地域を越え、古本屋のワクを越えて新しい企画を!
札幌・サッポロ堂書店 石原 誠
昨年の十月M先生が一升ビンをさげて十年ぶりに来店。先生は 八十才を過ぎていた。一九八一年の独立開店の翌年くらいだったと思うが、プラットご来店。当時貧弱な品揃えだったにもかかわらず 随分お世話になった。当時バリバリの道立高校の校長。その後の 勤務先の校長室には氏の分野のコレクションがズラリと並んだ由。 今でも独自の分野が校長室の壁をうめつくした光景は想像するだけで 圧巻だが見学しそびれて悔しい。
先生はこの十年病気がちで当店は目録と年賀状の御送付は続け、賀状の返信は下さっていた。「私はサッポロ堂さんでほとんど本を買った。又これからも買うよ」と言って最近またよく来て下さる。今人気の先生の分野は少年時代過ごしたなつかしい土地! 最近は収集された本を基に関係テーマをまとめる事に着手。酒もタバコものまず「本を読むのが私の道楽」と! 目が少し不自由気味だけど先生ガンバッテ! 私も私の友人も応援します!
二〇〇七年十二月初旬32号の『北海道・シベリア文献目録 2007年版』を発行。直後にお世話になったI先生の最終講義。妻が出席してくれ、友人でお客さんのUさんも同席。「目録ありがとう、注文するよ」に対し妻は「ウチも大変だから沢山買ってネ」と答えると「まさか!?」と信じがたい顔であったというが、後日沢山の注文をいただいた。Uさんもウチが相当儲けてると勘違いをしていた一人だった……。
今年三月。道内のある図書館で「松浦武四郎の事跡」について講演。私の肩書は古書店主で武四郎研究者とのこと。約一ヶ月準備し、野帳↓稿本↓印刷本の複雑な過程がやっと解り用意した約30頁のレジメも好評で足りないくらいだった。20数年前学生だったK学芸員が声をかけて下さり、Uさん共々学生時から私の小さな店に通ってくれたお客さんで、今前線で活躍しているのだ。
今年二月、日帰りバスツアーで妻と旭山動物園に行ってきた。日本で一番小さな面積の動物園が、国内1、2位の集客数。とても興味があった施設だがその魅力は充分伝わってきた。今夏オープンする「オオカミの館」が楽しみ。
六月四日第17回YOSAKOIソーラン祭りが開幕。国内外330チームが参加するイベントに発展。一人の北大生のアイディアで始めた祭りは札幌全体の経済効果を考えると大変なことだ。今や「札幌雪祭り」を完全に越えた。
もう一つ嬉しいことは「三浦綾子記念文学館」が十周年を迎えた事。三浦さんには15年程前に個人的に親切にして頂いたが、私は“庶民の文学”として作品に強い関心を持っている。わが故郷(室蘭市)港の文学館(この程民営になった)の活動も目を見はるものがあり、民営の文学館が多くのボランティアに支えられ運営。彼女が作家として読者に多大の影響を与えた事は特筆すべきだ。
沖縄と並び、経済最悪の北海道で、旭山動物園、ヨサコイ祭り、三浦綾子記念館など元気に活躍しているのだ。大阪老舗・黒崎書店は『知ってもらうが一番。売ってもらうが二番。買ってもらうが三番』という標語を掲げた。私達古本屋もほとんどが家族経営で、自店だけでは何事も進まない……。道内の組合、道外の組合、皆で知恵を出し合い、この名言を参考に、時によって地域を越え、又、古本屋というワクも越えて他の職種・人々とも連繋して、新しい企画(催し)ができないものだろうかと思うこの頃である。
(2008・6・10)
日本古書通信社:http://www.kosho.co.jp/kotsu/
古書店の役目
神保町・秦川堂書店 永森 譲
http://shinsendo.jimbou.net
昭和三十六年大学卒業後、他業種を五年間経験して家業の古書店に入りました。商売の流儀については父に教わり、結果二十七年、仕事を共にし、そのお蔭で現在があります。また古書店を経営していくには、古書組合の組織、販路の多様性、お客様とのつながり等が蔭の力となって存在します。その一端をお話して、古書店の有様が少しでも読者の皆様にご理解いただければと“良いこと尽くめ”の古書業界を紹介いたします。
古書店の組合
東京都古書籍商業協同組合に加入しますと、組合直轄の古書交換会(古書市 場)の利用は勿論、専門書市会への入会、古書の知識の吸収、古書業界の内部情報の入手、組合インターネットサイト「日本の古本屋」への加入ができ、対外信用も確かなものとなります。組合の主たる業務としての交換会は修業を兼ねた若手と市会幹事により運営され、毎日集荷されてくる都内古書店の古書籍が手際良くさばかれます。互助精神に基づいた組合本部の組織は、我々古書業者にとっては必要不可欠なものとなっています。
さまざまな販路と自由な価格
商売の基本は店舗販売ですが、通信販売、即売会、古本まつり、ネット販売と販路は多様にあり、どの販売方法も選べますし、可能ならば、全ての方法でも良いわけです。基本的な本の相場は、組合交換会の出来値から発生してきます。その販売価格は店主の頭ひとつで決めますから、こんなに良い商売はないと言えましょう。昔は相場情報の共有化など無く、古書店主それぞれが独自判断で価格設定をしていたので、古書店ごとの違った価格があり、お客様は不思議に感じていたようですが、それが、掘り出しものの楽しみに繋がっていましたから、お店巡りが面白かったとなります。並んだ古書店のなかで価格差のあることはとても魅力的だと思いますが如何でしょう。
古書を通じて人の交わり
過去四十年、どれだけのお客様からお世話になったか計りしれません。その時々に本と共に思い浮かぶお客様、そして本と共に深まるお付き合いは、古書店側か ら見て何よりの醍醐味です。お客様から学問的知識をいただき、書物に接していると、興味の尽きることはありません。何年修業しても奥は深く、日々勉強の毎日ですが、新しい商品との出会いは、飽きる暇も無く続きます。古書店の将来に関しては、書物のある限り古本屋の役目は終わらないと、肝に銘じて仕事をしていきます。この五月、二十五年ぶりに店舗改装をしました。眠っていた多量の在庫本類を目の前にし、これからどんな手段でこれらをデビューさせるか大いに楽 しみに思っている近頃です。よいこと尽くめの話で古書業界を振り返りましたが、そのような良いことばかりでないのが世の慣わしです。またの機会があったら 今度は困った事尽くしでも……。
日本古書通信社:http://www.kosho.co.jp/kotsu/
乱歩と大衆文化の池袋
古書月報より
八勝堂書店 八木 勝
去る、八月十九日より二十四日の間、池袋東武百貨店と立教大学旧江戸川乱歩邸で『江戸川乱歩と大衆の二十世紀展』が開催された。
去年、西武百貨店イルムス館で『蔵の中の幻影城』と銘打った乱歩展の記憶を持たれている方も多いと思うが、展示品目は西武の時の方が多かっただろうか?
しかし今回の展示は広いスペースをゆったり使いまた違う切り口で観せてくれ、それなりに楽しめたと思う。
何より今回の目玉だったのは、乱歩邸の蔵『幻影城』の一般公開ではあるまいか、立教大学により整理、収蔵品の学内への移動が進み期待したよりは若干、蔵の中が「サッパリしてたなぁ」との声も耳にしたが、在りし日の乱歩の姿を偲ぶには十分であったろうと思う。
それと今回、小店も協賛の一部に入っていたが、豊島区・読売新聞・日本推理作家協会などの後援で大いに宣伝して戴き池袋西口を挙げてのイベントに成った事が成功の要因だったろうか?
勿論、元高野書店の主人で現豊島区長、高野之夫氏の尽力も忘れてはならない、因みに会期中に東武百貨店会場と乱歩邸に訪れた人数は約二万人に達する。
乱歩は昭和九年より同四十年七十才で亡くなるまで人生の約半分近くを池袋の現在の場所で暮らした事に成る、これは乱歩のお孫さんに当たる平井憲太郎氏が語ってくれたのだが
「戦前の祖父はあまり近所付き合いなどする方では無かったようなのですが戦災に被った時に町内会で蔵も含め消火活動をしてくれたお陰で我が家は焼けずに済んだのです。」
との事で有った、それが原因なのかは解らないが戦後、乱歩は町会の副会長を引き受け、あの几帳面な性格で当時の配給の配分や町会行事の記録など微細にしかも膨大な量を残している。
それとほぼ同時期に大下宇陀児が池袋東口で町会長をやっている、池袋の東西で推理作家の巨人とも言うべき二人がそんな立場であったのは何とも面白い話だ。
八勝堂は池袋で昭和三十六年に開業しているので生前、乱歩は小店に来店しているかもしれないのだが全く記憶が無く残念だ。
池袋は数多の作家、絵描きや文化人が居を構えた所であり山手樹一郎、井口朝生父子を始め様々な方が来店されているのだが余り覚えていないのは我が不徳の致す所で有ろう。
ただ瀬沼茂樹氏は伊藤整氏や高見順氏を伴ってふらっと来店されて「おい! 八勝堂、まだ仕事してんのか、呑みに行くぞ!」と嬉しいやら困ったお誘いに苦笑したのも懐かしい思い出である。
池袋モンパルナス、長崎アトリエ村などからは名立たる絵描きも輩出している、彼のトキワ荘も隣の椎名町に有ったが、その名残なのだろうか今、世界を席巻している『アニメーション』はそれらの地域の小さな事務所の若者達が生み出しているのだそうだ。
今も昔も『大衆とサブカルチャー』の街池袋「八勝堂! 畑違いの物、扱ってるね」と笑われながらも、この街で本屋として生きるからこそ『進取の気概・チャレンジ精神』は何時迄も失わないようにしたい。
東京古書組合発行「古書月報」より転載
禁無断転載
パラドクスに踊れ!
古書月報-パラノイア文献学より-
西村文生堂書店 松川 慎
古くはポーに始まり圧倒的支持を受けたS・ホームズの生みの親コナン・ドイルによって活路を見出したのが探偵小説であるといえるが、トリックのカーニバルG・K・チェスタートンの存在を無視することは出来ない。
我が国でも探偵小説を芸術の位置にまで高めようとする努力は成されてきたが、今に至っても前述の三名を凌駕する作家は本格探偵小説という範疇においてまだ出現していないといえる。
ポー、ドイルに関する評論は星の数も出版されているがチェスタートンとなるとその十分の一にも満たないのが悲しい現実である。
哲学者として知られる氏の作品には宗教講義じみたものが随所に顔を出すこともあり、全体を通して難解な文章は咀嚼するのに手間がかかるため、お世辞にもドイルらと比べて大衆向きとは言い難い。しかし死闘の果てに手に入れた恋人が永遠に輝き続ける可能性のあることを否定する者はいないだろう。
本格探偵小説とは作者と読者との知的ゲームである。
一見不可能と見える犯罪を合理的に解決に導くことがこのゲームの核であり、犯人の仕組んだトリックが華麗であればあるだけ読後感は爽快であると言える。そこに文学的要素を加味することでより芸術に近づけば鬼に金棒、ミルコ・クロコップさえ舌を巻く。
飄飄としたブラウン神父をパラドクスの海で心ゆくまで泳がせ、仕上げにトリックというボルドーを流し込む。
氏の世界でしか名作『折れた剣』は生れないし、『ムーンクレサントの奇蹟』も成立しない。『見えない人』の謎はおそらくS・ホームズや金田一耕助だったら解決出来そうにもないし、『ブルー氏の追跡』や『グラス氏の失踪』もポーやヴァン・ダインでは書けなかっただろう。『古書の呪い』や『ペンドラゴン一族の滅亡』にいたっては奇想天外すぎてチェスタートン以外に閃くはずもない。
完成された探偵小説は芸術となる。エレガントかつゴージャスという表現は叶姉妹のみへの賛辞ではなく文学に対してこそ使用されるべきだ。今を溯ること百年前に既に誕生していた芸術、チェスタートン作品群。今宵遊びませんか?彼の宇宙に……
東京古書組合発行「古書月報」より転載
禁無断転載
利に優る理を求めて
古書月報-パラノイア文献学より-
アート文庫 丸山 将憲
見開きページの口絵をめくった途端に、当時の読者の少年少女を、スペースオペラやアドベンチャー、スリラーサスペンスの世界に引き込んでいったであろうパノラマ。小松崎茂、武部本一郎らの描くカラフルな世界には読ませる機械としての魔力が溢れている。
ジュニア読物と呼ばれる現在の当店の主力ラインの一番の魅力は、おそらくこのあたりの禍々しさが漂う雰囲気であるように思われる。
マンガではないが、かといって通常の小説とも違うこれらの作品群を手にとると、私は幼いころ母方の実家の九州は小倉で、祖母に連れていってもらったサーカスを思い出す。
それはおそらく大人から見れば荒唐無稽に見える作業に、悪くいえば子供をだますために必死になって心血をそそいでいるという共通点のせいであるような気がする。
現在のように、CGやVFXが満載の映画や、バーチャルリアリティという言葉がぴったりとはまるコンピュータゲームがまだ無かった時代に、文章の世界を楽しむことを、インプリンティングすると同時に、豊かなイマジネーションを培い、数多くのパラノイド達を生み出すきっかけを、これらの作品群がその役を担っていたように思われる。
60年代までは、週刊の少年漫画雑誌にも、絵物語という形で存在していたこれらの作品群は、私が少年時代を過ごした80年代には、ほとんどといってよいほど、姿を消していった。で、あった為に、家業が古本屋な訳でもなく、古本にもまったく興味の無かった私が、ジュニア読物という不思議な本達と初めて出会ったのは、古本屋になって四年ほどたったころだった。
当時の私は、見よう見真似で身近な先輩達の扱っている美術書や、探偵小説を手探りで売り買いしながら、なにか独自の商品を、扱えないものかと思っていたところ、南部支部のフリ市でガキ本と呼ばれていた、買い手がほとんどつかなかった児童書に目がいくようになった。
ほぼ毎週といっていいほど出品され、量もかなりのものがある。
なんとかこれを売れないものかと買い集め続けるうちになかには、高値で売れる本が出てくるようになっていった。
ご同業の先輩達には、
「お前こんなものに、そんな値段つけて大丈夫か?」
「好きだねぇ、でも売れんのか?」
等々と哀れみのまじったご心配をいただいていた。
正直なところ、売れゆきという点ではそれほどたいした金額ではなかったが、ずっとこの状態が続いてくれればと思っていたが、残念ながらそうはいかない。
徐々に入札市などにも出品されるようになり、競争相手も増えてきて、ついには、大市にまで出品されるようになってきた。そうして、商品としては魅力が大幅にダウンしてしまったこれらの本達だが、市場で見かける度につい入札してしまう。
次の奇貨をまた、南部支部のフリ市の山の中に見出せるまで、できれば早く手を切りたいと思いつつ。
東京古書組合発行「古書月報」より転載
禁無断転載
古本屋はパラノイアか
古書月報-パラノイア文献学より-
泰成堂書店 池田 泰
先日、理事の方から「月報の原稿書いてよ」と言われた。
また調子良く「いいですよ」と何も考えず答えてしまった。
「パラノイア文献学」というコーナーだそうだ。
最近、忙しくてあまり月報も読んでないので、事務所に戻って読み直してみた。たまたまアルバイトさんが来ていて、聞いてみた。
「パラノイア文献学っていうコーナーを書いてと言われたんだけどさー、パラノイアって何?」
「パラノイアって病気の名前でしょう」
「何、病気の名前!」
医学史専門店としては、病気の名前と言われてはだまってはいられないのだ。
早速、棚から医学用語辞典(こういう本があるところが良いところ)を調べてみた。
☆パラノイア~妄想症・偏執症~
すっかり何を書いて良いのかわからなくなってしまった。
現在、私は医学史と近代資料を中心に本を取り扱っているが、自分がパラノイアと思ったこともなければ、その知識もパラノイア的なものとは、ほど遠い。
私が本の知識として持つものは、あくまで古書籍商としての商売の中にある。
お客さんが必要である本を探すための知識である。
本は好きだが、少なくとも事務所の棚に並ぶ本達は、商品なのであって、それ以下でもそれ以上でもない。
個人的に買って読む本は、それとは別に私的な楽しみの本達だ。文学書や趣味的な本はあまり読まない。研究書などが多い。それはともかく、私が、肺結核の本や、近代衛生史の本を愛して止まないなんてことはないのだ。
そもそも古本屋には、世捨て人・社会から一歩外れた人というイメージが伴う。異常な本への執着といったようなことか。 それはそれで否定はしないが、全ての古本屋がそうなわけではない。
例えば、月の輪書林の高橋さんが、店の中で本に埋もれて、店で寝泊まりして、風呂に入らないでいることが、何か魅力的なことのように感じるようなことである。
そういったことに私は全く魅力を感じない。早く風呂に入ってもらいたいものである。
まあ、そういう高橋さんも、結婚して毎日お風呂に入って、やわらかいベッドで寝ているようなので、安心だが。
さて、ともかくも古本屋が本の知識を持つことは当たり前のことだろう。その知識の持ち方は多種多様であって良いし、社会の中で古本屋であるからどうだとかこうだとかいうのもナンセンスだろう。もっと自信を持ってアカデミックに生きても良い気がする。まあ、本に全く興味なさそうな人も市場に一杯いるので、そういう意味では、パラノイアと極をなすのかもしれないし、このコーナーの意味すら考えない人もいるのだろうけど。
「つべこべ言わないで、本のこと書けばいいんだよ」という諸先輩方の声が聞こえてくるようである。しかし、何かを書く時に、何のことを誰に向けて書くのか、そういうことは気になって仕方がない。そう、まさにそういう点ではパラノイアなのである。
東京古書組合発行「古書月報」より転載
禁無断転載
古書月報 編集後記 2003年4月号より
東京古書組合 機関誌部
◆新時代の風景◆
春の日ざしのなか駿河台下を散歩すれば、建築中の古書会館の風景が見えてくる。
工事は進み、すでに六階まで出来上がったそうだ。
都会の一風景として眺められている建物が、いよいよ現実のものとなる時がやってきた。
機関誌部では今号を含めて三回にわたって「東京古書会館・竣工記念特集」を組むこととなった。
今回は、未来にむけた夢の新会館。
次回は、現実となる会館、何が変わり何ができるのか具体的事柄を各部会から報告していただく。
最終は、竣工祝賀会、展示会の模様をビジュアルに、くわえて回顧展望の座談会などで結ぶ。ある著名な建築家は、快適さや便利さを求める建物を否定はしない、だが建物というものは、住む人間に直接に関わってくる“生き物のようなものだ”といっている。新会館といい、古書の日といい新しい時代の予感を想う。
◆蔵の中の幻影城◆
「江戸川乱歩展」を見る。
永遠の開かずの間、乱歩“蔵の中の幻影城”の扉がはじめて開かれた。
とはいっても展覧会のことである。
池袋にある乱歩邸の書斎でもあった書庫蔵は、誰もが覗き見たかった噂の城である。
秘密の部屋のベールが、いままさに解かれた。
二十一個にも及ぶ自著箱には自らの作品群がぎっしり詰まっていたという。処女作「二銭銅貨」を含む第一創作集『心理試験』などの創作探偵を代表とする初期作品から、異色作『陰獣』をはじめ、『吸血鬼』、『幻想と怪奇』、『幽霊塔』、『孤島の鬼』おなじみの『少年探偵団』、『明智小五郎』そして稀覯本『江川蘭子』など輝くばかりの著作である。また華やかな表紙で飾られた戦後の仙花紙本に至っては、めったに見られない珍本がいくつか陳列されていた。これらが一堂に集まることは今までなかったことである。
そのなかで今回最も注目されていいのは、全九巻から成る乱歩自らが蒐集作成した『貼雑年譜』であろう。そこには、膨大且つ種々雑多の新聞や雑誌の切り抜き、手書きの地図や絵、書簡・短文、はては紙幣、賞状などの時代の証拠品が、四十七年間分スクラップブックにされ並べられているのだ。
日記をつけなかった乱歩は、徒然に貼り付けた自分のための備忘録だといっているが、今日の人間が『貼雑年譜』をひとたび繙くと、不思議なことに乱歩の時代“モダーン都市東京”の映像が浮かび、その主人公のひとりとして、いつのまにか歩き出している自身に気がつくのである。
そこに貼られた捨て難い、たった一枚の古き紙片が、時代を破壊し人の想像力を異常に促してしまうのか、あるいは、人はいつもどこかで何かを求めているそれがため、過剰に自己の分身を作り上げてしまうのか……。
『年譜』が作品以上の作品であるとは乱歩自身も思わなかったかもしれない。
ついでだがこの『年譜』自体にも、底に流れている乱歩の特異な性格の一端を発見するのは私だけではないであろう。
ところで、夢野久作の代表作『ドグラ・マグラ』(昭和十年)が硝子ケースの中に端然と置かれていた。
言うまでもなく乱歩に宛てた献呈本。久作の署名本は意外にこの著書に多いことは彼の日記でわかる。
出版記念会で知人に書き与え、元の題名は「狂人の解放治療」ということもあってか、見知らぬ精神病院にも署名して送ったりしている。すでに全集を出し作家として充実している乱歩に、初めての大作『ドグラ』の単行本を贈った久作の心境はどんなものであったろう。
また贈られた乱歩も、デモーニッシュなドグラの世界をどのように夢見たのであろうか。久作、死の一年前のことである。
*表示の都合上、一部表記を新字とさせていただいております。
◆胡桃◆
河原でカラスが空高く飛び、なにやら物を落としていた。
行ってみるとそれは真っ二つに割れた胡桃の実であった。きれいに割って見事に中身を戴いている。
堅牢で容易に割れないのが胡桃だ。カラスにそんな知恵があるのか、そこで愚者は真似をする。
力いっぱい高く放り投げてみたら、七回目でやっと胡桃は河原の小石に当たって、二つに割れて転がった。
東京古書組合発行「古書月報」より転載
禁無断転載
渋谷宮益坂上の中村書店に行ってみなさい
なないろ文庫ふしぎ堂 田村 七痴庵
石神井書林、内堀弘さんが、青山学院大学の、どうせろくでもない学生さんだった頃、非常勤の講師として、詩人・黒田三郎さんの講義の時間があったんだそうだ。
内堀弘は、一九五四年生まれ。中退となる青学に入ったのは、七〇年安保がおわってケンカ過ぎての棒千切れ状態の一九七二年か七三年。
黒田三郎さんのこえが聞きたくて教室にいる内堀たちを前にして、黒田さんは、こう言ったそうだ。
「ぼくなんかの講義を聞くより、中村書店にいってるほうが勉強になる」
実はその時、中村書店をつくった中村三千夫さんはすでに亡い。亡いのだが、棚は残っていた筈で、良子夫人が、こどもを育てつつ店を守っていた。中村三千夫さんが亡くなったのは、一九六八年八月十七日。夏のまっさかり、恵比寿にあった古書市場で、市のたっているただ中であった。友人であった富岡書房・富岡弦さんが書いている。中村さんが、すすめていた共同目録「雲の会」第一号の原稿を持って、市にやってきた、その日、その場所。
―山帖を書いていた私の後ろの椅子に座って居た時、突如鼾をかき昏睡。其後意識を回復しなかった。―
亨年四十六歳。
中村三千夫。大正十一年七月十一日生まれ。西暦ならば一九二二年。生まれたのは神奈川県横浜の新羽というところ。実家は素封家というべきなのだろうか、その地域の地主であり、《うわだいの中村》と呼ばれていたそうだ。《うわだいの中村の次男坊》が渋谷の中村といわれるようになるのはずっとあとの話。
三千夫はその名の通り、四人のこどもたちの三番目。長女の満里子さん(今回の資料となった聞き書きを、息子の中村正彦さんに依頼し、快諾を頂いて、月の輪書林南部支部機関誌部長ともども五反田の中華料理屋の二階で話をうかがったが、彼のニュースソースの多くは、まだお元気な、満里子さんから得ているそうだ)、すでに亡くなっている長男さん、そして次男の三千夫である。その下に次女の千恵子さんがいらっしゃる。
どのような幼年時代、少年時代をすごしたのかはわからないが、時代は、大正十二年の関東大震災、昭和二年の大恐慌をきざみつつ動いている。三千夫少年も横浜にいて、多感な胸をふくらませつつ、中学は関東学院へとすすむ。関東学院がその頃、どのような学校であったのかは学院史をひもとけばよろしいのであろうけれど、今回はパス。
「つまりおぼっちゃんだったんだろうね」
と、正彦は言う。それは、その頃か、大学に入ってからか、月に百円のこづかいをもらっていた、という証言にもよる。
その大学は東洋大学。おばけ博士井上円了開くところの、所は白山。
「学部はどこだったんだい」
「ウーン、文学部か、仏教学部か。」
どちらなんだろう。その東洋大学に入った年を類推する。一九二二年生まれが大学に入る年。旧制高校と関東学院が重なるのかどうか、三千夫が二十才の年は一九四二年。昭和十七年である。すでにこの年は、大学にいる筈なのだ。というのは、いろいろ不明ながら、一度逆算して考えてみる。
昭和二十四年 中村書店創業。
その年夫人と入籍しているそうだが、実はそれ以前に結婚。結婚の時三千夫は無職!だったというのだ。
その前、渋谷明世堂出版に勤めたことがあるという。年次は不明。渋谷明世堂出版がどのような出版社であったかも、わたしにとっては不明。御教示をおねがいしたい。
そしてその前にも勤務先があった。そこが「大倉精神文化研究所」であったというのだ。二年程そこに勤めたという。
その前が東洋大学ということになるのだが大学には六年間通ったというのだ。
では整理してみよう。こういう具合か、
一九三九~一九四四(昭14~昭19) 17~22才 東洋大学
一九四四~四五年(昭19~20) 22~23才 大倉精神文化研究所
一九四六~四七年(昭21~22) 24~25才渋谷明世堂出版
一九四八年(昭23) 26才無職
一九四九年(昭24) 27才中村書店創業
類推です。三千夫にとって重要な筈の十年。
やはり富岡弦さんの証言。
―詩の分野に入った動機は何か。私の憶測は、東洋大時代、近くの明治文学物の草分的窪川書店への出入り。勤めた渋谷明世堂出版の前露地が新詩社跡であったこと。店の前に、生涯、最も崇敬した、明治文学の開拓者で歌人、玄誠堂芥川先代が居られたことなどではないだろうか。―
その東洋大学時代の三千夫の風体は、長髪に、わざわざ仕立てさせた黒いワイシャツを着て、実家近くのひとたちから《うわだいの中村の次男坊は変人だ》という噂をたてられていた。ウーム『シュギシャ』だな。時代にむかってすねている青年像がうかぶ。
実は、とあらたまることもないけれど、この時代のひとたちにとって戦争体験はぬきがたく切迫したもんだいであった筈。
「中村さんは戦争に行った?」
「おばさんが言うには、なまむぎ(生麦=生麦事件で有名な横浜の生麦?)の、砲車隊に行ったって言うんだけど。親父は、戦争とか、天皇が大キライでさ、家でも戦争の話はまったくしなかった。親父の戦時の体験は聞いたことがない。」
戦地におもむかずにすんだとすれば、キーワードは〈大倉精神文化研究所〉にあると思われるのだが、この時代に、中村三千夫が何を考えていたのか知るすべはない。わたしは少し安易に、たとえば東洋大学時代に、詩心が目覚めて、若書きの詩など書いていた文学青年だったのではないか、とも思っていた。
「書くのは不得意だったんじゃないかな。詩どころか、書いたものは何にもない。物を書いているのを見たこともないし」
《古本屋から見た文学》という文章を『新潮』の昭和37年8月号に載せているが、それも、
「だれかに話して書いてもらったんじゃあないかなあ」
と正彦は言う。
しかし、おそらく、富岡さんの言う様に、窪川書店、玄誠堂といった明治文学の血脈をどこかで中村三千夫は受け、それをはぐくみつつあったのだ。月百円のこづかいのほとんどは本代に消えていった。たとえば昭和十四年、西條八十『少年詩集』は講談社で一円五十銭。その頃の百円はけっこう使い出のある金額だったと思う。その月々百円が中村三千夫を中村書店へと育てていったのに違いない。そして、おそらくは、友人たち。どんな友人たちがいたのか。
「そういえば、お坊さんが親父のとこへ来てたりしたなあ。うちの以前の店を、知ってるかもしれないけど帳場の奥に小さな部屋があって、そこで、たずねてきたひとと話をしてたのをおぼえている。」
そりゃ、坊主だったら東洋大学の時の友達に違いない。
変人は変人を知る。その後、中村三千夫は古本屋になってからも、気を許しあう、そのような友だちを得ることになる。
「おふくろとおやじがいっしょになったとき」
中村三千夫が無職であったとは先に書いた。それで嫁さんの良子さんは何の不安も感じなかったのだろうか。
「おふくろの実家もおやじの実家の近くでさ、見合いだと思うんだけど、実家を知ってたからね。」
成程、ここんちなら大丈夫と思ったわけだ。
そして昭和二十四年、中村三千夫は、中村書店を創業する。宮益坂上に、なんと、実家の納屋を横浜から移築して、はじめたという。立派な納屋じゃないですか。それには実家からの援助もあったのだろうけれど、そこでまず自分の持っていた本を売りはじめたという。そればかりでは勿論、ない。
「店を開いた時は、店ばかり広くて売る本がなかったんだよ。とうさんは、友達の家から本をかりてきたので体裁だけはどうにかなったんだけど、お客さんが、やっと買ってくれると思うと、友達の本だろう、断るのに一苦労さ。ハッ・ハッ・ハッ」
とは、中学二年だった中村千恵子さんから聞いた話。その友達はだれだったのだろう、あの坊さんだったかもしれない。その年から二十年。中村三千夫は詩書の専門店・宮益坂上の中村書店として、ひた走ることとなる。
あけて昭和二十五年から、三千夫は、中村書店の古書目録『ビブリオフィル』をつくりはじめる。おおよそ昭和三十年まで、B5判ガリ刷り五百点ほどがのるその目録の表紙を北園克衛がつくった。9号に一九五七・六のメモがあり12号では活版となっている。
さまざまな詩人とのふれあいがつづくが、北園克衛もその一人。中村書店のしおりも、北園による。その頃北園克衛は広尾に住み、北園やVOUの詩人たちの詩集、又『VOU』も、取り扱っていたという。
そういう詩人たちとのつきあいの中で、たとえばこういうことがある。
―戦後、間もなく中村書店の中村三千夫氏が出版を申出られたが、私はすでに切抜帖を失ない、その後の多くは戦中の検挙の際に持ち去られ、残ったものも戦火で焼いてしまったので、中村氏の努力で『妖精の距離』はじめ資料の多くを集めていただいた。しかし残念ながら技術上の故障や、何よりも私の怠慢のために機を逸したまま年月が流れた。やがて「ユリイカ」の伊達得夫氏から、当時企画された『鰐叢書』の一冊として選集刊行を申し出られたが、途中、むしろ戦前の全詩集を出してみてはという熱心な意向に変った。しかし不幸にして同氏は病に倒れ、一頓坐したかに見えたが、ある日退院静養することになり、一日も早く促進したいので中村氏にも諒解をえたいという電話があった。それから旬日を経ず、伊達氏は他界したのである。―
瀧口修造執筆による『瀧口修造の詩的実験1927―1937』添え書き、の一部である。この本が刊行されたのは一九六七年十二月。中村三千夫が亡くなる八ヶ月前。この文章を三千夫は読むことができた。中村三千夫の集書努力を思えば、涙数行くだるを禁じ得ないというべきか、いかに瀧口修造から、
―多く散佚し忘れられた旧稿の探索には前記の中村氏はじめ、鶴岡善久、長田弘、堀内達夫、鍵谷幸信、山中散生の諸氏、ほかにもおそらく間接にもしろ労を煩わしたであろう諸氏にあつくお礼を申しあげる―
と申しあげられているにもせよ。中村三千夫は、これを自分こそが出してみたかったのだから、伊達得夫もそれを果たせなかった、それを苦い無念で読んだか、あるいはこの本がでたことで、よしと思ったのか、聞くすべがないのは、堀内達夫さんも、同じ、である。この『瀧口修造の詩的実験1927―1937』という、魅力的な書物に、その奇跡的な出現に二人の古本屋が介在していたことは、古本屋は覚えておいていい。
中村三千夫にはこのように詩書出版への思いがあった。今、手にとってみることのできるものが三冊。いずれも昭和三十二年刊。『大地の商人』谷川雁。ただし再版、九州「母音社」からでた初版が品切となり、同じかたちで再版を中村書店がひきうけたものだろう。その谷川雁も今は亡い。そして『独楽』高野喜久雄と『子供の情景』加藤八千代、の二冊。
その志をともだちが、ついだ。
―中村三千夫さんは戦後、某出版社を辞して古書店経営に転じ、詩書の専門として東奔西起、歿後も詩人、詩書愛書家の間に名を伝へられてゐるが、学生の私はそこに入りびたりで、本を読むにはこれに限ると同業者となってしまった。ユリイカの伊達得夫さんの悪戦苦闘の姿もそこで知った。―
麥書房、堀内達夫である。
中村三千夫が友人に恵まれていたのか、中村三千夫という人を知って、そのひとたちが応じたのか、木内茂さん、高橋光吉さん、富岡弦さん、高橋理さん、飯田淳次さん、鈴木鈴之介さん。多くの友がその死を悼んだ。
「おう、これはどうしたことだ」
と江口了介さんが嘆き、
「中村は商人だったが、魂は詩人だった」
と山王書房・関口良雄さんが泣いた。
―当時彼は三茶さん、山王さん、江口さん、麦さんたちと勉強会をしていた。本屋になりたてで右も左もわからない私にとってこの勉強会ほど魅力的なうらやましいものはなかった。―と書く、高橋理さん(奥沢の高橋書店さんだ)
―彼は、自分だけでなく、共に伸びようとした。皆五十迄に自分の店を、と説き、榊原さんの奔走などで「クロレラの会」が、江口さんを会長に二十一人で発足。東商金庫を利用、積み立てを開始。会員の積立金を担保に店舗取得資金を借入れようというものだったが、彼の死後一つの成果を実らせて解散した。―
中村三千夫に思いの深かった富岡書房・富岡弦さん。
そして共同目録をつくろうとした「雲の会」、はたまた「若い研究者の著述の自責出版を組合でやってみたらどうだろうか、書店にとって本が増えるのはよい事だし、専門店がそれぞれの分野で販売に協力すれば若い研究者も助かるのではないか」という理事をひきうけた頃の卓見。卓見はまだあって、
―地方の出版物とか、日販、東販へ乗らない特殊な本ですね。それを古書組合あたりがもうちょっとうまく運営していって、全部キャッチできるようにするといいですね。そういうことはやっぱり古本屋がやらなきゃいけない大きな仕事だと思うんですけどね。―
至文堂『近代文学雑誌事典』(昭41)の座談会《収載雑誌の市価一覧と有利な売り方買い方》中での発言。この座談会出席者は、広田栄太郎(文部省国語課)、西秋松男(日本書房)、中村三千夫(中村書店)、小椰精以知(一誠堂書店営業部長)、内藤勇(文学堂書店)。
すでに三十有余年前だけれど、やっぱり為になるところは為になるのである。
さて、中村書店、中村三千夫の店に、もどろう。そこは詩人たちのいきかう場所だった。すれちがうというのかな、かの有名な白山南天堂ではないけれど、西脇順三郎がかけこんできたり、北園克衛が本を持ってきたり。福永武彦が棚をみていて、安東次男が立話をしていたりというふうな。
吉祥寺の、金子光晴が店の看板を書いてる古本屋で、金子さんをみたことがある。わたしが上京したての頃。ふらふらーっと着流しで入ってきた老人の眉が異様に長く。あっ金子さんだ、と思ったら、どきどきと、気にしない風をよそおいつつ、気にしていた。金子さんは棚をみながら、
「このごろ『北越雪譜』もみないねえ」
なんて言ってたもんだ。わたしは、そうか古本屋ってそんなところなんだ、と、妙に感心して、それに感激していた。きっと、中村書店にその頃行ってた人には、そんな感じがあったんじゃないかな。古本屋ってそんなところなんだ。
「そうだ。店に、ふろおけセットおいてるお客さんがいたんだ。あれは、青学の先生だったのかなあ。」
と正彦クンが言う。
「うちにきて、それ持って、銭湯に行って、又帰ってきたら、おいて帰るんだよ。うちも銭湯に通ったけど、親父につれられて行った」
そりゃあ江戸っ子は銭湯だ。親父さんは横浜生まれだけど、酒は好きだったんだろ。
「晩しゃくは、おちょうし三本。そういえば、死んだら、墓に花はいらないから、酒をいれてくれよな、と言ってたことがあった。」墓に花はいらない。
三千夫が亡くなった時、姉は高三、次女は中二、正彦クンは小学校四年、十才だったんだ。「本屋なんてつまんないや」って言ってたんだってな。
死期をちぢめたかもしれない、酒と仕事。昭和四十二年『西武デパート』古本市に参加する。
「突然やると言い始めて、富岡さんが値札の帯をかいてくれたんだって」
そのせいだろうか、死んだあと、堤清二が五千円を包んでやってきた。(勿論、そのせいではなく、堤清二は、中村書店の客でもあり、辻井喬として、詩をキチンと扱う、ということへの尊敬心があったのだな、)普通千円位の時代であった。それを記帳してくれたのが巽さん。多くの同業者、詩人たちが中村の死を悼んでかけつけてくれたのだ。
「死ぬ三日前にね、棚のどこかで、ねずみが死んでて、それで、棚がくさくなるからって、棚をそうじして、棚の本を並べかえてたんだけど、」
それを、さっさっさっ、と刊行順に、本のツラをみただけで棚に並べていたんだそうだ。そうだね、棚の編集。目録をつくるように、棚をならべる中村三千夫は、優秀な編集者だった。三日後にその編集者の頭の中で、脳卒中がおきるとも思わず、そりゃ思わんと思うけど。
古本屋の命脈は、その血縁もあるけれど、そればかりでなく、つながっていく、中村三千夫が、窪川書店、芥川玄誠堂につながったように、師匠と弟子のたてばかりでもなく、つながりあうくもの糸のように、樹の枝葉のように、そのようにあるのだと、中村三千夫も知っていた。そのような古本屋の命脈の大きなひとつを中村三千夫がながしつづけたこととなる。たかが二十年というなかれ、樋口一葉が奇跡の十ヶ月というならば、古本屋の店をあけての奇跡の二十年がつづいたのだ。
「日曜はかならずといっていいほど家にいなかったなあ」
セドリに行ってたんだ。全国各地の同業から、自店向きのものを集めるために、セドリと言えば、利ザヤをかせぐとうい商行為のことばかりに比重がかかるが、そればかりではない。いい本をさがすために。
―市場は振り市の為、都内近県を毎日、即売展、各店舗と、精力的に巡った。その間東海京阪、信州等も行動範囲で、時々私も同行。各店ともベレーを脱ぎながら入ると、快く迎えてくれ、奥から本を出してくれた。随分入手出来、送って貰うこともあった。―
(富岡 弦)
―特長のあるベレー帽をスッポリと頭にのせて、店先で一寸と頭を下げ下げよく店へも来てくれました。二週間に一度ぐらいの間隔で、必ず廻って来てくれたものです。(中略)何か試験を受けるような感じの抜かれ方だったが、決していやな感じは残らない不思議な交流だった。(中略)しかし彼はうちの歌集・句集には決して手を出そうとしなかった。彼の折り目正しさのひとつだったかもしれない。―
この人も又伝説の古本屋。鶉屋・飯田淳次さんの思い出(「明治古典会通信」3号昭51年)である。
「新幹線ができたのを、すごくよろこんでいたなあ。セドリに麦さんといっしょに行くと店の前でジャンケンをして、右左どっちから入るか決めてたんだって」
よくわかる。大の男が、古本屋の前でジャンケンをしてるなんて、見ておきたかったなあ。うれしいこともくやしいことも、なつかしさにつながっていく。
「そうだ、国鉄の、渋谷の貨物駅に時々連れていってくれた。店の本を送ってたんだと思う。いや、お客さんにではなくて」
寄付していたらしい。地方の文庫に、そのようなやさしさがひとにつたわる。
中村正彦さんが父の三千夫の三十三周忌に49頁の小さな冊子をつくった。家族用に限定七部ときく。そのコピーをいただいた。目次は以下。
古本屋から見た文学 中村三千夫(「新潮」昭37年8月)
ある書店主の死 安東次男(「東京新聞」昭和43年10月)
中村三千夫氏を憶う にんじん生(「古書月報」昭43年9・10月号)
在りし日の中村さんを想う 木内茂(〃)
中村三千夫君哀悼 高橋光吉(〃)
古書漫筆 福永武彦(「サンケイ新聞」昭46年11月)
古本のバカ値 安西 均(「詩学」昭46年10月)
中村さんのこと 富岡 弦(「南部支部報」平2年4月)
中村三千夫の仕事 高橋 理(「古書月報」平5年10月)
安規本曼茶羅 伊東 昭(「銀花」12号 昭47年冬)
中村さん 飯田淳次(「明治古典会通信」昭51年11月)
小林秀雄の思ひ出 群司義勝(「別冊文芸春秋」平4年夏)
背の高い詩人 三木 卓(「図書」平12年3月)
読者よ、『異国の香り』を繙いて見給へ 堀内達夫(「詩学」昭59年9月)
幸福について 秋本 潔(「凶区」22号 昭43年10月)
私の父 中村千恵子(昭和女子大付属中学校二年生昭43年)
貧しい本稿の豊かな証言引用は、全てこの小冊子によっている。
本稿のために中村三千夫さんの写真をおねがいしたところ、それがナイという。
「仏壇の写真しかないんですよ」
まさか、仏壇の写真を持ってきてくれとは言えない。しかし、さっぱりしたものではないか、これも中村三千夫のダンディズムというべきか。
表題は、版画家伊東昭氏が谷中安規の本を探して、大森の山王書房で『居候勿々』『百鬼園随筆』の正と続、『百閒座談』を手に入れ、帰りしなに言われた言葉である。
「渋谷の中村書店に行ってみなさい」
東京古書組合発行「古書月報」より転載
禁無断転載
世界で最も偉大なるジャンキーとポルノの帝王の物語
古書サンエー 山路 和広
男色でジャンキー(麻薬中毒者)、おまけに妻殺し。異端のアメリカ作家と、パリの前衛出版の問題児との出会いによって創られた20世紀アメリカ文学の傑作、ウィリアム・バロウズのオリンピア・プレス版「裸のランチ」。通常、消耗品的に読まれるペーパーバックにカバーがつくことは稀だが、この本には当時バロウズの“恋人”でもあった画家のブライアン・ガイシンの書道のようなアートワークによるカバーが施され、この点にアメリカの出版社にはないエスプリが感じられる。カバーを外すと、シリーズで統一された深い緑に白と黒で縁取られた装丁の裏表紙に「NOT TO BE SOLD IN U.S.A. & U.K.」の文字が。パリで作られたのに、英語で書かれ、しかも英米で売るなというなんとも風変わりな本である。
良家に生まれ、ハーバード大卒という肩書きがありながら、麻薬に溺れ、挙げ句の果てに、過失とは言え妻を射殺し、保釈中のメキシコからモロッコに逃亡した異色の作家、ウィリアム・バロウズは、第二次大戦後の高度成長期に物質主義、大量消費主義の価値観からドロップアウトしていった。50年代のアメリカ文学の潮流、ビート・ジェネレーション(その後のヒッピー運動、カウンターカルチャーの原型)の代表作家でありながら、人間の内面的な充足を求めて禅やインド思想に傾倒していった他の代表的な作家ギンズバーグやケルアックらとは作風も経歴も違い、その存在は最も異端的である。
一方、オリンピア・プレスのモーリス・ジロディアスは、ポルノ本を量産する傍ら、もうひとつの看板商品である「トラヴェラーズ・カンパニオン・シリーズ」で当時、アメリカやイギリスで出版するのが難しかった作家たちの作品を世に放っていった。1953年設立時に、ヘンリー・ミラーの「プレクサス」とともに、サド、アポリネール、パタイユの翻訳を出版し、のちにフランス当局により発禁処分となる「O嬢の物語」やナボコフの「ロリータ」が生まれた。これらのシリーズは旅行者をはじめ、当時ヨーロッパに駐留していたアメリカ兵や船乗りに人気を誇り、こっそり持ち込まれたロンドンやニューヨークの地下本クラブでは何倍もの値段で取引されたそうだ。
1959年、モロッコでポール・ボウルズとの日々を送っていたバロウズの「裸のランチ」の原稿がギンズバーグらの協力によってパリのジロディアスの元に届き、シリーズに20世紀最大のドラッグ文学作品「裸のランチ」が加えられる。その後60年代に入り「ソフトマシーン」「爆発した切符」と計3冊のペーパーバックがオリンピアから出版された。
ジロディアスは通常このシリーズの本を各5000部作ったという。たかが日本で言うところの文庫本だけれど、今の大量生産、大量消費される本にはない、書き手、作り手の情熱とこだわりが感じられるこのシリーズをすべて並べてみたいものだ。
東京古書組合発行「古書月報」より転載
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