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妙高高原中心スキー・コース図 裏面・経路案内
妙高高原中心スキー・コース図 裏面・経路案内 地図新潟鉄道局編・刊 刊行年 昭10年発行 46×31cm スキー発祥の地・高田に隣接した妙高高原は、明治の頃より、芸術の題材となる景勝地として、多くの文人・芸術家たちを惹きつけてきた。明治32(1899)年、尾崎紅葉が妙高を訪れ、紀行文「煙霞療養」にて妙高を紹介する。そこで「天下一」と称された赤倉は全国的に知られるところに。岡倉天心、与謝野晶子、与謝野鉄幹、有島武郎、田山花袋、徳富蘆花らも赤倉を訪れ、歌を残している。名だたる文人を惹きつけてきた妙高に、スキー旅行という文化が加わったのは大正時代。レルヒ少佐自身、スキー登山のため、妙高山を訪れている。少佐からスキーを教わった高橋翠郊(すいこう)や中江徳三郎は、妙高にある燕温泉を拠点に、山スキーを楽しむようになった。大正時代の終わりには、赤倉温泉に、高松宮殿下、秩父宮殿下などの皇族がスキーに訪れたこともあり、妙高高原は、夏場の避暑地としてだけではなく、冬のリゾート地としても有名になり、スキーや温泉を楽しむ人々でにぎわいを見せるようになった。その賑わいの中に学生スキーヤーの姿が増えたのは、昭和の初め頃。これは、高田第13師団団長の長岡外史の影響が大きいと言われている。当時の旅団長や師団長の師弟が学習院大学に進学した結果、スキー人口が大学内で増加し、多くの学習院大学生スキーヤーが燕温泉にやって来るようになったのだ。講談社出版の「昭和二万日の全記録」の全国著名スキー場番付では、上位に妙高山近辺のスキー場が見られ、昭和初期当時から妙高界隈は全国的なスキー場として有名だったことがうかがえる。昭和12(1937)年、当時の日本政府の外貨獲得政策として国際リゾートホテル建設が推進され、その一つとして選ばれたのも妙高の地。そして建設されたのが赤倉観光ホテル。以降、妙高は国内のみならず、海外からの賓客のスキー旅行の目的地となってきたのである。
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