読売新聞社 日本テレビ放送網、1975、153p、25×25cm
メッセージ
エドワード・シルベスター・モースは、1880年(明治
13年)から1916年(大正5年)までピーボディー博物館の
館長でした。 その彼が1877年 (明治10年) に初めて日本
を訪れたのは,動物学者として海産動物を研究するため
でしたが,この旅は彼の人生の転換点となりました。 と
いっても,それは科学の分野でのことではなく, 後半生
で情熱を捧げることになる新たな対象にモースが出会っ
たからです。 時は明治に入ってまだ10年, 大きく変わり
かけている日本を目の当りにして, モースはこう記して
います 「強い力をもち, かつ利己的で商業主義的な
西洋の国々と止むを得ず交渉をもつようになって、かつ
てない変化と改革を体験しつつある国家と国民、その国
家と国民の姿を調査しておくことは何にもまして重要な
ことだろう····・・・」。
モースの訪日から107年, その間をふり返ると, 日本の
変化は誰にも信じられないほどです。 だが, モースが今
日の日本とその国民をみても、100年前に彼が感銘を受け
た優れた素質─私たち一般の欧米人が、今ようやく気
付きはじめた日本の産業とそこで働く人々の素質を今も
見いだすに違いありません。
モースは,大都会から離れた田舎でさえも熟練した職
人が数多いことに印象づけられ、「3600万人が住むこの国
のどこに行っても, 芸術的な仕事をする人々と,その作
品を評価できる人々が沢山いる」と述べています。今回
展示する看板も、情報を伝えるという機能上の必要性
満たしているだけではありません。看板は、洗練された
様式と技術, ならびにシンボルの適切な使用のゆえに、
単なる手段の域を脱して、諸々の技法が工芸家の手で組
み合わされた芸術作品となっています。看板は、江戸時
代から明治時代にかけての、 商業と工芸と美術の手引書
ともいえるのです。 しかも、 1984年の時点にいる私たち
にとっては、そのデザインと構成に示されている完熟し
た技法のために、当時の看板のもつ意義は一段と大きい
のです。その看板のコレクションが今回高島屋で展示さ
れるはこびとなり,現代日本の職人や工芸家, 美術家の
目に触れ、 先人たちの業績をしのぶ機会を与えられたこ
・・・