小川国夫 著、朝日新聞社、1994年1月、566p、20cm
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『悲しみの港』は1994年(平成6年)の出版であるが、私にとっては初めて読む本だった。小川氏の作品は、若い頃『アポロンの島』『或る聖書』など幾つかの作品を読んだものの、正直、私には難しすぎて敬遠していた。訳あって久方ぶりに氏の作品を読んだのだが、何と言おうか、敢えて言えば、「懐かしい」という感想を持った。というのは、私の若い頃には文学とはこうした作品のことを言っていたように思い出されるからだ。
西洋クラシック音楽の歴史を考えてみると、バロックから古典派、ロマン派から民族音楽派・印象派・後期ロマン派、そして現代音楽と流れがあるように、小説を中心として見た近代日本の文学も、明治の黎明期から、浪漫主義、自然主義、耽美派、白樺派、プロレタリア文学、新感覚派、第三の新人、等々種々様々な潮流があったが、そこには常に大衆小説とは一味も二味も違った文学があったような気がする。
それが今、音楽では、現代音楽が難解になりすぎて一般庶民には縁遠いものとなり、クラシックのコンサートと言えば、バロックから(せいぜい)20世紀前半までの音楽を繰り返し演奏するものとなってしまった。文学(小説)の分野でも同じようなことが言える。いま巷に溢れている「文学」は、菊池寛の言葉を借りれば、「中間小説」(今風に言えばエンターテインメント小説)で、読者の胸にずしりとこたえるような純文学の作品にお目に掛かることは滅多にない。(私は現存の作家では、水村美苗氏と平野啓一郎氏に期待しているのだが、水村氏はあまりに寡作だし、平野氏は最近エンターテインメント小説に傾きつつある。)だから、いわゆる純文学を愛する者は、今は亡き有名作家――夏目漱石、島崎藤村、谷崎潤一郎、芥川龍之介、三島由紀夫、遠藤周作などの作品に帰って行くことになる。
しかし、そこまで有名ではない純文学作家・小川国夫氏の作品を読む人は今は稀なのではあるまいか。そんななか、『悲しみの港』を読み、改めて文学とは何かを、具体的作品を通して考えさせられた。そして「懐かしい」気がした。