落ちると思うが如何だろう? 品揃えや工夫された展示が好評の青山ブックセンターでさえ自立できない現実、古書店も元気になれない現実、だから、業界として新たなビジネスモデル構築が必要なのだろう。新古書店は昨今の出版事情に左右されるだろうが、我々の取り扱う書物たちはまったく次元が違い、工夫次第で愉しい商いができることであろう。
異業種のオーソドックスな販売、宣伝手法が自店にとっては新鮮であったり、真似することで新たな窓が開いたりしている。常識破りが受け入れてもらうきっかけとなる時代かもしれない。ファンづくり、古書人口増加を大きな目標にしたら如何だろう。 私の思考回路は古書業界に馴染まぬ点が多く、独自な道を歩んでいるが、内外で大きな石を動かすきっかけに幾度となく遭遇したのはよい経験であった。頂戴した様々な知識や経験を生かして、賑わいを確かなものにしたい。 古書業界に、新風とともに賑わいが増すことを祈念したい。 |
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二年連続売上増
熊本・舒文堂河島書店 河島 一夫
http://www2d.biglobe.ne.jp/~jobundou/
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店の決算月は三月である。毎年のことではあるが、その時棚卸をする。大変な作業である。二か月以内に申告となるので、五月末までに申告しなければならない。税理士さんがまとめて持って来られる時は、学校での成績表を見る思いである。昨年度の結果は、五年前の売上にもどった。
店を新築した時が十三年前になる。同時に、店を有限会社にして毎月の経理を税理士事務所に委託している。店を新築した時は、まだ景気は左程悪くなかった時期だった。一年目も売上はよかったが、二年目はもっとよかった。大台の売上を記録した。この先、十年後はもっとよくなるだろうとその時思った。しかし、思いに反して三年目は売上が落ちた。初年度よりも悪かった。それから、毎年微妙に落ちていくのである。その後も八年間で初年度の七割の売上まで落ちた。一昨年の売上が、久しぶりにその前の年度より良かった。その時やっと右肩下がりの売上のグラフがちょんと上向いた。税理士さんに経理をお願いした時から、売上や在庫等をグラフにして持って来られるようになったのだ。何年ぶりかに前年度の売上よりよかったのかとグラフを見て思った。この春のグラフは、一昨年度より、またぐっと右肩上がりの線になっていた。二年連続売上増である。やっと底から脱却したかと、少々安堵した。
細かな売上の内容は差し控えるが、売上増の要因は、ウブな史料性が高い仕入れが数回あったためであろう。それも一点が数十万円から百万円を超えるような仕入れにめぐりあえたことであろう。やはり良くて高額の品物を扱わないと売上は伸びないと思ったし、良い品物は高くても売れていくものだと思った。もうひとつある。店売りが回復してきている。一日の最低売上の金額も大きくアップしている。入店者も増えてきている。若い女性が増えたのは場所がらかもしれないが、嬉しいことである。
私は、多くの方々から教えを受けながら商売をしてきているのだが、その中でも反町茂雄氏に出会えたのが、一番の商売の糧になっている。私は熊本で商いをしているのだから、細かな本の知識などを受けたわけではない。この商売をするにあたっての心構えのようなものを反町氏に会う度に、叱咤されながら教えを受けた。「いいですか、同じ本を扱うのに安い本を扱うも高い本を扱うも同じ時間を要します。それだったら高い本を扱う方が、商売として良いに決まっているではないですか。できるだけ良い本を扱うように努めなさい。」そのようなことを、会う度に言われたことが体に沁み込んでいる。良い本とは、この商いの本流となるようなものをいうのだと思っている。歴史的資料性の高いのもその内のひとつだ。
それともうひとつ、売上が伸びたのは、東京や関西等の同業者の方々との交流があるのも大事なことだ。地方にいれば特に、多くの業界の方々と親しくなることは業績を伸ばすひとつに他ならない。最後に、長男康之が二年前から店を手伝い始めたのも売上アップに繋がっている。特に、目録作成や学校関係の接客は雄松堂書店仕込みで頼もしい。 今年度も、今までの良かった面と悪かった面をよく考えて、二年目の売上まで回復するよう頑張っていきたい。 |
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競り場の戦争
福岡・葦書房 宮 徹男
http://www.ashishobo.com/
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「五万」「十万」競り人の五万の発声から始まった江戸初期の文書四点はすぐさま五十万の大台を超えてしまった。声を出しているのは、私と同業のA氏。会場は福岡から高速を使って一時間半の道のりを車で走らせた熊本の田舎。この骨董市場は月二回開催されているが、競られる品物のほとんどは、陶器や道具類で他には掛け軸の軸類と呼ばれるものが、加わることとなる。したがって私たちの目的とする紙類は出ても極僅かである。たいがいは書籍の新古書と言われるもの。地方文書などは二~三ヶ月に一度出れば良い方である。それを承知で我々が毎回顔を出すのは、今日のような古文書が一年に一度くらいひょっこりと出て来るから油断がならないからだ。同業は大体三~四人くらい顔を出している。私は常に親友のI氏と行動を共にするので、敵は大体一人くらいか。
今日も文書は誰でも知っている秀吉の朱印状と、豊後の切支丹大名大友宗麟、他の二通は佐賀の武将龍造寺隆信とその嫡子鎮賢親子のもの。秀吉の朱印状で極普通の内容であれば今は可成り値段は下がっている。宗麟はまあそこそこの値を踏んでよいであろう。A氏もこの二点は踏みきるであろうが、問題は龍造寺の二点である。A氏は龍造寺の文書を誰の武将のものか判断しきらないと私は睨んだ。今、値は八十五万まで来ている。龍造寺は鍋島が佐賀を治める前の武将であるが、近年その文書は市場などで姿を見ることはほとんど無く、是非扱いたいとの思いは強い。隆信の文書は花押ではなく扇形の黒印が押されいて珍しく、このような形の黒印は私も初見である。息子の鎮賢は文書の内容も悪くない。頭の中であれこれ考えを廻らしながら、相手の顔色もそれとなく観察するうちに、百万の大台を超えてしまった。よし、とにかく落とそうと一二〇万の発声でようやくA氏もあきらめて降りた。競り人の五万の発声から一〇分は経過していないであろうが、随分と長い時間だったような気がした。
私は常々思うのだが、古本の業界と骨董の世界での本当に旧いものの出現に、これほどの落差があるのをどのように説明すれば良いのか。 次ぎの話も未だ一年と経たない昨年の夏の事であった。この骨董の市場は月一回の開催で、常に八十人から百人くらいの業者が顔を出す大きな市場である。東京、関西などの骨董業者の顔も見へ福岡では一番活気のある骨董市場であろうと思われる。我々同業もいつものメンバー五~六人が顔を出している。下見で永禄から文禄にかけての古写本から、慶長三年頃の往来物数冊まで江戸極初期の文書は豊後国東の名刹寺院の出と覚しき文書であった。文書を確認しながら鳥肌の立つのを覚えたことを私は記憶している。競り人の発声は一万からであった。私は十万単位で上げていったが、あっけなく五十万で発声は止まり少々気が抜けた気がした。今度も私と競っていたのは同業のA氏であった。地元の古文書は自家目録に掲載することとし、往来物などの古写本類を東京の市場に送ったら、原価をはるかに超える金額が振り込まれて来た。
古本屋の業界と骨董の業界を比較すると、東京の市場は別として九州の古書市場に関する限り、このような事例の出現は皆無に等しい。一年経っても十年経っても古書の市場では遭遇しない商品が骨董の世界では当たり前の如く出現する。今日も早朝より高速を飛ばして骨董市場へ車を走らせている私である。 |
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本棚を作ってみよう
名古屋・山星書店 山田 康裕
http://www2.starcat.ne.jp/~yamabosi/
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前々から物置場としてあまり活用していない部屋を整理して、本棚を置き倉庫としてうまく使いたいと思っておりました。しかし長いこと市販の本棚を見て回りましたが不思議と使える本棚が売っていない。これがまったく不思議な話で、ヤフーオークションのカテゴリーで本棚を見ると九〇〇〇点以上出てくるが、全て目を通しても無駄でした。まず棚板のほとんどがプリント化粧板と呼ばれるスカスカの板であり強度の面でかなり不安がある、また奥行がありすぎるのがほとんどで30センチの奥行に14センチの四六判の本を収めると無駄でしょうがない。プリント化粧板さえ我慢すれば高さ180センチ奥行22センチ、棚板を1・5センチピッチで可動できる本棚も売ってはいるが真ん中の棚板は動かす事ができないのがほとんどで、きっちり四六判、菊判のサイズに合わせて組み上げる事はできない。
どうにも我慢できないのでこれから長く使う物だし、多少面倒でも自分の使いやすい物を自作してみようと思いました。サブロク板(910×1820×21ミリ)をカットして作るため高さ1820ミリ横(棚板)910ミリ奥行220ミリの外枠な感じはすぐに決まりましたが、中身の棚板の間隔は難しい。四六判がうまく入る21センチの間隔ばかりで棚板を組んでいくと菊判、大判の本が入らないし、大きめに間隔を取っていくと本来の目的でない無駄ばかり生じる。かなりの長考の末、四六、菊、大判の割合を3:4:1で決めました。本当はもう少し菊判の割合を増やした方が良かったのですが側板(1820ミリ)の都合上うまく割り振りができませんでした。
棚板の厚み21ミリ×8枚+四六判の入る間隔210ミリ×3+菊判入る間隔240ミリ×3の残り302ミリが大判を入れる棚になります。別に作っておいた菊判の入る棚を上に載っける形で完成です。設計図が完成したので早速近くのホームセンターに行ってみると、サブロク板21ミリのランバーコア材というものが三五〇〇円ぐらいで売っていました。今にして思えば、すぐ隣に売っていたシナランバーコア材(四五〇〇円ぐらい)の方が良かった気がします。ランバーコア材ですと表面がベニヤに近い感じなので塗装を終わった後でもザラザラした手触りが残り、またカットの断面からベニヤがくずれて木屑が出てきます。
シナは表面がさらさらしているのでカット面さえうまく処理をすればニス等の塗装がなくても使えたかもしれません。カットもホームセンターでやってもらいましたが、これがなかなか良く20枚に1枚ぐらい1ミリずれているぐらいの正確さでした。後はビス、ボンド、ニスを買って、鉛筆で正確にけがいた側板に棚板を万能ビス(48ミリ)とボンドで留めていき、ニスを塗って完成させました。13メートルぐらいの壁を本棚で埋めるのに150枚もの棚板と30枚近くの側板を作り700ヶ所以上ビスで留める大変な労力がかかりました。 しかし、最近の仕事のメインであるパソコンと睨めっこしているよりかは遙かに楽しく作業することができた気がします。なにせ本のための本棚ですしね。その本棚を1ミリ単位まで考えて作れたのは古本屋として良かったと思います。結構楽しい物なのでみなさんも一度自作の本棚にチャレンジしてみてはいかがでしょうか? |
日本古書通信社:http://www.kosho.co.jp/kotsu/
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根拠なき希望のありか
東京・日月堂 佐藤 真砂
http://www.nichigetu-do.com/
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百科事典の編集という仕事を終え、いつもの定食屋で夕飯を済ませると、テレビもラジオも置かない自宅に帰って本を読む。見るべきものがあれば美術館へと足を運び、歌舞伎、文楽には定期的に通う。戦没した旧友・知人の未亡人に宛てて時にペンをとるのは、少しでも慰めになればと思うからだ―主を失った家には、こうした日々を積み重ねて集められた膨大な蔵書が残されていた。
聞くところによると、京都帝大在学中に学徒出陣で応召、「回天」の搭乗員に選ばれ、出撃を目前にして終戦を迎えたという。生涯独身を通し、自宅には例え血を分けた兄弟姉妹であれ、誰にも一歩も立ち入らせなかった。だから、庇を接して建つ隣家の妹さんでさえ、家中の様子を知ったのは主の没した後のことだったと。 今年二月から、こうして残された蔵書の整理をお手伝いさせていただいている。蔵書のなかに「回天」の搭乗員として訓練を受けていた当時のノートがあった。どの角度で突っ込めば敵艦にどのようなダメージを与えられるのか、シュミレーションした頁がある。自ら乗艦するはずの「回天」を示す、それはもう小さな丸印から、巨大な敵艦船首に向けて何本も何本も引かれた几帳面な直線。それは、自らの死への航跡に違いないというのに、どの線もまるで建築物の設計図のように精緻で、心の揺らぎや迷いなど微塵も感じさせないものだった。このノートと、学生時代から綴られた膨大な量の日記とが、妹さんご夫妻の手元に残されることになった。
この家の主だった人物が、戦中・戦後を一体どのような思いを抱えて生きたのか、それを想像できるような深い洞察力・想像力を、残念ながら私はもたない。ただ黙々と、私は書架から本を取り出し、重ねて縛るばかりだ。いまは彼岸にある主にとって、書物が物事を思索する上での道具だったのであろうことは、美術畑を専門とされた仕事に関する書物を除けば、硬い人文科学・社会学系の書物が大半を占め、純粋に趣味的なものはミステリ以外に見当たらない蔵書の内容からも推察される。縛る度に積み上がっていく蔵書の圧倒的な物量と、その上に立つべき思索の主体であった人の絶対的な不在。いっそのこと、「鮮やかな」とでも云いたくなるこの対照を、私はどう受け止めればよいのだろう。
書物というものが複製品である限り、再びの入手が叶わぬものなど実際にはごくわずかなものでしかない。けれど、一人の人間が長い時間をかけて集めた本を、一冊も違えることなく全て同じタイトルで揃えることは、至難の業ではないだろうか。命あるもの誰しも等しく、人生は一回きりのものだ。一人の人間が一生かかって集めた蔵書の全体像もまた、その一回性を映すようにして姿を現す。この事実の前に、これらを「塊」として「見る」最後の人間であることに、私はいつも何かしら粛然とした気分を味わうことになる。「塊」を切り分けていく途上には―店頭であれ市場であれ売ることが私の仕事だから―蔵書を「見つめる」はずの私の立場は、いつしか、残された蔵書を通してお手並み拝見とばかり、故人から「見つめられる」ものへと反転する。視線が交錯する。古本屋である私はこうして、今生、出会うことのなかった人たちと、この世で確実に「出会う」のだ。
思えば古本屋になってからというもの、幾度かの、いまは亡き人との印象的な出会いを果たしてきた。ある家の昭和三代にわたる物語とともに、残されたモノを販売することになった「ムラカミさん」や、ウェブ上で特集目録を組んだ「K・K氏」は、なかでも忘れ難い存在だ。そして今回。国家という権力によって生死までをも翻弄され、情報革命の到来を見た二十一世紀初頭までおそらくは書物以外のメディアを信じることなく生き抜いたある男の生涯に、その片鱗ではあれ接することができるのは、古本屋という少し風変りな仕事に就いていて初めて可能になることだ。普通ならいくらお金を積んだところで得られるものではない。誤解を恐れずに云えば、こんな面白い仕事が他にあるだろうか。
生活実態としては極貧に近い状況が続く商いである。本来なら、感傷に足を止め、故人を偲んでいるような余裕などあるわけがない。けれど、故人に対して誠実であること。これだけを見誤らずにやっていけば、いつか少しは楽になる日もやってくるだろう。根拠も理由も全然なく、けれどそんな確信がある。根拠のない確信であれば、例え水泡に帰そうとも、やがて私が彼岸の住人となった時、あちらの世界ではお前も少しは人様の役に立ったかと、頭のひとつも撫でてもらえたなら、すべてよしというものだ。 |
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