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清水六兵衛書簡 中村正義宛

名雲書店
 群馬県高崎市八千代町
11,000
■商品詳細

【書名】 清水六兵衛書簡 中村正義宛
【巻冊】 一通(便箋ペン書)封筒欠
【著者】 
【成立】

★ 七代六兵衞は、塚本竹十郎の三男として1922(大正11)年に名古屋に生まれた(幼名・廣、後に洋、裕詞)。名古屋高等工業学校建築科を繰り上げで卒業後、召集され戦地に赴く。復員後、東京美術学校附属工芸技術講習所ならびに東京芸術大学彫金科で学ぶ。1951(昭和26)年に六代六兵衞の養嗣子となり陶芸の道に進む。1950年代から60年代にかけてクラフト作品を制作する一方で日展に作品を出品し、特選を連続して受賞するなど陶芸家として高い評価を得る。1966(昭和41)年に初めて彫刻作品を発表した後は、1968(昭和43)年に九兵衞を名乗り、アルミニウムを主な素材に用いて彫刻家として活躍した。1980(昭和55)年に六代の急逝を受けて七代を襲名。

★ 七代の陶器作品では、洋(裕詞)時代から一貫して器物の「口」の意味が造形的に探られている。また七代の素材感に対する関心は人一倍強く、京都の黒い屋根瓦が連なった美しさを賞賛する一方で、一時陶器制作から離れたのも陶器の素材感になじめないことが大きな理由であった。2000(平成12)年に代を八代に譲ってからは彫刻制作に専念し、2006(同18)年に惜しまれつつ死去。

★ 1962(昭和37)年に日本芸術院会員に任命され、京都陶芸界の重鎮として若手の指導育成にも尽力したが、1980(同55)年に東京で開催された歴代展初日の挨拶中に倒れ急死。その突然の死は京都のみならず全国の多くの工芸家ならびに工芸愛好家に惜しまれた。

★ 中村 正義(なかむら まさよし、1924年(大正13年)5月13日 - 1977年(昭和52年)4月16日)は、日本画家。戦後の日本画壇において異端的な作品を数々発表し、「日本画壇の風雲児」と呼ばれた。
★ 子供のころから病弱で、美術学校に行くこともできなかったが、日本画壇の重鎮・中村岳陵の画塾に入門し、22歳で日展に初入選。たちまち頭角をあらわす。速水御舟の再来とも言われ将来を嘱望されたが、その後モディリアーニやデュビュッフェ、さらにポップアートなどを自分流に咀嚼した破天荒な画風に転じ、日展を脱退、師の元も離れる。
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■商品詳細 【書名】 清水六兵衛書簡 中村正義宛 【巻冊】 一通(便箋ペン書)封筒欠 【著者】  【成立】 ★ 七代六兵衞は、塚本竹十郎の三男として1922(大正11)年に名古屋に生まれた(幼名・廣、後に洋、裕詞)。名古屋高等工業学校建築科を繰り上げで卒業後、召集され戦地に赴く。復員後、東京美術学校附属工芸技術講習所ならびに東京芸術大学彫金科で学ぶ。1951(昭和26)年に六代六兵衞の養嗣子となり陶芸の道に進む。1950年代から60年代にかけてクラフト作品を制作する一方で日展に作品を出品し、特選を連続して受賞するなど陶芸家として高い評価を得る。1966(昭和41)年に初めて彫刻作品を発表した後は、1968(昭和43)年に九兵衞を名乗り、アルミニウムを主な素材に用いて彫刻家として活躍した。1980(昭和55)年に六代の急逝を受けて七代を襲名。 ★ 七代の陶器作品では、洋(裕詞)時代から一貫して器物の「口」の意味が造形的に探られている。また七代の素材感に対する関心は人一倍強く、京都の黒い屋根瓦が連なった美しさを賞賛する一方で、一時陶器制作から離れたのも陶器の素材感になじめないことが大きな理由であった。2000(平成12)年に代を八代に譲ってからは彫刻制作に専念し、2006(同18)年に惜しまれつつ死去。 ★ 1962(昭和37)年に日本芸術院会員に任命され、京都陶芸界の重鎮として若手の指導育成にも尽力したが、1980(同55)年に東京で開催された歴代展初日の挨拶中に倒れ急死。その突然の死は京都のみならず全国の多くの工芸家ならびに工芸愛好家に惜しまれた。 ★ 中村 正義(なかむら まさよし、1924年(大正13年)5月13日 - 1977年(昭和52年)4月16日)は、日本画家。戦後の日本画壇において異端的な作品を数々発表し、「日本画壇の風雲児」と呼ばれた。 ★ 子供のころから病弱で、美術学校に行くこともできなかったが、日本画壇の重鎮・中村岳陵の画塾に入門し、22歳で日展に初入選。たちまち頭角をあらわす。速水御舟の再来とも言われ将来を嘱望されたが、その後モディリアーニやデュビュッフェ、さらにポップアートなどを自分流に咀嚼した破天荒な画風に転じ、日展を脱退、師の元も離れる。

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