後藤朝太郎自筆他、昭和20年6月19日〜昭和20年8月1日頃
■商品詳細
【書名】 後藤朝太郎最晩年ノ判取帳
【巻冊】 小本一册
【著者】 後藤朝太郎自筆他
【成立】 昭和20年6月19日〜昭和20年8月1日頃
★ 革装釘 大きさ/8.6×12.6㎝ 厚さ/3.7㎝
★ 末尾に「持主/東京、武藏境三六八 望月清次(電境五三)
★ 一説に終戦直前の8月9日、国家権力により暗殺されたとされる支那言語学者後藤朝太郎の最晩年の雑記帳。
★ 明治時代後期から昭和時代前期の言語学者とされ、東京帝國大學講師、日本大學教授、號は石農。支那通として知られた。愛媛縣に生まれたが廣島縣人とされる。
★ 著書編著は110册を越える。主な著者に『文字の研究』『支那風物誌』など。戰前に20数回以上も大陸へ渡り当時の中国の風俗や文化を取材しながら本を30册以上執筆して中国大陸への関心が高かった当時は広く読まれた。大戦前にとどまらず、戦時中も現地人になりすまし庶民が行くような飯店に通って大衆料理に舌鼓を打ったり知名の人士との交流をしたと云う。傍ら漢籍の翻譯も行い『國譯漢文大成』『淮南子』を翻譯した。
★ 戦中は研究者から軽蔑の眼で見られながらも中国人民に同情して軍部への反発を貫いた。後藤は特高警察の尾行、憲兵からの逮捕、大学講義内容の検閲、巣鴨拘置所入り等々の迫害を受けるようになり、昭和20年終戦直前の8月9夜8時半、東急東横線の都立高校駅踏切で何者かに突き飛ばされて轢死を装い暗殺されたらしい。
★ この判取帳にはその直前の8月1日の日付が記されている。後藤は山梨に疎開していたようでそこでの記述が最も多い。冒頭の6丁は後藤の15種類の印譜集である。その後に3名の寄せ書きがあり、後藤と同郷の廣嶋縣尾道の彫刻家、圓鍔勝三(本名/勝二)の絵入の書がある。
★ 記されているのは28丁迄で判取帳の三分の一に満たない
。このとき後藤は64歳であった。旧蔵者の望月清次は昭和32年に武蔵野市の桜橋に建てられた國木田獨歩文學碑の世話人として柳田國男らと名を連ねている。
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