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中部高地の考古学 長野県考古学会15周年記念論文集
明治初年農民騒擾録
研究資料 在南洋同胞通信欄・ミンダナオ島の研究・北ボルネオの経済現勢・大洋州情報/他 第1年第9号
佐賀大学地域分文化綜合研究会 地域文化研究 2(民俗文化の伝播と変容(2)/米倉、 明治中期における地域の教育世論ー佐賀新聞に見る/生馬、史料「「勝茂公御代中長崎御番先蹤録(1)/長野、翻刻・俳書「残夢塚集」/田中道雄、翻刻・俳書「経参土産」/杉本妙子)
全国訪ねてみたい古代遺跡100 : 日本古代遺跡観察図鑑
ワイズ出版写真叢書 既刊分 全18巻揃(1~16,18,19)(17は未刊) (全冊サイン入)
明治初年農民騒擾録 再版
明治初年農民騒擾録 昭和48年版
考古学集刊 第4巻 第3・4号
考古学集刊 3巻2号
芸術新潮 14巻12号 通巻168号(1963年12月)
藝術新潮 1963年12月号 第14巻 第12号
現代思想 11(6)
禅と音楽 正派邦楽会初代家元中島雅楽之都 著 昭36年初版 函 新思社 初代家元 中島雅楽之都(なかしまうたしと)正派の創始者、初代家元中島雅楽之都は1896(明治29)年3月21日京都に生まれ、6才のときから箏の道に入る。1913(大正2)年長野市において「正派生田流」の名のもとに、本格的に教授活動を始める。看板を掲げるにあたり、善光寺大本願・大宮智栄上人ほか地元の名士たちの後援をうけ、正統な生田流を修行した者であるという意味でつけられたのが 「正派」の名のおこりである。わずか17才の若さで一派をたてた雅楽之都は、7年後には東京に本拠地をうつし、日本各地はもとより旧満州国、蒙古にまで精力的に足を運んで、箏曲の普及に努めた。こうして蒔かれた正派の種は大きく育まれ、やがて全国に多くの幹部を養成する源となり、現在の組織の基盤となっている。一方、雅楽之都は自らも常に研鑚を惜しまずに芸と人格をみがくことに努め、《和歌の浦》《松籟譜》《四方の海》など優れた数々の作品を発表。三弦は熊本まで出向いて長谷幸輝師に師事。ここで同世代の宮城道雄と知り合い、二人の若き箏曲家は熱く芸を語り、生涯の楽友として新しい邦楽界を担っていった。ほか坪内逍遥、山田耕筰、町田佳聲、中尾都山、田辺尚雄などの各氏にも知遇を得、様々な面での教えをうけている。正派は、当時の箏曲界では画期的であった施策を次々と打ち出した。伝統的な口伝教授の限界を感じての公刊楽譜の発行、洋・邦楽理論をふくんだ筆記と実技を平行させた試験による准師範試験の施行、全国組織としての評議員制などであり、これらはその後、年々充実の度を増しながら現在に至り、正派の特色として高い評価をうけている。組織としては、いわゆる「家元制度」の長所を生かしながら、近代社会に対応できるようなあり方が求められるようになり、1956(昭和31)年9月、邦楽団体では初めて文部省より「財団法人正派邦楽会」の認可を受ける。総裁・理事長には初代家元が就任。また初代家元は、世界的視野に立って日本文化の積極的な担い手となる音楽家を育てるための、専門の学校が必要であると長年考えていた。この意図が周囲に理解されて、1959(昭和34)年に正派音楽院が開校され、現在までに多数の優秀な人材を世に送りだしている。
アサヒカメラ 65巻 3号 通巻585号 (1980年3月)
大野見村史 (高知県)
大野見村史
art now `75~‘87 11冊(75・76・77・79・80・82・84・85・86・87・1970-1980) アート・ナウ 兵庫県立近代美術館 11冊一括
現代用語の基礎知識 1950年版 <自由国民 ; 特別号>
浮田和民先生追懐録
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