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御大典記念 この花会 写真帖 花道 昭和3年
豆満江 6冊 李箕永著 全冊訳者献呈李殷直署名入 第2巻〜第7巻 李箕永著李殷直訳 1961年初版 朝鮮文化社 装幀金昌徳カバー帯ヤケ傷み少し破れあり、ページ内は概ね経年並 (帯付きは2〜5巻)李箕永(1896年5月 – 1984年8月9日)朝鮮の小説家。本貫は徳水。号は民村。筆名に民村生、聖居山人、聖居、陽心谷人、陽心学人、箕永生。日本統治時代はプロレタリア主義作家としてKAPFの中心メンバーとして活動、解放後は左翼陣営に加わり文壇の重鎮の座に座り続けた。貧困を極めて精巧に描き出す李の筆は南北を通じて高く評価。 李が文壇に登場するのは1924年、『開闢』に掲載された「오빠의 비밀 편지 」からである。1925年、趙明熙の勧めで『朝鮮之光』に編集記者として就職する。また、同じ年に朝鮮プロレタリア芸術家同盟(KAPF)に加わり、中央委員や出版部責任者を務めるなどして活動した。李光洙や金東仁といった文士と対立し、貧民の現実を見据えた階級意識の高い文学を目指した。その間、李は、「故郷」を『朝鮮日報』に連載し貧困をリアルに描き出している。1930年代、朝鮮文壇を席巻していたKAPFに対して、当時の朝鮮総督府は弾圧を持って対処した。第1次KAPF一斉検挙では、2か月間の拘束を受け(執行猶予で釈放)、第2次KAPE一斉検挙の際は1年6か月の間投獄される。李は第2次KAPF一斉検挙の後、自らの主題を見失い、転向作家として筆をとったり、朝鮮文人協会に参加して親日的活動に加担してもいる。それが李の意思ではなかったのか、1944年には筆を折り、江原道の鉄原に引きこもった。
FUKKI QUALIA 「復帰」と沖縄美術 復帰50年コレクション展記録集 <沖縄県立博物館・美術館 コレクション展> 岡本由希子、 大城さゆり 編 出版社 沖縄県立博物館・美術館 刊行年 2023 ページ数 159頁 サイズ A4判 「祖国復帰」「本土復帰」「日本復帰」「沖縄返還」1972年の日本への沖縄施政権返還は様々に表記されますが、沖縄の多くの人は「復帰」と呼びます。どこへ帰るのかあいまいに響く「フッキ」には、沖縄が歩んだ歴史への複雑な心情がにじむようです。ラテン語であるQUALIAとは、赤いリンゴを見て「赤いと感じる」などの、主観的な経験に基づく感覚だといわれます。「復帰」から50年が経つ現在、沖縄に住む人々の6割は「復帰」を直接には経験していません。本展では、「アメリカ統治下」、「復帰」、さらに「復帰後」の社会を見つめた作品や作家たちの動きを紹介。真喜志 勉《大日本帝国復帰記念》1972年安次嶺金正《紅い布と少女》1948年 儀間 比呂志《海上集会》1964年 金城 規克《神遊び》1972年 喜久村 宏《解放地》1980年
小説生きものの記録 丸岡明著 昭和23年初版 圭文社
白い罌粟 立原正秋著 昭和46年初版 角川文庫 カバー白背
CD 野外劇団楽市楽座 第8回2017年全国旅公演 『小さなオバケたちの森』歌曲集 作曲長山現 唱・演奏長山現 佐野キリコ 萌絵 佐野キリコ・萌 ジャケットデザイン 佐野キリコ
討議法 <新教育の課題叢書>室田昂, 染田屋謙相 共著出版社:同学社発売日:昭和22年重版143p 19cm
마음의 고향 マウメコヒャン 心のふるさと 枝川裁判終結10周年をむかえて 枝川裁判勝利10周年事業実行委員会発行 全144頁2007年3月8日(木)10:30より東京地裁615号法廷にて、第18回口頭弁論が開かれた。37名分の傍聴券を求めて130名を越える人が列をつくった。弁論では、原告(都と区)と被告(東京朝鮮学園)の間に和解が成立した。最初に被告東京朝鮮学園代理人が第9準備書面を陳述し、戦前の強制的移住からはじまる歴史的経緯、本件土地が戦後直後から朝鮮人が心血を注いで作り維持してきた朝鮮学校の場であり、将来にわたっても朝鮮学校でありつづけることから、裁判所に英断を求めた。それを受け、裁判所は、前回の東京朝鮮学園理事長、宋校長および弁護団の意見陳述を踏まえ、また、当地が戦後直後からずっと朝鮮人子弟の教育の場、朝鮮学校であり、今後もそうであり続けることに鑑み、和解を勧告した。当事者双方は和解勧告を受け止めると述べ、裁判所は弁論手続きを終結し、続けて、部屋を移し、非公開の和解手続に移行し、そこで和解が成立した。
夜あけ朝あけ <少年長篇小説> 住井すえ著 カバー絵 クロード岡本 出版社 新潮社 刊行年 昭和29年初版カバー ページ数 216p 図版 サイズ 19cm 小口に経年の日やけ
銀座八丁 武田麟太郎著 昭10年初版 改造社〔B6判〕裸本銀座八丁 武田麟太郎の中編小説。銀座のバーを舞台とする群像劇で、昭和9年(1934)8月から10月にかけて朝日新聞に連載。同名の作品集は昭和10年(1935)刊。
蜀山人大田南畝 : 大江戸マルチ文化人交遊録 太田記念美術館 編 図録出版:太田記念美術館2008年発行165p 30cm 蜀山人の名前でも知られる大田南畝、江戸時代中・後期、下級武士でありながら、狂歌師や戯作者、また学者としても人気を博したマルチな文化人。この南畝を中心にして、武士や町人たちの身分を越えた交流が生まれ、さまざまな絵画や文芸が花開きました。江戸時代研究者の中では非常に重要な存在として考えられている大田南畝ですが、これまでまとまった形での展覧会は開催されず。この展覧では、大田南畝の活動を軸にしながら、武士や町人たちの身分を越えた交流関係、さらにはそこから生まれた絵画や文芸などを紹介し、江戸の庶民文化が持つ多彩な世界を改めて見直す。新たに発見された南畝の肖像画や自筆の手紙、さらには、行方が分からなくなっていた南畝の書など、貴重な資料を多数紹介。
山本昇雲展 特別展 東京初公開高知県立美術館所蔵 山本昇雲画 浮世絵太田記念美術館編 図録 出版社 浮世絵太田記念美術館 刊行年 2006山本昇雲(明治3〈1870〉-昭和40〈1965〉年、別号・松谷)は、明治・大正・昭和の長きにわたり活躍した高知県出身の画家。報道画家として当時流行の雑誌『風俗画報』の口絵・挿絵に全国各地の事件や風俗、風景を描き、日本画家としても文展などに美人画・花鳥画などを数多く出品、また、近代浮世絵の代表作として評価されている《今すがた》、《子供あそび》などの木版画シリーズも制作。当時の風俗を知る貴重な資料でもある風情あふれる木版画や、大正美人画の香りを感じさせるモダンで華麗な掛軸・屏風作品など多彩な作品群により、山本昇雲の画業と、明治・大正・昭和と移りゆく日本の古き良き風俗を掲載。
CDアルバム おいでよ!石川大観光蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ
まぼろしの薩摩切子 一瞬のきらめき[図録] 土田ルリ子, 井垣万里子, 安河内幸絵編集 出版社 サントリー美術館 ページ数 239p サイズ 27cm 江戸時代後期、日本にも虹色に輝くガラスが登場。江戸切子や薩摩切子と呼ばれるカットガラス。かつて、西洋からもたらされた無色透明のカットガラスは、その洗練された美しさから「ギヤマン」と呼ばれました。「ギヤマン」は、ポルトガル語の「ディヤマンテ」を語源とし、「ダイヤモンド」を意味します。日本で生まれたカットガラスの中でも、とりわけ鹿児島・薩摩藩が力を尽くして生み出した薩摩切子は、多様な色彩と豊富な文様とのハーモニーが最大の魅力。弘化3年、薩摩藩主・27代島津斉興が始めた薩摩のガラス産業は、息子・斉彬の代に飛躍的な成長を遂げる。イギリスの力強い直線やボヘミアの優美な曲線など、その造形にはヨーロッパの影響が多々見られます。海外輸出も視野に入れた藩の特産品として開発されたこともあって、現存する器は、将軍家や大名家などに伝来するものも少ない。しかし文久3年、薩英戦争によってガラス工場が破壊されると、その製造は衰退の一途をたどります。幕末の十数年の間に一気に興隆し、明治初期には制作されなくなり、はかない運命を遂げた薩摩切子。その成り立ちから終焉までを約160件の作品で一挙公開。さらに、これまで存在が明らかにされてここなかった「無色の薩摩」にも着目し、近年の調査の結果も踏まえつつ、その一端をご紹介。西洋への憧れと日本的な美意識とが融合した、独自の美の世界。
詩画集 黒の世界 詩・田中清光 画・野原未知 出版社 文京書房 刊行年 1990年 ページ数 24p 解説 限190部 49番本 署名箋入 A4 タトウ
『花鳥風月椿図 猿田一幸』さるた工房 1977年限定200部
ビブリア 2冊 第1集第2集 典籍学会 昭和24年 1949年 養徳社
エレクトロニクス301回路集 電子展望別冊 全187頁 出版社 成文堂新光社工学 刊行年 昭52年
日本の太極拳50年 六大流派は伝えられた 前野慈作著 ユニオン企画 2008年初版カバー
世紀の魔法・笑いの旋風 ボリショイサーカス半券2点 特別参加 キオの大魔法団 太陽のピエロ・ポポフ 東京都体育館 昭和41年
東海道新幹線開業記念 新幹線展入場記念 昭和39年10月1日 交通博物館
国際テロリズム要覧 2021年号 公安調査庁 法務省の外局である公安調査庁が1993年(平成5年)から発刊している国際テロリズム情勢をまとめた報告書。「国際テロリズム要覧」は、国際テロリズムの潮流及び各種組織の実態を把握、整理するための資料と位置づけ、公安調査庁が各種報道等の公開情報をもとに取りまとめたもの。テロリズムに関する諸問題をとりまとめた日本政府機関で唯一の資料として研究者からも評価。「国際テロリズム要覧」は一般書店での販売はされていない、国立国会図書館などには所蔵されており、公安調査庁と無関係の人でも閲覧が可能。
詩抄 花盗人 佐藤朔太郎 昭和50年盛夏発行
漫画ザ・ターボ 1982年12月号 瀬木勝 杉戸光史 海藤理賢 杉浦つとむ 牧村みき 佐本裕 吉田英一 紺野泰介ほか
志と仲間たちと 文士たちの石神井、美術家たちの練馬 : 練馬区立石神井公園ふるさと文化館分室特別展練馬区立石神井公園ふるさと文化館分室 編出版:練馬区立石神井公園ふるさと文化館分室 2015年発行55p 30cm1930~195年代にかけて、志を同じくする若い芸術家が集い創作に情熱を傾けた、二つの拠点を紹介。石神井文士の拠点・石神井(アーティストが集まった石神井ホテルや、檀一雄周辺、石神井談話会)、池袋アトリエ村と同時期に30人以上の美術家の卵たちが住みながら、その存在が知られていなかった「練馬アトリエ村」。若い芸術家たちの格闘と出会い、そして時代とともに忘れられていったことを紹介。展覧会中に判明。「舟越保武が石彫を教わった石屋さん」美術学校では石彫を教えなかったため、舟越保武は、練馬アトリエ村近くの「石屋の親方」に石彫を教わる。道具を借り、使い方を教わり、そうした地元の職人の技がのちの名作へとつながっていく。展覧会中に、その石屋さんの場所が判明。 石神井池近くに住んだ小説家・檀一雄を中心とする文士村、そして練馬駅周辺にできたアトリエ村に光を当てた貴重な展示である。檀一雄は、結婚した1942年から石神井に住み、その後陸軍報道班員として中国へ渡った後、再婚し、1947年に石神井に戻り、三宝寺池畔の石神井ホテルに投宿した。そこで書いたのが代表作のひとつ、闘病する先妻との生活を描いた『リツ子 その愛』 『リツ子 その死』だった。その後、檀は石神井池周辺に家を買い、流行作家となる。石神井ホテルとは、1918年頃に、当初は料亭「豊島館」旅館「武蔵野館」として開業した。木造2階建てで、三宝寺池のすぐ南側の、石神井城址隣に立っていた。1923年には、日本共産党臨時党大会が開かれている。1975年頃に取り壊された。檀一雄が石神井の地に関心を持ったのは、1937年に太宰治らと三宝寺池を散策したときのことが楽しく記憶に残っていたからだという。33年に太宰治と知り合った檀は、彼らの友人を集めて「青春五月党」という団体を結成し、交流を深めていた。戦後の昭和20〜30年代に石神井ホテルに住んでいた人物としては、洋画家・南風原朝光、美術評論家・四宮潤一夫妻、美術家・今井滋らがいた。