横山松三郎撮影カ、明治紀元歳次戊辰秋九月於東亰模之
■商品詳細
【書名】 源中将十八世新田俊純四十歳冩真
【巻冊】 一枚
【著者】 横山松三郎撮影カ
【成立】 明治紀元歳次戊辰秋九月於東亰模之
★ 桐箱の大きさ/15×11.5㎝
★ ガラス寫眞乾板
★ 西堀發五郎晟綱/31歳 小林外記貞誠/19歳
小幡一學美征/27歳 藤生源左衛門正義/24歳
★ 徳川家康が新田義貞の子孫と主張したために江戸期には岩松姓を名乘ったが徳川家からは冷遇されて領地は新田荘の下田島120石に留められた。維新直後新田姓に復姓した。江戸期の幼名・通稱として智丸・兵部・主税・万次郎。
★ 文久年間に後に明治の怪傑・奇人・滑稽家と稱された薩摩藩士中井弘(櫻洲)が太田宿本陣に一年程滯在して南朝忠臣新田義貞の末裔である俊純を押し立てて義軍の結成を計畫したと云われる。井上馨の妻で鹿鳴館の華とされた武子は新田俊純の娘である。一説に中井が太田宿に滯在していたときに中井に見初められて妻となったされるが定かではない。中井と離別後に大隈重信邸に預けられた美貌の武子はそこで井上馨に見初められて明治二年に大隈と伊藤博文らの世話で井上と結婚した。明治九年に井上と共に渡米渡歐して西洋式社交術を修得。福澤諭吉の弟子中上川彦次郎から英語を學んで外務郷となった井上と鹿鳴館外交の中心人物となった。鹿鳴館の名付け親は中井弘である。尊皇派と佐幕派の對立が深まる中の慶應三年、新田義貞の勤王倒幕の志を繼ぎ今再び勤王倒幕を目指す新田三王党が結成され、俊純がその盟主となった。勤王倒幕の謀議をしていたところ、その計畫が幕府方に漏れて捕縛され、主だった者が處刑される豫定となったが、直前の慶應四年二月に江戸征伐に向かう東山道鎮撫総督岩倉具定率いる官軍が中山道を通りかかったために、その際に官軍にいより解放された。その際に新田官軍と改名し、戊辰戰爭での舊幕府軍との戰闘で戰功をあげ、朝廷から所領を安堵された。慶應四年五月八日に朝臣に轉じた俊純は舊交代寄合として中大夫席に列しこの際に新田姓に改姓した。同年七月には越後府知事に就任。明治二年一二月に中大夫席以下が廢されると士族に列した。この寫眞は新田俊純と名乘り越後府知事就任直後に東京で家臣らと記念撮影したガラス寫眞乾板である。當時、東京で寫眞館を開いて寫眞を撮影できる人物は横山松三郎にほぼ限定される。
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