明治21年頃寫
■商品詳細
【書名】 碓氷英學校設立規則
【巻冊】 一枚
【著者】
【成立】 明治21年頃寫
★ 和紙/52×110㎝
★ 全13条 少し欠損
★ 群馬縣碓氷郡原市町の私立碓氷英學校は、明治21年10月、熊本の五高時代に夏目漱石と同僚となり生涯交流した奥太一郎が教頭となり英語と數學を教えたと云う。
★ 奥 太一郎
1893年(明治26年)3月東北学院送別記念
生誕 1870年6月21日又は20日(明治3年5月23日又は22日)
日本の旗 日本・京都府京都
死没 1928年10月13日(58歳没)
日本の旗 日本・東京府
国籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
教育 帝国大学文科大学哲学科卒業
宗教 キリスト教(日本福音ルーテル教会)
配偶者 奥きく子
子供 中川輝子
親 奥輝太郎
親戚 奥亀太郎(兄)、伊庭菊次郎(弟)、徳富蘇峰・蘆花(義叔父)
受賞 正五位勲六等
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奥 太一郎(おく たいちろう、1870年6月21日又は20日(明治3年5月23日又は22日) - 1928年(昭和3年)10月13日)は、戦前日本の教師。碓氷英学校教頭、北越学館教授、東北学院教授、岡山県津山尋常中学校教諭、第五高等学校教授、活水女学校教頭、日本女子大学校教授。五高時代に夏目漱石と同僚となり、生涯交流した。
経歴
修学と就職
明治3年(1870年)5月23日又は22日、京都に岩倉具視家臣奥輝太郎の次男として生まれた。原籍は東京府京橋区松屋町三丁目17番地。生地は水戸とする説もある。
1882年(明治15年)12月下京区公立永松小学校中等科全課を卒業し、1883年(明治16年)1月私立明倫館に入学して漢文学を学んだ。9月岩倉具視の勧めで私立同志社学院に転じ、普通学を学んだ。
1888年(明治21年)6月同志社学院英語普通科を卒業後、10月群馬県碓氷郡原市町私立碓氷英学校教頭となり、英語・数学を教えた[1]。1890年(明治23年)3月碓氷英学校を退職し、4月同志社時代の先輩麻生正蔵の招きで新潟市私立北越学館教授となり、英語・数学・経済学を教えた。1892年(明治25年)3月北越学館を退職し、4月から仙台市私立東北学院教授として英語・歴史・社会学等を教えた。
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