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「諫暁神明記 佛性院日奧真筆 宗祖日蓮の純粹を守った反骨の導師、日奧が配流先の対馬で慶長九年に記した『諫暁神明記』」の検索結果
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諫暁神明記 佛性院日奧真筆 宗祖日蓮の純粹を守った反骨の導師、日奧が配流先の対馬で慶長九年に記した『諫暁神明記』

名雲書店
 群馬県高崎市八千代町
5,500,000
佛性院日奧眞筆、慶長九年甲辰仲秋之此於對馬宮谷草菴撰之
■商品詳細

【書名】 諌暁神明記
【巻冊】 二巻
【著者】 佛性院日奧眞筆
【成立】 慶長九年甲辰仲秋之此於對馬宮谷草菴撰之

★ 紙髙33㎝。上巻/1280㎝。下巻/1350㎝。桐箱入。
★ 日蓮宗不受不施派祖、佛性院日奧も自筆文書。日奧自ら「諫暁神明記」と立題する。
★ 「不受不施こそが、法華經行者の眞の姿である。宗祖日蓮聖人の求められた不屈も生き方である」と、宗祖日蓮の純粹を守った反骨の導師、日奧眞筆の『諫暁神明記』。
★ 慶長四年、徳川家康によって對馬へ流罪に處され、流罪から約五年めの慶長九年秋、日奧40歳の時、對馬宮谷の草菴にて書き上げた総延長26㍍に及ぶ巻子本の大作。本書は裏打表装されており、下巻の巻頭に日奧聖人の眞筆と認める「日奧尊師六代之末弟本事院日観」が、おそらくは一巻だった本書をあまりに長いため上下二巻の構成に改め、江戸中期頃に表装したものと考えられる。
★ 『諫暁神明記』は『萬代龜鏡録』の中で飜印される。それと照合してみると本紙を切り抜いて削除した部分がそのまま反映されている。
★ 本書にいくつかある「私云」とする日奧の注記は飜印には無い。飜印と上下構成が若干異なり、本文はその分量からおそらくは完存していると思われるが、下巻は後半を除いた順不同の箇所がある。
★ 文禄4(1595)年に、豐臣秀吉が發願した大佛千僧供養への出仕の可否をめぐって、京都日蓮宗内に諺施受不受の問題が惹起したのに端を發し、あくまで不受不施という宗義の遵守を強く主張した妙覺寺の日奧が、秀吉歿後、家康による大坂城での供養會への出仕も拒否したため家康の怒りをかって對馬流罪に處された。在島13年の後、日奧の熱心な信者である柳川豐前守調信らの盡力により慶長17年に赦免され京に還住した。しかし間もなく身延山を根拠とする日重の系譜をつぐ關西諸山と、池上本門寺を中心とする關東諸山の間に再び不受不施論が起こり決裂した。
★ 寛永7年2月21日兩者を江戸城で對論させたが、その裁決は家康の意向により斷ぜられ、關東諸山は敗論とし、これに出席した池上同心の諸師、日樹・日賢・日弘・日領・日充・日進らは邪義として吉利支丹同樣に彈圧され流罪となり、日奧は再び對馬に流罪とした。
★ 元和2年3月2日、板倉勝重により妙覺寺本坊に移りそこで追記を書き上げ巻末に添え本書を校了か。
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佛性院日奧眞筆 、慶長九年甲辰仲秋之此於對馬宮谷草菴撰之
■商品詳細 【書名】 諌暁神明記 【巻冊】 二巻 【著者】 佛性院日奧眞筆 【成立】 慶長九年甲辰仲秋之此於對馬宮谷草菴撰之 ★ 紙髙33㎝。上巻/1280㎝。下巻/1350㎝。桐箱入。 ★ 日蓮宗不受不施派祖、佛性院日奧も自筆文書。日奧自ら「諫暁神明記」と立題する。 ★ 「不受不施こそが、法華經行者の眞の姿である。宗祖日蓮聖人の求められた不屈も生き方である」と、宗祖日蓮の純粹を守った反骨の導師、日奧眞筆の『諫暁神明記』。 ★ 慶長四年、徳川家康によって對馬へ流罪に處され、流罪から約五年めの慶長九年秋、日奧40歳の時、對馬宮谷の草菴にて書き上げた総延長26㍍に及ぶ巻子本の大作。本書は裏打表装されており、下巻の巻頭に日奧聖人の眞筆と認める「日奧尊師六代之末弟本事院日観」が、おそらくは一巻だった本書をあまりに長いため上下二巻の構成に改め、江戸中期頃に表装したものと考えられる。 ★ 『諫暁神明記』は『萬代龜鏡録』の中で飜印される。それと照合してみると本紙を切り抜いて削除した部分がそのまま反映されている。 ★ 本書にいくつかある「私云」とする日奧の注記は飜印には無い。飜印と上下構成が若干異なり、本文はその分量からおそらくは完存していると思われるが、下巻は後半を除いた順不同の箇所がある。 ★ 文禄4(1595)年に、豐臣秀吉が發願した大佛千僧供養への出仕の可否をめぐって、京都日蓮宗内に諺施受不受の問題が惹起したのに端を發し、あくまで不受不施という宗義の遵守を強く主張した妙覺寺の日奧が、秀吉歿後、家康による大坂城での供養會への出仕も拒否したため家康の怒りをかって對馬流罪に處された。在島13年の後、日奧の熱心な信者である柳川豐前守調信らの盡力により慶長17年に赦免され京に還住した。しかし間もなく身延山を根拠とする日重の系譜をつぐ關西諸山と、池上本門寺を中心とする關東諸山の間に再び不受不施論が起こり決裂した。 ★ 寛永7年2月21日兩者を江戸城で對論させたが、その裁決は家康の意向により斷ぜられ、關東諸山は敗論とし、これに出席した池上同心の諸師、日樹・日賢・日弘・日領・日充・日進らは邪義として吉利支丹同樣に彈圧され流罪となり、日奧は再び對馬に流罪とした。 ★ 元和2年3月2日、板倉勝重により妙覺寺本坊に移りそこで追記を書き上げ巻末に添え本書を校了か。

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