大正13年~15年、合計172枚
白井喬ニは『サンデー毎日』誌上で、連載小説「新撰組」を執筆した。連載は大正13年5月25日号から始まり、大正14年6月28日号まで全55回。当時の『サンデー毎日』はB4サイズの大判で、巻頭に白井喬ニの小説とともに、金森観陽の迫力ある挿絵が大きく掲載された。
これは当時としては画期的な試みで、連載小説を巻頭で大々的に扱うという常識破りの編集方針が、読者に強い印象を与えた。これが非常に好評を博し、『サンデー毎日』の看板企画として定着。以降、同誌は呼び物の連載を巻頭に据えるスタイルを確立し、雑誌のイメージを大きく特徴づけることになった。
週刊誌ゆえに締切は厳しく、原稿が上がると編集者は急いで金森観陽の元へ駆けつけ、即座に挿絵を描かせて掲載に間に合わせた。このため原稿には「イソギ」「大イソギ」といった言葉が書き込まれているものが多く、当時の制作現場の切迫した様子がうかがえる。
白井喬ニは「『新撰組』を終へて」のなかで、金森観陽について以下のように評している。
「金森観陽氏の挿画は実に立派なものだ。筆勢構図の巧なることは勿論だが、作者として満足する事は人物の服装所持品等微細な点まで一々抜け目のない事で、これは小説挿絵の第一条件たる一種の他力境に到達されているためで、誠に貴く思うのである。」
さらに『サンデー毎日』大正14年11月29日号から、白井喬ニは「元禄快挙」の連載を開始、「新撰組」と同様に金森観陽の挿絵が起用されたが、大正15年3月に白井喬ニから「子供の病気と構想を練り直したい」との申し出があり、途中で中断となった。
本品は、金森観陽の「新撰組」挿絵原画140枚および、「元禄快挙」挿絵原画32枚である(合計172枚)。「新撰組」原画に付されたラベルには148枚と書かれているため不足があるのだろう。「元禄快挙」のラベルには32枚と書かれているので全て揃っている可能性が高い。
金森観陽は明治17年、富山生まれ。尾竹国一に師事し、大阪を拠点に関西画壇で活躍。文展・帝展に入選を重ね、昭和初期には菊池契月にも学んだ。官展から離れた時期は挿絵画家としても活動し、中里介山『大菩薩峠』などの挿絵を担当。昭和7年、48歳で没。
状態は経年シミや折れ、ヨレなどが見られる。原稿を連載順に並べるなどの整理をしていない点は、ご容赦ください。
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