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自著を語る(72) 『タブーの正体!――マスコミが「あのこと」に触れない理由』

『タブーの正体!――マスコミが「あのこと」に触れない理由』

川端幹人

 福島原発の事故で明らかになったように、この国のマスメディアは批判することのできない対象、触れることのできない領域を多数抱えています。皇室、同和団体、宗教、検察、それから東京電力のような大手企業……。今回、出版した『タブーの正体!』という新書では、そういったメディアタブーの実態を改めて真正面から検証しようと試みました。

 私自身、2004年に休刊した『噂の真相』というスキャンダル雑誌に22年間在籍し、さまざまなタブーを間近で見てきましたが、今回の作業は新たな発見の連続でした。

 たとえば、皇室タブーについてもそうです。当初は戦前の延長にある封建遺制だろうと思いこんでいたんですが、調べてみると、終戦から1960年代はじめまで、皇室タブーはほとんど存在していなかった。当時は保守ジャーナリズムの牙城である『文藝春秋』に天皇制廃止論や皇居開放論が掲載され、あの石原慎太郎ですら、「皇室は無責任きわまるものだし、日本に何の役にも立たなかった」というコメントを平気で口にしていた。それが、「風流夢譚」事件によって一変し、マスメディアでは皇室批判が一切できなくなってしまったわけです。

 他のタブーについても同様です。検証していくと、そこには必ず物理的な理由、身も蓋もないと感じるほど直接的な原因がある。ところが、今はそのタブーの理由、要因が見えなくなっているんですね。面倒な報道は理由を検証せずに自動的に回避するようになって、もはや報道を封印したメディアの当事者すら、自主規制の理由がわからないという状態に陥っています。その結果、恐怖心はさらに募り、タブーは実体の何倍もの大きさに肥大化している。

 ですから、本書ではまず、この失われたタブーの要因や理由を取り戻すところから始めたいと考えました。自主規制で闇に葬られた事例をふりかえって、どうしてそういう事態が起きたかを追及する。あるいは、同じポジションにありながらタブーになったものとタブーならなかったものを比較して、その差異を検証する、そういったマテリアルな作業によって、タブー生成のメカニズムを浮かび上がらせようと試みました。

 また、本書には『噂の真相』時代、右翼の襲撃を受けて筆を鈍らせた私自身の苦い体験を正直に書いているのですが、これも自分の心理構造を直視することで、タブーと暴力の関係を明らかにしようという意図によるものです。  メディアは今、絶望的ともいえるほどの閉塞感に覆われていますが、こうしたタブーに対する直視が状況を揺さぶるきっかけになれば、と強く願っています。

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自著を語る(71) 「『ぴあ』の時代」  思いがけない反響

「『ぴあ』の時代」  思いがけない反響

掛尾良夫

 「『ぴあ』の時代」は1950年生れの矢内廣(ぴあ代表取締役社長)が、中央大学に入学して映画研究会に所属し、大学4年の1972年に『ぴあ』を創刊し、1980年代に50万部を超える情報誌に成長させるまで――創業からの20年、昭和の最後の20年を追ったものだ。

 私も矢内と同じ年に生まれ、映画雑誌『キネマ旬報』の編集者として、『ぴあ』創刊後間もないころに矢内と出会った。『ぴあ』には同世代の仲間たちが集まり、取次から相手にされなかった当初は、スタッフがリュックに雑誌を詰めて書店に直販に回った。やがて『ぴあ』は軌道に乗り、「ぴあフィルムフェスティバル」を立ち上げ、チケットぴあを創業することになる。
 
 また、矢内は事業の節目で、紀伊国屋書店社長だった田辺茂一氏、教文館社長だった中村義治氏、日本電信電話公社総裁だった真藤恒氏といった人たちとの出会いによって大きく成長した。そんな、仲間や業界の諸先輩たちを惹きつける矢内の人間像を生い立ちから追ったのが本書である。
 
 本書は、私と交流の深かった仲間たちの姿を通じて、『ぴあ』成長の背景となった時代を描いたものであり、執筆のもともとの狙いは私たちの世代の郷愁でもあった。しかし、若い世代の読者の方々から、“青春小説”、フェイスブックに通じる“ビジネス書”として感動と刺激、勇気を受けたという便りを多数受け取り、驚いている。本書によって、若い世代の読者の方々に勇気を与えることができたならば、望外の喜びである。

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編集長登場(6) 月刊『みすず』について

月刊『みすず』について

守田省吾

酒井啓子「「アラブの春」と「ウォール街」と「3・11」をつなぐもの」、小池昌代「三月の冷たい水」、海老坂武「没後50年、フランツ・ファノン」、森まゆみ「奇祭・湯かけ祭りの朝――どたんばの八ッ場ダム」。いま作業中の『みすず』3月号の目次の一部である。その他に連載がいくつか。2012年3月号は第54巻第2号、通算では602号になる。

 『みすず』の創刊は1959年4月。『学燈』にははるか及ばないものの、PR誌としてはけっこうパイオニアだ。創刊号ではみすず書房の新刊書5冊を、関根正雄・宗左近・小堀杏奴・宇佐見英治・山室静がそれぞれ書評している。しかし、自社の刊行物の宣伝を中心とするPR的機能は徐々にうすれ、5冊が3冊、2冊が1冊となり、1970年1月号からは自社の新刊書評の類はほぼなくなってしまった。以来、PR誌らしからぬPR誌として現在にいたっている。

 『みすず』はみすず書房の出版物のシンボル的存在である。1960年代から30年ほどつづいた「海外文化ニュース」のコーナーは翻訳書を中心とした小社にふさわしく、また1966年2月号にはじまり、現在もつづいている年に一回の「読書アンケート特集」では、これもみすずの本同様、多種多様な分野の先生方が多岐にわたるジャンルの本について執筆されている。2012年1・2月合併号の「読書アンケート特集」には148名の方々からの回答があった。新刊既刊を問わないこと、800字程度のコメントをお願いしていること、海外の本も挙げられていることが特徴だろうか。

 90年代にはちょっと色気を出して国際文化雑誌をめざし毎月百数十ページにまでふくらんだが、いまは身の丈にふさわしく、70ページ前後の小冊子として落ち着いている。

昨年はチャールズ・ローゼン、キャシー・カルース、タラル・アサド、エヴァ・ホフマンなど、毎年同様、海外の著者の文章もあり、また震災後の4月号からは精神科医・中井久夫による「東日本巨大地震のテレビをみつつ」を皮切りに、多様な角度から震災・原発に関わる文章の掲載をつづけている。上に記した小池昌代さんのエッセイもその一つだ。昨年8月に刊行した山本義隆『福島の原発事故をめぐって』は、当初『みすず』で依頼したものの、あまりに原稿枚数が多くなったために単行本にしたしだいである。また11月・12月号掲載のヨアヒム・ラートカウ「ドイツ反原発運動小史」は、上野千鶴子さんはじめ絶賛をいただき、注文が殺到している。

『みすず』の連載からは昨年、外山滋比古『失敗の効用』、植田実『住まいの手帖』、五十嵐太郎『被災地を歩きながら考えたこと』、松本礼二『トクヴィルで考える』の4冊が単行本になった。このように、本が生まれる場でもあるが、なにより、読者と著者と出版社を結ぶ敷居の高くないささやかなアリーナとして、今後も機能していきたいものである。

(『みすず』編集長 守田省吾)

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自著を語る(75) 『出版状況クロニクルⅢ』

『出版状況クロニクルⅢ』

小田光雄

1999年に『出版社と書店はいかにして消えていくか』(ぱる出版、増補版論創社2008年)を上梓して以来、『ブックオフと出版業界』『出版業界の危機と社会構造』『出版状況クロニクル』『『出版状況クロニクルⅡ』(いずれも論創社)と、思いもかけずに出版業界に関する状況論を続けて出してきた。今回の『出版状況クロニクルⅢ』を加えると、6冊になる。

この十数年間の出版業界の歴史が何であったかはいうまでもないだろうが、まさに失われた十数年であって、かつてない深刻な出版危機へとスパイラル的に歩んできた。それらをめぐる出版社、取次、書店の失墜状況は、最新の出来事を収録した今回の『出版状況クロニクルⅢ』を例として参照頂ければ、ただちに了解されると思う。

それらの詳細は読んでもらうしかないが、ここでひとつだけ記しておけば、出版物販売金額のピークは1996年の2兆6564億円、2011年は1兆8042億円と、この15年間で8522億円、つまり96年の3分の1近い売上高が失われてしまったことになる。

しかもこれは日本だけで起きている特異な出版危機であって、欧米の出版業界はこの間もずっと成長してきたのである。異常な事態とよんでもいいし、このような出版業界の凋落が古書業界に影響を及ぼしていないはずもないし、新刊、古本ともに含んだ日本の書物文化の危機の表れなのだ。 どうしてこのような危機的状況に陥ってしまったのかを追跡してきたのが6冊の拙著であり、それは1997年から2011年にかけての出版史の記録となっているはずである。そしてこの危機の追跡は現在でも継続し、毎月「出版状況クロニクル」として、私のブログ《出版・読書メモランダム》で発信している。

『出版状況クロニクルⅢ』はその最新の集成である。危機はさらに続いているし、まだしばらくは発信を止めることはできない状況に、私も置かれている。

ブログ
http://d.hatena.ne.jp/OdaMitsuo/

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自著を語る(74) 『わたしの小さな古本屋』について

『わたしの小さな古本屋』について

田中美穂

 倉敷で蟲文庫という古本屋をやっています。ある日突然の思いつきで、まったく未経験のまま開業したこの店の18年間の出来事を書きました。
 
 はじめてからもずっと「軌道に乗る」という言葉など、どこか遠くの世界のもののように思えていましたが、でも日々帳場に座り、自分の意図や思惑など軽々と越えていく本と人との不思議なめぐりあわせに半ば呆然としながら過ごしているうちに、なんとかご飯が食べられるようになりました。「継続は力なり」という、この月並みなセリフも、この店のことを思えば実感として受け止めることができます。

 当初、いただいた企画案には、独立を目指す女性の夢の後押しを、という方向性もあったのですが、現実が現実ですので、無責任なことは書くわけにはいきません。最終的に「こんなケースもありますよ」という、これまでのことをありのままに書くことに落ち着きました。  全体の半分ほどは、以前「早稲田古本村通信」というメールマガジンに連載していたものなどで、それらを補足する形で書き下ろし、まとめています。

 自分のことを自分で書くのですから、以前出した苔の本や、現在取り組んでいる亀についての本と違って、科学的証拠をおさえるべく資料の山にあたる必要もありません。比較的気軽な気持ちでスタートしたのですが、いざ始めてみると、これが一番大変なことでした。なにしろ答えはどこにもありません。

 「1、2年やってみて、ダメだったらやめよう」そんな、甘い考えのもとにはじめたというのが正直なところですが、いざ、はじめてみると、そして、続ければ続けるほど、いったい古本屋にとっての「ダメ」ということはどういうことなのかがどんどん解らなくなり、いまにいたります。だからこそ、古本屋というのは、ほんとうに面白いなと思っています。

蟲文庫
http://homepage3.nifty.com/mushi-b/

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自著を語る(73) 『痕跡本のすすめ』について

『痕跡本のすすめ』について

古沢和宏

「先日amazonで古本を買ったら、店主の見落としかびっちり書き込みがあっていらっときたけど、「痕跡本のすすめ」を読んでそれもありか、と思えるようになった」先日みた、ツイッターでのかきこみです。そういう声をみるにつけ、嬉しいと同時に、なんだか申し訳ないような気持ちにもなってきます。それは、この本が実は、僕の個人的な古本体験の記録、といっても過言ではないようなものだからです。

『「痕跡本」それは古本を買ってくるとたまに残っている、線などの書き込みや、メモ用紙等が挟まっていたりなどの、前の持ち主の痕跡が残された本の事。そこには、前の持ち主が本と過ごした時間が、ものがたりとして残されています。』

…なんて今回の本の巻頭でもさもそれっぽく説明をさせて頂きましたが、そんな風に思えるようになったのは、実は古本屋巡りをはじめてずいぶんたってからの事でした。古本屋にいりびたりはじめた大学時代、僕はろくすっぽ授業に出ないで古本屋通いを続ける日々。 でもその当時はただ、単に新本より安い、とか、新本じゃ買えなくなってしまった本が買える、とか、 古本に対してそんな程度の認識でしかありませんでした。だからその当時の僕にとって、書き込みのある本はたんなる読みにくい本でしかなく、 読み込まれた本は、ただのぼろい本、以外のなにものでもありません。古本のにおいは確かにその当時から好きでしたが、 できればきれいな本がほしいな、本棚映えのする本がほしいな、なんて考えながら古本屋通いを続けていたのです。

そんなさなか、とあるぼろぼろの本との出会いが、僕の人生を大きく変えます。
日野日出志著「まだらの卵」…。某まんだらけで100円でたたき売られていたこの本、表紙から千枚通しのようなものでめった刺しにされていました。 読むと指先がその傷跡にどうしても当たり、いやでもその存在を意識せねばなりません。 内容の気持ち悪さもさることながら、前の持ち主の、無言の破壊衝動がぶつぶつの感触からつきささり、 だんだんしびれていく背筋。いやだなぁと思いながらよんでいるうち、ふとその「いやだ」が、実はこの本でしか味わえない、 特別な体験である事にきづきます。 この「痕跡本のすすめ」は、そうして集めるようになった痕跡本の紹介とともに、 「まだらの卵」を始めとする痕跡本との出会いで変わっていった、僕の古本への思いがつめこまれています。 ここで総てを語りきる事はできませんが、でも一つだけ確実にいえることは、 おそらく「まだらの卵」と出会わなかったら、僕は古本屋になりたい、などとは思わなかったでしょう。

出版後、ツイッター等を通して、様々な方の声を聞く事ができるようになりました。 そんな中でも多いのが、自分が持ってたり、あるいは出会った痕跡本についての思い出話です。 ツイッター等で、決して僕へのメッセージとしてではなく、共感し、自分の思い出話として語られているその姿をみながら、 「あぁ僕だけではなかったのだな」とたまらなく嬉しくなったりしています。 「痕跡本」という言葉は、実は僕が勝手につくった造語にすぎません。 でも今回、こうしてそういう方々の声を聞くことができたのも、この「言葉」に負うところがたまらく大きい気がしています。 この本が、読んで下さる方の、古本体験のどこかの琴線に触れる様な事があれば幸いです。

五っ葉文庫 ブログ
http://ameblo.jp/itutubabunko/

プロフィール
古沢和宏
1979年生まれ、愛知県在住。「古書 五っ葉文庫」店主。
大学在学中から古本の魅力にはまりこみ、やがて「大切に読みこまれた本には持ち主との物語が刻まれている」ことに気づき、書き込みやよごれが残る本を「痕跡本」と名付け、収集するように。高遠ブックフェスティバルやブックマークイヌヤマなど、各地の古本市では、痕跡本の面白さを広く一般に広めるため、精力的にイベントを行っている。  

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自著を語る(77) 『日本地図史』について

『日本地図史』について

上杉和央

 お気づきの方もいるかもしれないが、『日本地図史』という題名の書籍は、すでに秋岡武次郎によるものがある。昭和30年(1955)に出されたこの本は、地図史の必読書のひとつに位置づけられるものである。それに対して、拙著は吉川弘文館の「日本〇〇史」シリーズに含まれるものであり、その枠組みに準拠したネーミングなので、奇しくも同タイトルとなってしまった。名前は企画上の問題だとして、どうかご容赦いただきたい。

 その上で、タイトルは同じでも、包含する内容については大きな違いがあることをお伝えしておきたい。秋岡先生の本は「日本地図」の「史」であり、いわゆる日本図のみを扱ったものである。それに対して、拙著は「日本」の「地図史」であり、日本図のみならず、世界図や都市図、荘園図、村絵図、さらにはカーナビまで、多種多様な地図の歴史をとりあげたものとなっている。その意味で、同音(同表記)異義のタイトルであること、ご了解いただければ、と思う。

 また、地図史の必読書は他にもたくさんあるが、拙著と同じような方向性をもって書かれたものとして、織田武雄著『地図の歴史』(講談社、初版1973年)をはずすことはできない。この本は実に多くの読者に支持され、何度も版が重ねられた。あちこちの古書店でその姿を確認できる本であり、ご存知の方も多いかと思う。現在も新書(2分冊)として刊行されるきわめて息の長い良書である。ただ、40年弱の年月を経て、やや内容に古さがみられるのも事実である。

 拙著では『地図の歴史』以降の研究の成果を取り込む形で、改めて「日本」の「地図史」を概観している。実際、この40年と言えば、古地図研究がきわめて大きな展開を遂げ、新たな視点から古地図がとらえられるようになった時期である。これらを踏まえた上で地図史を描けばどうなるのか。その小さな試みの結果が拙著である。それぞれの専門に合わせて古代・中世は金田が、近世・近現代は上杉が担当している。通読すれば、各時代の特徴も分かっていただけるのではないかと思う。

 『地図の歴史』は「日本」のみならず「世界」の地図史が語られており、その意味では二人がかりでようやく織田先生の視野の半分にしか到達しておらず、弟子・孫弟子としては恥ずかしい限りなのだが、ひとまず「今後の課題としたい」という常套句にゆだねておくことにしたい。
                                           (上杉筆)

『日本地図史』金田 章裕・上杉 和央著
   吉川弘文館刊 3800円+税 好評発売中
   http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b96127.html

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自著を語る(76) 自著紹介『死ぬまで編集者気分』

自著紹介『死ぬまで編集者気分』

小林祥一郎

1954年の秋、平凡社に入社して百科事典雑部門を担当した。百科事典には必須だが、各専門委員会の選定からもれた雑具雑貨などの項目の落ち穂ひろい役である。たとえば制度としての金庫について書く人はいても、物としての金庫、貯金箱、財布などについて書ける人を探すのは簡単ではなく、雑部門には委員会もなかったから、町に出かけて書籍や資料を仕込んだ。私の通勤先は四番町の平凡社と神保町の古書展街との往復になった。また業界にとびこんで雑学の博識を訪ねた。

民俗学では柳田国男さんが採集の学であった民俗学を現代科学として再編成することに腐心し、人類学では岡正雄さんや石田英一郎さんが戦後大学ではじまった新しい人類学教室の設計に奮闘中で、私はその建設中の姿をまぢかに見ながら勉強することができた。おまけに『新日本文学』の編集長もつとめ、二束のワラジをはいていたのである。

この百科事典は署名原稿だから、執筆者が見つからないときは小池文貞氏の登場となる。この署名は編集部原稿で、雑部門のほか民俗学・人類学も担当することになった小林祥一郎、風俗その他を担当した池田敏雄、家庭を担当する立石文子、内藤貞子の姓名の合成である。やがてテレビの普及がはじまる。どのメディアでもこの方面の人を見つけるのは困難とみえ、テレビ局から小池文貞さんの住所を教えてほしいという電話がたびたびかかってきたが、小池氏は完結と同時に急逝していた。

『世界大百科事典』は四苦八苦の結果、1955年に完結。売れ行きが今ひとつだったので、社をあげて拡販活動にあたり、政財界人や文化人、芸能界の人々によって「世界大百科事典を薦める会」が結成された。それは下中弥三郎社長を信頼するあの時代の政財界のふところの広さを語っている。

その後、二代目社長の下中邦彦氏が企画した『国民百科事典』が空前の大ヒットになり、好景気がつづく。前後して私は『日本残酷物語』のリライト編集や、グラフ雑誌『太陽』の編集長をつとめたが、『アポロ百科事典』の返品の山をみて、『世界大百科事典』が売れているうちに、単行本を編集しながら新しい百科事典を準備しようと構想した。のちに評判になった「社会史シリーズ」はその過程の出版である。しかしその間、平凡社は今でいうリストラに迫られ、『大百科事典』は編集が遅れで絵ぬきの百科事典になり、私は女性誌『フリー』の創刊などで再建をはかったが、これにも失敗して平凡社を1985年に退職した。後半の編集者人生は、「本つくり」というより、生き生きとした「編集の現場をつくる」ことだったが、結果的にそれも不成功だった。「失敗の出版私史」という所以である。

マイクロソフト社に頼まれた電子版百科事典『エンカルタ』は、人生最後の百科事典作戦だったが、2001年、71歳のとき退職した。しかし私は今も空想の図書館つくりを楽しんでいる。死ぬまで編集者気分と題する所以である。

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即売展の魅力(1) 古書即売会の魅力-未知の本に必ず出合える

古書即売会の魅力-未知の本に必ず出合える

日本古書通信社編集長 樽見 博

 「日本古書通信」総顧問八木福次郎が亡くなって2ヶ月余りがたった。昭和54年1月入社以来実に33年間もお世話になった恩人であり師匠でもあった。ここ10年ほどは雑誌の編集を任されてきたが、八木の意に叶う成果は上げられず忸怩たる思いが強い。最初の10年ほどは編集といっても何をどうすれば良いか全く分からなかった。八木を苛せることも多く、逃げ出そうかと考えたことも何度かあった。そこを何とか乗り切れたのは、満足には出来なくても仕事そのものは面白いし、事務所が東京古書会館内にあったため、金曜土曜の即売会と毎日開かれる市場を覗くことが出来たからだ、とはっきり言える。

 古本好きには神保町古書街や東京古書会館は聖地でありパラダイスだ。何十年も古本屋や古本探しを続けていても、ここに来れば初めて見る本や雑誌に必ず出会えるからだ。勿論それは稀覯本や金額的に高い古本とは限らない。しかしともかくも何年たっても未知の本が眼前に現れるのだ。  業者の市には、未知の本に価値を与え競争入札するというスリルがあるが、古書即売会の面白さは、長年探していた本や未知の本を一般人が直に手に取り確かめて買えるという魅力に尽きるだろう。古書価は、珍しさ、保存の程度、内容の良し悪しの三要素で決まるが、それは一般化した場合の話しだ。古本の持つ価値・魅力は実は各人各様で一般化は出来ない。文学書など明らかに初版尊重が顕著だが、内容が改訂された再版や装丁を変えた重版・異装本を探す場合は極めて多いのだ。日本の古本屋には現在600万件を越すデータが搭載されているが、1冊の本が持つ様々なバリエーションをすべてカバーは出来ていない。第一、現物を見ないことには確認出来ない。なにしろ未知の本を探しているのだから、その点はいかにデータが膨大になろうが無理なのだ。

 私は、ここ6年ほど昭和前期の俳人による戦争俳句作品・評論に関する資料を探してきた。純粋に芸術的であった俳人達が、戦争という状況に直面することで変貌していってしまう、その実態を当時の資料で辿りたかったのだ。中でも指導的な立場にある俳人は俳句入門書や理論書を大抵出しており版を重ねる本も多い。それらが戦時体制に統一されていく中で初版には無かった戦争俳句に関する記述を増補した改訂版が出される。あるいは句集にも戦争の色が徐々に濃くなって行くのだ。戦争俳句に関する論議は、当初、伝統俳句と新興俳句の論争の中で盛んに行われたのだが、いわゆる「京大俳句事件」という新興俳句への弾圧により終息する。以降、戦争俳句、なかでも戦地にある人々の作品は神聖なものとして犯すべからざるものになり、芸術的な論議の対象ではなくなる。その経過を辿るには、当時の俳句総合雑誌「俳句研究」や様々な俳句結社誌や同人誌に当たるしかない。しかも編集後記とか俳壇や同人消息など小さな記事が意味を持つ。逆に戦中に出された本から戦争色を消して戦後再刊された本もある。これらは現物を見て知るしかないのだ。日本の古本屋のデータだけでは分からないし、第一、戦前の俳句雑誌など極僅かしか登載されていないのが現状である。こうした資料探求の実情は、テーマを持って古本を求める人間なら誰でも共通なことだ。どんなに便利な世の中になっても最終的に資料は足と時間を費やして探すしかない。

 「日本古書通信」の編集を通して多くの古本好きに出会い、そしてお別れしてきた。彼らは若い頃や壮年期までは熱心に即売会に通うが、やがて古本購入は目録中心に変化していく方が多かった。時間の問題もあるが、収集が進むとなかなか満足できる資料に巡りあうことが少なくなっていく。最初に書いた未知の本に必ず出会えると書いた事と矛盾するようだが、希望する資料が少なくなるのは当然である。ただそこまでに達する収集家は極一部だし、買うべきものには出会えないことを承知で、なお万分の一の可能性を求め即売会に通う人も少なくない。新しい探求者や収集家は現れてくる。どんどん新鮮な商品を販売してくれれば即売会はずっと存在していけると思うし魅力は失せない。古本屋さんたちには頑張ってもらわなくては困るのだ。

略歴 樽見 博(たるみ ひろし)
昭和29年、茨城県生まれ。57歳。
主な著書『古本通』『三度のメシより古本!』『古本愛』(いずれも平凡社刊行)

  日本古書通信 http://www.kosho.co.jp/kotsu/ 

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自著を語る(78) 「定食と古本」自著を語る

「定食と古本」自著を語る

今柊二

「定食と古本」は、本の雑誌社の前著「定食と文学」の続編的作品です。前著では、文学作品等の中にあらわれた定食を紹介することがテーマでしたが、今回は「古本を買いつつ定食を食べる」ことが大きなテーマとなっています。

本書のなかでは神保町の定食ポイントが多く紹介されていますけど、これは「ナビブラ神保町」という神保町の公式タウンサイトに連載されていたもの(「定食ホイホイ」)をまとめたものに加筆したものです。神保町を訪れる人々は「本を買う」という大きなミッションがあります。そのためご飯を食べるところを探すことは二の次になったり、いろいろと店を探すのも面 倒だったり、さらには最初に入った店が結構居心地がよかったりして、新しい店を開拓しない傾向がある人もいます。 かく言う私も「いもや」「さぼうる2」などのヘビーユーザーだったんですけど、連載のこともあっていろいろと店に入ってみるようになりました。

それにしても、神保町は良い店が多いですね。あらためてそのことが良く分かりました。ただ、ちょっと残念なのは、新規開拓のため、かつてよく入っていた店になかなか入ることができなくなったことですかね。本当は一つの店にこだわって入り続けて、長い時間のなかでのお店の変化を楽しむのも、とてもステキなんですけどね。

 また、本書では全国の古書店と定食屋の訪問記録も掲載していますけど、これはまだまだ、やり足りません。特に神奈川・横浜の部分がスッポリと抜けています。これは実は考えがあります。本書の最後に私の自伝めいたコーナーがありますけど、四国から上京して住んでいたのが横浜で、首都圏での最初の古本彷徨の地でした。

ま あ、横浜の古書店のなかには思いいれの強い店もありますし、またなくなってしまった名店もいくつもありますから、そのあたりは定食事情と絡めて是非、本書の続編で記したいものです。あっ、後、海外(主にアジア)の古書店と定食のこともまだ書いていないので、こちらもいずれそのうちに。

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