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「山本芳翠西洋画風肖像画幅」の検索結果
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山本芳翠西洋画風肖像画幅

名雲書店
 群馬県高崎市八千代町
2,200,000
Yamamoto Fosui、明治七年〜九年頃作
■商品詳細

【書名】 山本芳翠西洋画風肖像画幅
【巻冊】 一幅
【著者】 山本芳翠
【成立】 明治七年〜九年頃作 

★ 道本中興齋周賛
★ 凾書き「当家先代/藤原實忠様像」と墨書 
★ 絹本着色 117×51㎝ 軸長/192㎝ 極美品

★ 明治洋画の先驅者・父などと評價される吾國洋画壇の偉大な人物。
★ 嘉永3年、美濃恵那郡明智村野志(現恵那市)で農業と養蠶を營む山本權八の長男として生まれる。明治初期に清國に南宗画を學びに行こうと志して横濱に出る。そこで横濱繪に感心して南宗画から轉向した。諸説あるが明治2年頃には初世五姓田芳柳の門下となり、6年頃には横濱の伊勢町で獨立して芳柳の工房に通っていたらしい。芳柳の次男五姓田義松とチャールズ・ワーグマンに會ってほんとうの西洋画に目覺めた。明治6年の末頃には津田仙の學農舎に寄留して肖像画で一家を成すまでに至ったと云う。
★ 本作はその頃の初期の作品と考えられる。明治10年の内國勸業博覽會には「勾當内侍月詠圖」を描いて三等花門章を受けた。芳翠は芳柳門を離れて石版工房松田緑山の玄々堂に住み洋画を指導した。
★ 明治11年2月11日、津田仙と岸田吟香の斡旋と後援者を得て、巴里萬國博覽會の事務局雇として佛蘭西に向かって横濱を出航して約10年間留學した。芳翠はとりわけ器用で料理も上手く腕前は板前並みであったそうで、當時の在佛日本人が日本食を食べたくなると、みな芳翠の下宿に行ってご馳走になったと云う。薩摩出身の黒田清輝もそうした一人だったが、芳翠は画商の林忠正と共に黒田の優れた美術の才能を見出して画家になるよう強く勸め、法律家志望だった黒田を洋画家へ轉向させる。林忠正はゴッホに浮世繪を販賣していた人物である。それを知った黒田の實家は画家轉向に猛反發したが、芳翠は黒田の叔父で養父の黒田清綱に画家轉向を説得して遂に同意を得たらしい。
★ 明治20年に芳翠は無事に歸國した。しかし芳翠が渡歐先で足掛け10年に及び制作した300點〜400點と云われる作品は、當時日本海軍が佛蘭西に注文した巡洋艦畝傍に積載されて日本に向かったが南支那海で消息を斷ってしまいかけがえのない作品が全て失われてしまった。
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Yamamoto Fosui 、明治七年〜九年頃作
■商品詳細 【書名】 山本芳翠西洋画風肖像画幅 【巻冊】 一幅 【著者】 山本芳翠 【成立】 明治七年〜九年頃作  ★ 道本中興齋周賛 ★ 凾書き「当家先代/藤原實忠様像」と墨書  ★ 絹本着色 117×51㎝ 軸長/192㎝ 極美品 ★ 明治洋画の先驅者・父などと評價される吾國洋画壇の偉大な人物。 ★ 嘉永3年、美濃恵那郡明智村野志(現恵那市)で農業と養蠶を營む山本權八の長男として生まれる。明治初期に清國に南宗画を學びに行こうと志して横濱に出る。そこで横濱繪に感心して南宗画から轉向した。諸説あるが明治2年頃には初世五姓田芳柳の門下となり、6年頃には横濱の伊勢町で獨立して芳柳の工房に通っていたらしい。芳柳の次男五姓田義松とチャールズ・ワーグマンに會ってほんとうの西洋画に目覺めた。明治6年の末頃には津田仙の學農舎に寄留して肖像画で一家を成すまでに至ったと云う。 ★ 本作はその頃の初期の作品と考えられる。明治10年の内國勸業博覽會には「勾當内侍月詠圖」を描いて三等花門章を受けた。芳翠は芳柳門を離れて石版工房松田緑山の玄々堂に住み洋画を指導した。 ★ 明治11年2月11日、津田仙と岸田吟香の斡旋と後援者を得て、巴里萬國博覽會の事務局雇として佛蘭西に向かって横濱を出航して約10年間留學した。芳翠はとりわけ器用で料理も上手く腕前は板前並みであったそうで、當時の在佛日本人が日本食を食べたくなると、みな芳翠の下宿に行ってご馳走になったと云う。薩摩出身の黒田清輝もそうした一人だったが、芳翠は画商の林忠正と共に黒田の優れた美術の才能を見出して画家になるよう強く勸め、法律家志望だった黒田を洋画家へ轉向させる。林忠正はゴッホに浮世繪を販賣していた人物である。それを知った黒田の實家は画家轉向に猛反發したが、芳翠は黒田の叔父で養父の黒田清綱に画家轉向を説得して遂に同意を得たらしい。 ★ 明治20年に芳翠は無事に歸國した。しかし芳翠が渡歐先で足掛け10年に及び制作した300點〜400點と云われる作品は、當時日本海軍が佛蘭西に注文した巡洋艦畝傍に積載されて日本に向かったが南支那海で消息を斷ってしまいかけがえのない作品が全て失われてしまった。

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