『心の流浪 挿絵画家・樺島勝一』について
大橋博之
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『心の流浪 挿絵画家・樺島勝一』(弦書房)を上梓させて頂いた。
「日本の古本屋」を利用されている古書マニアな方々には樺島勝一(椛島勝一)の説明は不要かもしれない。まぁ一応、書いておくと、樺島は1888年(明治21年)、長崎県諫早市の生まれ。大正から昭和初期にかけて活躍した挿絵画家だ。〈少年倶楽部〉に描いた挿絵が絶大なる人気を博した。なんといっても独学で修得したというペン画が卓越しており、写真と見間違うような出来栄えに当時、誰もが舌を巻いた。特に船を描かせれば右に出る者はいないと言わしめた。船はロープ一本おろそかにせず描き込む。さらに圧巻なのは白波うめく波の描写だ。兎に角その描き込みには戦慄が走る。そんなことから〝船の樺島〟と評された。代表作に『正チャンの冒険』、山中峯太郎の『敵中横断三百里』『亜細亜の曙』、南洋一郎の『吼える密林』、海野十三の『浮かぶ飛行島』などの挿絵がある。
樺島勝一をリアルタイムで知る人は今ではそれなりのご高齢の方だ。樺島が最も活躍した〈少年倶楽部〉を読んだという読者は70歳以上だと思う。版元の弦書房は『心の流浪 挿絵画家・樺島勝一』を読んでくれたという方からの、感想をしたためた手紙などをわざわざ転送してくれる。樺島のファンは、やはり今も心に樺島が残っているのだなと感じることが出来て嬉しい。
2014年5月4日の〈朝日新聞〉「読書」蘭で、やはり樺島の熱烈的ファンである横尾忠則さんが書評を書いてくれた。その書評を読んで買ったよ、とイラストレーターの水野良太郎さん(http://ryot-mizno-web-magazine.webnode.jp/)が手紙を私に送ってくれた。
水野さんは「スケッチやデッサンは独学だとしても、実は『スケッチ・デッサンの独学』くらい大変な作業はありません。ましてリアルなデッサンをモノにするのは売れっ子の画家でさえ厄介で面倒な作業。特別に勉強をしなくても画家になれるのは、最初から成熟した画才の持ち主だったとしか思えないです」とプロのイラストレーターの立場から感想を書いてくれている。水野さんのように絵を描く立場からの意見というのはとても興味深い。
水野さんは1936年(昭和11年)三重県四日市生まれ。昭和20年の終戦の時は小学校三年生。最後の樺島世代にあたる。戦火を逃れた家庭には大正や昭和初期の児童書籍や雑誌が大切に残されており、そんなところで〈少年倶楽部〉などもむさぼり読むことが出来たという。そして樺島の絵にも触れ、感銘を受けた。水野さんは樺島の描く絵の「『一瞬停止状態の描写』は当時のハイスピード・カメラで撮った写真のように見えて、リアリズム表現の先端をイラストに取り込んだ感覚を新鮮に思いました」と評する。なるほどと感心。なんとも上手い表現だ。
樺島のファンとなった水野さんは中学二年生の頃に講談社に樺島の所在を訊ね、教えてもらった住所にファンレターと共に自身が描いた絵を送った。すると直筆の返事が届いた。その葉書のコピーも送ってくださったのだが、それがとても貴重な資料なのだ。一通を折角なので紹介しておきたい。
「あなたの力作を拝見しました。大体あなたの研究方法で好いと思ひました。率直に申せばあなたの描かれた海の感じが少し不充分かと思ひました。今少し研究される必要があります。あなたが感じられた通り海は何画で描いてもむずかしいです。殊にペン画の場合には波を描いて山に見へる恐れが多分にありますから、実際に海を見て研究するのが最も好い方法です。波の場合には共沸と反対の側にも相当に反射の光があることを知って置かれる必要があります」
波を描くと山に見える恐れがある、波は波らしく描く。そのためには実際に海を見て研究する必要がある。そして、波のうねりに光と影がある。〝船の樺島〟と言わしめる真髄のひと言だ。

『心の流浪 挿絵画家・樺島勝一』 大橋博之 著
弦書房 定価 2200円 (+税) 好評発売中
http://genshobo.com/?p=5871 |
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『日本の論壇雑誌』について
竹内洋
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敗戦を3歳で迎えた私のような世代には、戦後史は自分史と重なってくる。そんなことから自分史を重ねながら2011年に『革新幻想の戦後史』(中央公論新社)をまとめた。この著でも『世界』や『中央公論』『諸君!』などを取り上げたが、戦後の思潮を考えるには、論壇雑誌つまり総合雑誌の総合的研究がなくてはならないと思うようになった。
たしかに「総合雑誌の研究」(『流動』1979年7月号)のような明治以後の総合雑誌をすべて網羅した論文はある。しかし、これは総合雑誌の通史である。一方、各論的研究、つまり個別の総合雑誌についての評論、あるいは単著もあるが、これだけでは単体の綜合雑誌研究である。そこで、一冊の本にできるだけ多くの総合雑誌を取り上げ、読者が雑誌相互を横断・接続(connectivity)することで、戦後の思潮の場の攻防が俯瞰できるような本をつくってみたいとおもった。
しかし、このような本はひとりの力では生まれない。手間暇の問題もあるが、それ以上にテイストが合う雑誌と合わない雑誌、得手雑誌と不得手雑誌があり、一人では後者系の雑誌の扱いがぞんざいになってしまう懸念がある。そうおもい、京都大学の佐藤卓己さん、稲垣恭子さんに相談し、研究会を立ち上げた。メンバーには、上記3人を中心に、8名の参加を得て計11人でスタートした。こうして本書は出来上がったが、取り上げた雑誌は『中央公論』『文藝春秋』『世界』など10種類で、これに「ネット論壇」を加え、巻末には日本の「論壇雑誌年表」をつけている。
もちろん戦後の総合雑誌を網羅することはできなかったが、論壇の「中心」雑誌、「周辺」雑誌、中心への「対抗」雑誌群をカバーしたとおもう。本書によって読者が老舗総合雑誌の衰退やあらたな総合雑誌の勃興をつうじて戦後の論壇史を追体験し、それをつうじて戦後日本のインテリ界=中間文化界の輿論と空気を読み取り、戦後思潮の攻防と変遷史を考えるための一助にすることができれば、執筆者一同これに過ぎる喜びはない。ご一読、ご高配のほどよろしくお願いいたします。
執筆者を代表して 竹内 洋
以下のように、本書をめぐるシンポジュームを開催します。ご参加ください。
時間・プログラムなど詳細は、6月下旬以後の関西大学東京センターのホーム ページでご覧ください。
日時:8月22日(金)午後
会場:関西大学東京センター(東京駅日本橋駅すぐ、サピアタワー9階)
http://www.kansai-u.ac.jp/tokyo/map.html
テーマ「教養メディアの輿論と世論―『日本の論壇雑誌』から考える」(仮)
竹内洋

『日本の論壇雑誌』 竹内洋、佐藤卓己、稲垣恭子編
創元社 定価(税込):3,780円 好評発売中
http://www.sogensha.co.jp/booklist.php?act=details&ISBN_5=30048
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「神田古本まつり俳句大会」について
神田古書店連盟会長 佐古田亮介
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なぜ古本まつりに俳句大会なのか。それはそもそも今年で第55回を迎える「東京名物 神田古本まつり」に何か新企画はないか。という話から始まり俳句を始めて五年目の私が俳句大会をやろうと言い出して決りました。単なる思いつきで言った訳ではなく、俳句大会をやるに当たって絶対必要となる条件には心当りが有りました。
私は四年前に創刊した俳誌「月の匣」の会員として俳句を始めると同時に、神保町に在る「銀漢亭」という知る人ぞ知る俳人酒場で行われている超結社句会「湯島句会」にも参加しましたので、俳人に知り合いが出来ました。そして俳句大会準備に欠かせないのが投句されて来た俳句の選者です。選者が決まらなければ大会に成りません。その選者に心当たりが有った事がやろうと言い出した一番の理由でした。しかも二人いました。一人は私が所属する「月の匣」主宰の水内慶太(みのうちけいた)先生。もう一人は「銀漢亭」主人にして俳誌「銀漢」主宰の伊藤伊那男(いとういなお)先生でした。俳句をやらない人には聞き覚えの無い名前かも知れませんが、お二人とも常時俳句総合誌に掲載されている一流の俳人です。
まずは慶太先生に下相談すると「それは良い是非おやりなさい。古本と俳句は相性が良い。何で今までなかったんだろう。」と大賛成を受けました。つぎに伊那男先生に相談するとこれも大賛成。お二人とも快く選者をお引き受け下さり俳句大会実現に一気に拍車が掛かりました。そして心強い味方がもう一人。これも神保町に在る俳句出版社「本阿弥書店」の編集長が「月の匣」同人で何でも相談に乗ってくれました。応募用紙の作成や宣伝方法など大変助かりました。
社長にごあいさつすると神保町に古くからある俳人喫茶「きゃんどる」の話や「一誠堂書店」の大番頭で俳句を作っていた小梛精以知(私の上司で「句集寸楮」がある。古書会館8階のGケースに入ってます。)の話も出て意気投合。俳句大会の後援も申し出てくれました。地域と俳人を結び付けて古本まつりが益々盛り上るよう、読者の皆様も是非投句して下さいね。どうぞよろしくお願い申し上げます。 応募用紙は「BOOKTOWNじんぼう」イベント情報にアクセスすればダウンロード 出来ます。
俳句大会にご応募をして頂いた方、10名様に掲載誌をプレゼントいたします。
『神保町公式ガイド Vol5』 10月初旬発行予定
発表は発送をもって代えさせて頂きます。
東京名物・神田古本まつり55回開催記念 俳句大会
本にまつわる俳句募集中!
http://jimbou.info/news/140415.html |
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「本の雑誌39年間の本屋ネタが満載!408ページの『本屋の雑誌』」
浜本 茂
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5月末に出した別冊本の雑誌『本屋の雑誌』は雑誌という書名からイメージされる厚さをはるかに凌駕するボリュームと緑色のシンプルなカバーがウリ。あまりの厚さに書店の店頭でそれと気づかずスルーしてしまう人がいるとか、当社らしからぬおしゃれな(と自分たちでは思っている)装丁が輪をかけて見逃しに力を貸しているという噂も耳にするが、なにを隠そう書店カバーを模しているのである。そして本文はなんとなんとの400ページ! おまけに京都の三月書房と千駄木の往来堂書店の棚が読めるカラーグラビアが8ページつくという圧倒的な分量なのである。
どうしてこんなに厚くなったのか。実は『本屋の雑誌』は『SF本の雑誌』(09年)、『古本の雑誌』(12年)に続くダジャレ書名別冊シリーズ(?)の第3弾で、前2作と同様、本の雑誌に掲載した新刊書店関係記事の再録と新原稿の2本立てで構成している。ようするに新旧ごったまぜのバトルロイヤル本なのだが、前2作が過去の記事4割、新原稿6割の割合なのに対し、第三弾は過去記事が全体の7割強を占めることになってしまったのである。
なんだい、再録ばっかりかい、と思う人もいるかもしれないが、ちょっと待っていただきたい。『SF本の雑誌』は176ページ、『古本の雑誌』は192ページ。対して『本屋の雑誌』は408ページで、新原稿だけで108ページ分あるのである。『SF』『古本』と比べて新原稿の分量は決して見劣りしない、ということはおわかりいただけるだろう。
それでもバカみたいな厚さになってしまったのは、過去の記事があまりにも面白く、割愛するにしのびなかったからである。たとえば書店に行くと便意を催すという「青木まりこ現象」の謎と真実を1985年と2013年の2度にわたって探ってみたり、立ち読みの研究をしてみたり、ジュンク堂書店に単独登攀してみたり、本屋プロレスをレポートしてみたり、いや、どうしてこんなに面白いことを思いつくんだと自画自賛したくなるものばかり。困ってしまうのだ。
かくして再録記事だけで300ページにのぼったわけだが、これでも泣く泣く落とした記事は山のようにある。それほどに本の雑誌は新刊書店関連の記事を掲載し続けてきたという証でもあり、この再録記事の数々は本の雑誌創刊からの39年間に書店がどう変わったのか、あるいはどこが変わらなかったのを知るよすがになると自負している。108ページの新原稿がすぐれものであることは言うまでもないが、今回の別冊に関しては39年間の書店状況を俯瞰できる再録部分にこそ『本屋の雑誌』と名乗れるキモがあるとあえて言っておきたい。古本屋さんもいいけど、新刊書店もいいですよ。『本屋の雑誌』を読んで、新刊書店にますます足を運んでいただけるとうれしい。

『本屋の雑誌』(別冊本の雑誌17)
本の雑誌社発行 好評発売中 1980円+税
http://www.webdoku.jp/kanko/page/9784860112561.html |
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『出版産業の変貌を追う』
文化通信編集長 星野 渉
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出版物の販売金額がマイナスに転じた1997年から17年が経過したが、いまの出版業界は、電子出版の拡大、中堅取次の経営危機など、当時では想像できなかった様相を呈している。
私が文化通信社で出版業界を取材する仕事について25年になるが、入社した当初の出版界は、市場拡大期の最終段階にあり、まだバブル的な雰囲気が色濃く残っていた。その後、市場の縮小、様々なレベルでの電子化の進展という、大きな時代の転換期に突入した。その変化を一言で表すとすれば、「電子化という環境変化が振興する中での、取次システムの行き詰まり」と表現することができる。
それは、世界で日本にしかなく、戦後の出版産業拡大の原動力ともなってきた「取次システム」が、デジタルネットワークの普及の影響によって、一部が機能不全に陥ろうとしているということであり、米国など諸外国の出版業界における電子書籍化の影響とは全く異なるものである。 本書は、ちょうどこの時期に出版業界の動向について、これまでにいくつかの媒体で発表してきた文章をまとめたものである。業界専門紙という、産業動向をウオッチすることを主な生業としてきたため、どちらかというと流通や経営的な側面への視線が強く出ていると思われるが、この間の変化は、まさに出版業界に係わるほぼすべての企業の経営を根幹から覆しかねないものである。
そういう視点から、改めて各論考を読み直してみると、現在も進行している出版産業の大きな流れが、どのあたりで曲がり角を迎え、どちらの方向に向かっているのかを、改めて確認できるように思う。
また、私はこの間、アメリカやヨーロッパ、韓国などの諸外国を何度か訪問する機会を得てきた。そうした海外の出版業界をみることで、日本と海外とのつながりや、ビジネスとしての可能性を実感するとともに、日本の出版業界が持つ独特の仕組みを相対化し、客観的に眺めることができるようになったとも思う。
2014年は、業界第三位取次の大阪屋が、経営再生に向けた一歩を踏み出す年であり、前年から本格化してきた電子書籍の市場が拡大し始めている時期でもある。 こうした変化が顕在する時期に、本書を刊行できたことは偶然ではあるが、出版業界の人々、そして本や出版に興味のある人々が、出版業界の今後を考える一助になればと考えている。

『出版産業の変貌を追う』 文化通信編集長 星野 渉 著
青弓社 定価:2000円+税 好評発売中
http://www.seikyusha.co.jp/wp/books/isbn978-4-7872-3377-6

文化通信(毎週月曜日発行)
文化通信社 https://www.bunkanews.jp/ |
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AKB48の論じ方
笹山敬輔
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最近のアイドルブームから、書店には「アイドル」を様々に論じた本が並んでいる。現在のトップアイドルグループであるAKB48を論じた本も多い。それらを読んで感じることは、論者が社会学者であったり、社会学の用語を使って論述したりしていることが多い、ということである。これは、アイドルに限ったことではない。流行のドラマ・マンガやSNS等、現代に登場してきた最新の現象に対して、その論評を社会学者が担うことが多い。
一方で、文芸評論家を始めとした文学畑で育った論者は少ない。私の認識では、戦後のある時期まで、文芸評論家と呼ばれる人々が、様々な文化現象を解釈してきた歴史があると思う。現在は、その領域を社会学が担い、若い読者層の支持を得ているようだ。このことは、大学における文学部の退潮傾向とも無関係ではないだろう。文学部の教養を持つ論者が行う議論が、説得力を獲得しにくくなっている。
私自身は文学部の出身だが、社会学者が論じるものを読んで、面白いと感じることは多い。しかし、その一方で、歴史的な視点が少ないと感じることがある。我々が新しいと感じるものであっても、それは当然過去の様々な蓄積から生まれてきている。その系譜を丁寧に辿ることによって、現代の事象の位置付けはより明確になるはずである。
拙著『幻の近代アイドル史』では、従来1970年代に始まったとされるアイドル史を明治期にまで遡り、現在のアイドルブームに似た現象がその頃から見られることを書いている。明治から昭和前期において、「アイドル」という言葉はもちろん存在しなかったが、「アイドル的存在」は容易に見出すことができる。「総選挙」のようなファン投票もあったし、ファンたちが観客席から自分の好きな「推しメン」の名前を絶叫することもあった。かの川端康成も「推しメン」目当てに劇場通いをしていたのである。
このような歴史を踏まえた上で、現代のアイドル現象を過去に連なるものと見るか、全く新しいムーブメントとして見るかは、それぞれの論者が議論を展開すればよいと思う。ただ、何事も歴史を踏まえた方が、より説得的な議論が展開できるのではないだろうか。 拙著が現在のアイドル論に対して、何らかの貢献ができればうれしい。

『幻の近代アイドル史』 笹山 敬輔
彩流社 定価 1800円 + 税 好評発売中
http://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-7791-7014-0.html |
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「読み」・解釈とどう向き合うか
山梨 あや
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拙著について語る機会をいただき、気恥ずかしさと、これをきっかけに新たな「読み」に触れることができるのではないか、という期待感とがないまぜになっている。本書は、なぜ読書という行為が教育の問題として取りあげられるようになったのか、そして読書という知的営為への参入は、誰に、どのような意味をもたらしたのか、という二つの問題を近代日本教育史の文脈において検討している。
筆者がこの問題に取り組み始めたのは、折しも永嶺重敏氏が一連の論稿・著作を刊行し、読書の問題が読書史や出版史にとどまらず、日本史、教育史、教育社会学など様々な領域において問われるようになった頃であった。書籍や新聞雑誌が誰に、どのように普及し、読まれていたのかという実態の解明にとどまらず、読者の意識や教養形成とどのように関わるのか、というより深化したレベルの研究が豊かになり、読書行為になじみのない人々がこの知的営みに参入する過程とその意味について検討していた筆者自身も大いに触発された。
とはいえ、読書に関する研究、著作はともすれば「都市・男性・中間層以上の人々」を中心に検討する傾向があった。これは必ずしも書き手の問題ではなく、読書行為を歴史的に論じる際に必ず突き当たる資料的制約に因るところが大きい。別の表現をすれば、読書に関する資料的制約のあり方に、近代日本の知的営為に関する様々な偏差が反映されているのである。読書行為が内包する「知の偏差」にいち早く注目し、これを「社会教育」という枠組みの中で教育的に組織化しようとしたのが内務官僚、次いで文部官僚であった。本書において、読み書きを取得させ、さらに教科書を含む本を「読む」という経験を多くの人々にもたらす上で大きな役割を果たしたと考えられる小学校教育ではなく、学校外教育を担う社会教育に焦点化して読書の問題を論じたのもこの理由による。
本書を執筆する過程で明らかにされたのは、「教化」か自発的な学習活動かという単純な二項対立では読書運動や読書指導を捉えきれず、読書により生み出される豊かな「読み」・解釈の歴史的意味を捨象してしまうということである。戦前・戦後を問わず、教育者や指導者、さらには書き手の意図を超えた「読み」は存在したのであり、この「読み」は様々な制約を伴いつつも、時として既存のものの考え方やあり方に揺さぶりをかける密やかな「力」となったのである。
研究者の一人として求められているのは、知的営みの所産をいたずらにラベリングしたりカテゴライズしたりするにとどまらず、一つ一つの営みと真摯に向き合い、その意味を紡いでいくことではないか、と考えている。本書の執筆後に見えてきた課題は多いが、筆者にとって最も大きな比重を占めているのが、読書運動や指導に携わった人々が、どのように学習者の「読み」や解釈と向き合い、彼ら・彼女らの知的要求に働きかけようとしていたのか、という問題である。恐らくこの問題に直面したのは、地域社会の知識人とも言うべき存在であった教員層であったろう。
本書でも事例として検討した長野県下伊那地方では、戦前から戦後にかけて図書館活動や読書運動が盛んに展開されており、戦後の読書運動に参加した古老からは、戦前の小学校時代の読書経験を重視する声が多く聞かれた。小学校教員は学校教育という枠組みを超え、家庭や地域社会に対する教育にも深く携わっていたことを踏まえ、このような状況下で読書をはじめとする知的営みはどのように育まれていたのか、そしてその知的営みの意味を明らかにすることが目下の目論見である。

『近代日本における読書と社会教育』 山梨 あや
法政大学出版局 定価:5,700円 + 税 好評発売中
http://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-68605-4.html
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古本屋ツアー・イン・ジャパンの2014年上半期活動報告
古本屋ツーリスト 小山力也
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どうにか乗り切った感のある2013年が終わってすでに半年。本を出したことにより気負い過ぎたせいか、2014年の古本屋ツアーは、今までにないスピード感で激しく幕を開けてしまった。一月は松の内に愛知・熱田の伏見屋書店や宮城・角田の買取屋本舗などに鈍行列車で足を延ばし、さらには能代・釜石・京都・豊橋・須賀川・松本・八戸・益子と、四月まで留まることを知らず、狂ったように地方の古本屋を訪ね歩いてしまう。だが、さすがにこんなペースでツアーしていたら、あっという間に破産してしまう。そんな単純なことにようやく気付き、逸り高揚し続けたままの心にブレーキを掛け、危ういところでペースダウン。結果、それが足下である東京に、再び熱い視線を向けるきっかけとなったのである。
ほぼ巡り尽くしてしまった、それほど交通費のかからぬ東京と関東を、新たなブックハンティングの猟場として捉え直し、まだある程度未踏のお店が残る神保町を中心にツアー計画を立て、古道具屋や骨董屋、リサイクルショップにも熱い視線を向け、時には救世軍のバザーにまで足を運んだりした。古本の影を街のそこかしこに求めて、ハイエナの如く都会を彷徨い続ける。未踏の古本屋を訪ねてレポートする本義からすれば、多少零落したようなミジメな気持ちになることもあったが、足を運ぶ所に古本がある限り、これはこれで楽しかった。特に神保町は、まるで勤め先でもあるかのように通い詰め、入り難い専門店にもエイヤと飛び込んだり、店頭台を漏らさずパトロールしているうちに、この『本の街』の懐の深さと新たな魅力に徐々に気付き始め、さらにお店と言う『点』だけではなく街と言う『面』で捉える楽しさを味わうこととなった。
また、テーマを決めたり、独自の古本屋ルートを作成して巡ったりと、改めてツアー済みのお店を訪ねることを意識し始めたのも、この頃からである。ブログのネタを捻出するための窮余の策ではあったのだが、しばらく行っていなかったお店を訪ねる楽しさや、以前とは違った視点で棚を見る喜びは、時に思わぬ掘り出し物を掴ませてくれたり、遅ればせながら何店ものお店の棚の鋭さに、ようやく気付けたりする驚きがあった。つまり、自分次第で目の前の古本屋さんは、大きくその用途と在り方を変えるのだ!と、今更ながら喜んだわけである。 また新たに開店するお店と、様々な方からのタレコミによってもたらされた『知られざるお店』たちは、まさに暗闇に輝く希望そのもので、三鷹「水中書店」東松山「あふたーゆ」新所沢「午後の時間割」益子「ハナメガネ商会」東松原「瀧堂」蒲田「石狩書房」秋葉原「星雲堂」茅ヶ崎「ちがりん書店」清瀬「臨河堂」神保町「二十世紀」などは、ツアーに大いなる潤いをもたらしてくれた。
さらに時にはその苦しさが、思わぬ記事の変種を生み出しもした。文学館の展示である架空の古本屋さんを訪ねてしまったり、手元に集まった『古書店地図』について考察したみたり、映画雑誌に載っていた一枚の古本屋さんの写真から恋文横丁にあったお店を妄想してみたり、古本を買いに行く理由について真剣に考えてみたり、殿山泰司晩年行きつけの古本屋をトレースしてみたりと、古本と古本屋に関わる事柄ならば、自由に想像と妄想の翼を羽ばたかせるようになっていったのである。
このように自ら濃密さを増すように行動した半年が経過したわけであるが、古本屋の神は、そこにさらにドラマチックに悲劇のエッセンスを振りかけて来た。それは閉店するお店の多さである。毎月一・二店のかつてないハイペースで、有名無名店問わず、閉店情報が飛び込んで来るのである。すでに、新宿御苑「國島書店」静岡「悠遊堂古書店」須賀川「BOOKランド須賀川店」国立「谷川書店」所沢「ほんだらけ所沢本店」早稲田「寅書房」浅草「浅草古書のまち」中野新橋「猫額洞」東銀座「新生堂 奥村書店」祐天寺「赤い鰊」大阪「古書ゆうぶん」などが、セールを華々しく行ったりしながら、惜しまれつつ表舞台から去って行った。大変に悲しむべき事態であるが、同じ時代に存在して棚を見られたことを、ただただ感謝し、それぞれの歴史の終幕に万雷の拍手を贈りたい。
しかし恐ろしいことに七月にも、その古本屋の閉店は数珠つなぎに続いている。下半期には歯止めがかかると良いのだが。 以上は、現在のツアー状況であるが、正直言うと、やはりもっともっともっと地方の未知のお店を訪ねまくりたいのが本音である。そこにブログの本質もあるし、何より自身がそれを求めてやまないからだ。少し力を溜める、我慢の時であるのは分かっているが、夏の青春18きっぷを皮切りに、またぞろ地方には足を延ばして行きたいものだと、常に無闇な野望は抱いている。
だが、そんな東京に縛り付けられた暮らしでも、逆にそれが功を奏すこともあった。秋を目指して某出版社から、二冊目の本を出すことが決まり、現在必死に編集中なのである。もちろんブログ記事を元に構成する本ではあるのだが、前の本とはそのテーマも読み方もまったく異なる、前人未到(おそらく)で前代未聞(おそらく)のものとなる予定である。どうかみなさんの心の中に留めていただき、発売の暁にはこれがその本であったかと、記憶の奥底から埃を払って引き出して、感慨を深くしていただきたい。
苦しみながらも楽しく、どうやら道は続いて行く。その先には、まだまだ古本屋さんがあるはずなのだ!あぁ、このようにして私の人生は、ますます熱くたおやかに、古本屋さんにまみれて行くのである。下半期も、がんばります!
『古本屋ツアー・イン・ジャパン』 2008年5月からスタートした、日本全国の古本屋&古本が売っている場所の、全調査踏破を目指す無謀なブログ。
お店をダッシュで巡ること多々あり。「フォニャルフ」の屋号で古本販売に従事することも。
ブログ記事を厳選しまとめた『古本屋ツアー・イン・ジャパン 全国古書店めぐり 珍奇で愉快な一五〇のお店(原書房)』が発売中。
http://furuhonya-tour.seesaa.net/ |
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世田谷文学館「日本SF展・SFの国」2014年7月19日(土)~9月28日(日)
世田谷文学館 中垣理子
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かつて、日本に「SF」を根付かせようと集った若き作家たちがいました。 星新一、小松左京、手塚治虫、真鍋博、筒井康隆ら、第一世代と呼ばれる作家たちは、当時の日本でまだ認知度が低かったSFを、どう表現し、読者に届けるか奮闘します。彼らの作品は、子ども・若者たちを中心に熱狂的に受け入れられ、その後、今や世界を席巻する日本アニメ―ションや特撮映像作品とともに大きな発展を遂げます。また、当時「日本SF」に親しんで育った読者たちが、現在は文化芸術、科学技術の分野ほか、多方面で活躍しています。 作家たちは、未来を語るために「想像力」を磨き、それぞれの表現を追求しました。彼らの作品は、俯瞰的にものを見る大人の知力に支えられ、ひとりの人間としてあらゆる事象に立ち向かうためのヒントに溢れています。
『日本沈没』『復活の日』などで知られる小松左京は、次のように言います。
生命科学の急速な発展やネット社会の進化をあげるまでもなく、これからも科学技術は加速度的に変化してゆく。そうした中で、「科学」と「文学」をつなぐSFの重要性は高まりこそすれ、決してなくなることはない。そして今後は、ことさらSFと言わずとも、ごく当たり前にSF魂を備えた若い人たちが続々と登場してくることだろう。(『SF魂』新潮新書2006年)
作家たちがSFという表現を信じ、私たちに何を、どう伝えようとしたのか。SFがすでに日常に溶け込んでいるいまだからこそ、小松たちの世代が築き上げた表現世界の軌跡を、特に、次世代を生きる子どもたちに伝えたいと願って本展を企画しました。
世田谷文学館では、2006年「不滅のヒーロー・ウルトラマン展」2010年「星新一展」2012年「地上最大の手塚治虫」展を開催し、「日本SF」の魅力をご紹介してきましたが、本展ではそれらすべてを同じ空間で楽しんでいただければと思います。そして、「日本SF」の幅広さと豊かさを、あらためて感じていただくきっかけになれば、これ以上の喜びはございません。
世田谷文学館 中垣理子

世田谷文学館
企画展「日本SF展・SFの国」
2014年7月19日(土)~9月28日(日)
http://www.setabun.or.jp/exhibition/exhibition.html |
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『高橋新太郎セレクション』のこと
内堀 弘
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高橋新太郎さんのことを、みな「シンタロウさん」と呼んだ。私のように年若な古本屋も、年長の先生も、それは同じだった。
一九八五年に、若手の古本屋が中心になって『彷書月刊』という雑誌をはじめた。
今は沼津に引っ越した自游書院の若月さんが呼びかけ、当時で還暦だった堀切利高さん(荒畑寒村の研究者)が顧問役。編集長はなないろ文庫の田村治芳さんで、私は雑事手伝いだった。
猿楽町の事務所には同好の本の虫がよく訪ねてきた。新太郎さんもそうだった。何十年と古書展に通い、まるでそこを教場のように学んできた人たちだ。若造の古本屋よりよほどキャリアも豊富だ。うっかりすると、事務所がインナーな溜まり場になりかねない。でも、そうはならなかった。堀切さんの清廉な人格、そして新太郎さんの凜とした品性が、いつもその場所を風通しのいい、豊かなものにした。
新太郎さんは『彷書月刊』に「集書日誌」を連載した。編集長の田村さんは腰までとどく長髪で、ひと昔前のヒッピーのようだった。こう言ってはなんだが、およそ学習院大学の教授が付き合うタイプには見えない。でも新太郎さんは「ハルヨシさん、ハルヨシさん」と、会えばなんだか嬉しそうだった。
この連載は九三年から九九年まで、番外を加えれば八十回も続いた。それが『高橋新太郎セレクション』の第三巻で通読できる。
古書展でも、古書目録でも、本当によく買われた。この連載は月々に獲たものから印象に深いものを取り上げるのだから、まさに水を得た魚だった。
時代の破片のような小冊子や紙片が、生き証人のようにこの国の近代の闇を照らす。そんなことも大げさな筆致ではなく、まずそれを載せた古本屋のことから書きはじめる。
「よく蒐めたなと思う古書店(目録)には、何か一点でも注文を出してあげたい」、よくそう言われた。古本屋は客に育ててもらうというが、私たちはこういう人に育てられたのだ。
連載の六年間は、古書の世界でいえば「インターネット夜明け前」だった。そう、本はまだ「検索」で探す時代ではなかった。古本も、人も、思わぬところに潜んでいて、それを発見し、驚き、共感する。連載はよい時を得ていた。たとえば、こんな記述がある。
「『田中英光研究』第六輯が届いた・・江戸川のアパートに棲まう西村賢太が独力で刊行する研究誌だ・・西村の文字通りの全身的な打ち込み方には、惚れ惚れする」(1995年4月)
この青年が芥川賞を受賞するのは2011年だから、まだずっと先のことだ。無名で、しかし懸命な仕事に「惚れ惚れ」するのは、相手が古本屋であっても変わらない。新太郎さんにとって古本屋は共闘者だったと、これは都合のいい読み方ではなく、懐かしい実感として思う。2003年の1月に新太郎さんは亡くなった。
亡くなる一年ほど前、私は古書のエッセイ集を出して、その記念の会を友人たちが開いてくれた。新太郎さんにも案内を送ったが、返事は来なかった。体調が良くないと聞いていた。ところが、会の当日に突然現れた。私の腰をポンとたたき、ニコッと笑って握手をした。その手の感触が十年も昔のものとはとうてい思えない。
学究として新太郎さんが何を目指していたのかを私は知らない。一冊の単著も遺さずに逝った人の、その書き遺したものを蒐集し、十年が過ぎてもそれを本にしようという編集者がいる。これが高橋新太郎という人の有り様を象徴している。膨大な資料蒐集の先に視ようとしていたものが、きっとここから見渡せるはずだ。

高橋新太郎セレクション1『近代日本文学の周圏』
笠間書院刊 定価:本体4,200円(税別)
http://kasamashoin.jp/2014/05/1_28.html

高橋新太郎セレクション2
『雑誌探索ノート 戦中・戦後誌からの検証』
笠間書院刊 定価:本体2,800円(税別)
http://kasamashoin.jp/2014/05/2_24.html

高橋新太郎セレクション3『集書日誌・詩誌「リアン」のこと』
笠間書院刊 定価:本体3,000円(税別)
http://kasamashoin.jp/2014/05/3_29.html

『高橋新太郎セレクション 3冊セット』
パンフレットPDF
http://kasamashoin.jp/shoten/takahashishintaro3.pdf
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