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正信念仏偈聴記
正信念仏偈聴記 <正信偈>
正信念佛偈聽記 ※函欠
曽我量深選集 第9巻 第5版 正信念仏偈聴記 真宗大綱
曽我量深選集第9巻正信念仏偈聴記、真宗大綱
曾我量深講義集 第十四巻 「仏陀のさとり」 彌生書房 昭63年初版函付き 曽我量深(1875年(明治8年)9月5日 - 1971年(昭和46年)6月20日)、1875年9月5日、新潟県西蒲原郡味方村(現、新潟市南区味方)円徳寺に、富岡量導の三男として生まれる。1897年、新潟県南蒲原郡新潟村大字指出(現、見附市)の浄恩寺に入寺、曽我恵南の養子となり曽我姓となる。1899年、真宗大学(現、大谷大学)本科を卒業。1901年、真宗大学が東京府北豊島郡巣鴨村宮仲(現、東京都豊島区上池袋一丁目・宮仲公園付近)へ移転・開校するにともない、東京に移住する。初代学監(学長)には、清沢満之が就任する(~1902年)。1903年3月、清沢満之が近角常観の留守宅にて主宰した私塾浩々洞に加入する。同年6月6日、清沢満之示寂。1904年7月、真宗大学研究院を卒業し、同年9月に同大学の教授に就任する。1911年、真宗大学を京都に戻し、高倉大学寮と合併し、真宗大谷大学と改称することが決定する。(1913年、移転。)同年9月、同大学の京都移転に反対して辞任し、10月には郷里新潟に帰り研鑽を続けつつ、同郷の金子大栄と親交を深める。1916年、金子大栄のあとを受けて、清沢満之が創刊した雑誌『精神界』の編集責任者として再び東京へ移住する。同年9月、東洋大学教授に就任する。1924年3月、東洋大学教授を辞任し、同年10月、再び郷里新潟に帰る。1925年4月、大谷大学教授に再任、京都に移住する。1926年、「如来表現の範疇としての三心観」を講義する。『無量寿経』に説かれる法蔵菩薩と、唯識思想の阿頼耶識(第8識)とは本質的に同じであり、「本願の三心(至心・信楽・欲生)」と、「阿頼耶識の三相(自相・因相・果相)」とは同じものであると主張する。1927年、講義録『如来表現の範疇としての三心観』を著す。1930年3月、『如来表現の範疇としての三心観』における主張が、異安心とされ問題となり、事実上追放の形で、同大学教授を辞任する。(しかし、その後も自説を堅持する。)同年9月、金子大栄らと共に左京区鹿ケ谷に興法学園を開設する。同学園にて、研鑽と講義を継続し、多くの論文を発表する。1941年8月、真宗大谷派の最高の学階である「講師」に任ぜられる。同年11月、大谷大学教授に復職する。
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