昭和初期〜昭和10年代
■商品詳細
【書名】 湯浅一郎・湯浅太助親子を中心とした湯浅家宛書簡と葉書の大量一括
【巻冊】 約550通
【著者】
【成立】 昭和初期〜昭和10年代
★ 湯浅一郎は明治・大正・昭和戦前期を代表する日本の洋画家である。
★ 湯浅一郎は上州安中の名家で文化人にして政治家で醸造業有田屋の主人でもある湯浅治郎の長男として生まれた。
★ 治郎は元々新島襄の父民治と親しかったが、明治7年に新島襄が帰郷するとその講演を聴いてキリスト教に興味を持ち明治11年に新島襄から洗礼を受けて同時に安中教會を創設した。
★ 海老名彈正は新島の勧めと治郎の求めに応じて安中で傳道活動を行い治郎がその旅費を負担したため親交を持ち安中教會の初代牧師となった。
★ 湯浅一郎は先妻・茂登子との長男であるが、治郎の後妻の初子は徳富蘇峰・蘆花の姉である。
★ 同志社大学第12代総長、国際基督教大学初代学長の湯浅八郎は一郎とは異母兄弟で八郎は初子の子である。
★ 湯浅一郎は同志社英学校を卒業した後、山本芳翠の生巧館画塾で学び、山本芳翠が画塾の経営から身を引くと、それを譲り受けた黒田清輝の天真道場に学んだ。1896年、東京美術学校に西洋画科が新設されたのにともないその選科3年に入学。同年、白馬会の結成にも加わる。
★ 治郎の弟湯浅吉郎(半月)が詩集『半月集』を出版すると、その表紙・裏表紙・口絵の装丁を手がけている。
★ 湯浅吉郎は京都府立図書館館長の時に竹久夢二と会い「第一回夢二作品展覧会」を開催して大成功させ注目された。
★ 湯浅太助は一郎の後妻園田納の子で長男である。一郎宛はニューヨークに留学していた太助のエアメールが大半を占めるが、初子の子で一郎の異母兄弟の湯浅與三が留学先の米国から一郎・行枝夫妻に送ったエアメールも三通ある。※ナイアガラの滝の写真つき
★ 一郎の三人めの妻行枝(ゆくゑ)宛の太助からのエアメールが四通ほどある。
★ 一郎の代表作である「徒然」や「画室」は現在群馬県立近代美術館が所蔵するがそれは湯浅ゆくゑ・湯浅太助の寄贈による。
★ 安中教會の新島襄の肖像画は一郎が描いたものである。
★ 昭和6年胃癌により死去。62歳。
★ 洋画家湯浅一郎と長男太助とゆくゑの親子関係と交友関係を知り得る好資料である。
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