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非売品CD 私家版 望月彰作品集 エレーナ・ブランケット 七つの子キラキラ 徐新民 私が一番きれいだったとき 茨木のり子ほか

暢気堂書房
 東京都東久留米市滝山
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1,500
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CD SION-YAON 2002 with THE MOGAMI  シオン 野音

暢気堂書房
 東京都東久留米市滝山
2,000
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2,000
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マーシャルと歴史学派の経済思想 一橋大学経済研究叢書西沢 保【著】目次第1部 歴史・倫理学派の時代(マーシャルと歴史的・倫理的アプローチ;古典派経済学の衰退とイギリス歴史学派;アシュリーとオクスフォード・エコノミスト―イギリスの社会政策学派)第2部 経済学の専門化・制度化―マーシャル、アシュリー、福田徳三(経済学の専門化・制度化;ウェッブ、ヒュインズとLSEの創設;マーシャルと経済学トライポスの形成;アシュリーとバーミンガム大学商学部の創設;福田徳三・上田貞次郎と東京商科大学の形成)第3部 マーシャルとイギリス産業上の主導権(イギリス経済の停滞と関税改革運動―アシュリーとヒュインズ;「イギリスの産業上の主導権」と自由貿易;マーシャルの産業経済学・産業組織論)第4部 創設期の厚生経済学と福祉国家(救貧法から福祉国家へ―世紀転換期の貧困・失業問題と経済学者;マーシャルと創設期の厚生経済学;マーシャル―経済進歩と社会的厚生・福祉;福田徳三の厚生経済・社会政策思想とその国際的環境;中山伊知郎と労使関係の経済社会学)著者等紹介西沢保[ニシザワタモツ]1950年生まれ。83年一橋大学大学院博士課程単位修得、同大学社会学部助手、85年大阪市立大学経済学部専任講師、90年一橋大学経済研究所助教授、93年同教授。社会学修士(一橋大学)

暢気堂書房
 東京都東久留米市滝山
3,000
函の背イタミ
S30函
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マーシャルと歴史学派の経済思想 一橋大学経済研究叢書西沢 保【著】目次第1部 歴史・倫理学派の時代(マーシャルと歴史的・倫理的アプローチ;古典派経済学の衰退とイギリス歴史学派;アシュリーとオクスフォード・エコノミスト―イギリスの社会政策学派)第2部 経済学の専門化・制度化―マーシャル、アシュリー、福田徳三(経済学の専門化・制度化;ウェッブ、ヒュインズとLSEの創設;マーシャルと経済学トライポスの形成;アシュリーとバーミンガム大学商学部の創設;福田徳三・上田貞次郎と東京商科大学の形成)第3部 マーシャルとイギリス産業上の主導権(イギリス経済の停滞と関税改革運動―アシュリーとヒュインズ;「イギリスの産業上の主導権」と自由貿易;マーシャルの産業経済学・産業組織論)第4部 創設期の厚生経済学と福祉国家(救貧法から福祉国家へ―世紀転換期の貧困・失業問題と経済学者;マーシャルと創設期の厚生経済学;マーシャル―経済進歩と社会的厚生・福祉;福田徳三の厚生経済・社会政策思想とその国際的環境;中山伊知郎と労使関係の経済社会学)著者等紹介西沢保[ニシザワタモツ]1950年生まれ。83年一橋大学大学院博士課程単位修得、同大学社会学部助手、85年大阪市立大学経済学部専任講師、90年一橋大学経済研究所助教授、93年同教授。社会学修士(一橋大学)

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函の背イタミ S30函

俳画三家選 絵を習うお手本俳画刊行会 (不折・月村・芋銭・春水画) 出版社 俳画刊行会 (不折・月村・芋銭・春水画) 刊行年 昭13

暢気堂書房
 東京都東久留米市滝山
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花道家元 未生流 挿花美術之詠 広誠庵源甫 編 出版社 肥原政右衛門 刊行年 明治24年 ページ数 54丁 サイズ 26cm中古品(並) 解説 和装本 題箋いたみ未生流は、未生齋一甫によって創流されました。三世未生齋一甫は、二世廣甫の長男安之丞が継ぎます。廣甫と同様に嵯峨御所に務め、法眼の号を許されて上田越後と称しました。在世中に明治維新が起こり、明治十年(一八七七)、華道の沈滞期に逝去しました。三世逝去後は未生流家元の後継者がなく、流の衰退を防ぐために二世の高弟が助け合って、懸命に流勢を維持しました。二世在世の当時から役頭1名、役者4名が最高幹部とされていましたが、広誠斎肥原源甫は、早くからその役職を歴任し、役頭として三世家元を後見していました。明治二一年(一八八八)、流内の信望が厚かった源甫が、空位のままであった家元に推されましたが、源甫はこれを固辞しましたので、源甫の高弟で大阪超泉寺住職の黒川義甫が、四世未生齋を継ぎました。広誠斎肥原源甫は、未生流家元の衰微というよりも、華道界全体が衰退していた時期に、各地の同門の人たちの支えとなって働きました。このように困難な状況においても、『錦の幣』(一八六四)、『開華の錦』(一八六七)などのすぐれた花図書を発行しました。それらに収載された剛毅な作風に、その人柄がしのばれます。肥原源甫は明治二六年(一八九三)、八二歳で亡くなりましたが、そのときには、四世義甫も病気で家元を辞退していて、翌二七年に逝去しました。未生流にとって悲報が続きましたが、同年四月、全国の師範代が大阪に集まり、源甫に未生齋を追諡して五世家元とし、以後肥原家をもって家元世襲を定めました。これは源甫の業績に報いる意味と、家元という流儀の中心機関が安定してない混乱期の師範代には、そうせずにはいられぬものがあったからです

暢気堂書房
 東京都東久留米市滝山
5,000
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花道家元 未生流 挿花美術之詠 広誠庵源甫 編 出版社 肥原政右衛門 刊行年 明治24年 ページ数 54丁 サイズ 26cm中古品(並) 解説 和装本 題箋いたみ未生流は、未生齋一甫によって創流されました。三世未生齋一甫は、二世廣甫の長男安之丞が継ぎます。廣甫と同様に嵯峨御所に務め、法眼の号を許されて上田越後と称しました。在世中に明治維新が起こり、明治十年(一八七七)、華道の沈滞期に逝去しました。三世逝去後は未生流家元の後継者がなく、流の衰退を防ぐために二世の高弟が助け合って、懸命に流勢を維持しました。二世在世の当時から役頭1名、役者4名が最高幹部とされていましたが、広誠斎肥原源甫は、早くからその役職を歴任し、役頭として三世家元を後見していました。明治二一年(一八八八)、流内の信望が厚かった源甫が、空位のままであった家元に推されましたが、源甫はこれを固辞しましたので、源甫の高弟で大阪超泉寺住職の黒川義甫が、四世未生齋を継ぎました。広誠斎肥原源甫は、未生流家元の衰微というよりも、華道界全体が衰退していた時期に、各地の同門の人たちの支えとなって働きました。このように困難な状況においても、『錦の幣』(一八六四)、『開華の錦』(一八六七)などのすぐれた花図書を発行しました。それらに収載された剛毅な作風に、その人柄がしのばれます。肥原源甫は明治二六年(一八九三)、八二歳で亡くなりましたが、そのときには、四世義甫も病気で家元を辞退していて、翌二七年に逝去しました。未生流にとって悲報が続きましたが、同年四月、全国の師範代が大阪に集まり、源甫に未生齋を追諡して五世家元とし、以後肥原家をもって家元世襲を定めました。これは源甫の業績に報いる意味と、家元という流儀の中心機関が安定してない混乱期の師範代には、そうせずにはいられぬものがあったからです

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樺戸集治監獄話著者 寺本界雄 出版社 樺戸行刑資料刊行会 刊行年 平成2 月形に樺戸集治監が誕生したのは、開拓使が一定の使命を果たし、全国では憲法制定や議会の設置への気運が高まっていた、こうした大きな変革の時代でした。そもそも集治監とはどんな施設なのでしょう。集治監は、今でいえば重罪犯を収容する特別な刑務所。徳川時代、重罪人は各地の藩ごとの監獄が扱い、罪によって伊豆七島や隠岐などに流されていました。藩の制度を廃止した明治の廃藩置県(1871 年)によって、受刑者は府県の監獄が収容するようになります。しかしまもなく、明治政府を主導した旧薩摩藩や長州藩のリーダーたちが進める政治への不満が募り、各地で旧士族の反乱が勃発しました。1874(明治7)年の「佐賀の乱」、76 (明治9)年の熊本の「神風連の乱」、福岡の「秋月の乱」、山口の「萩の乱」などです。そして1877(明治10)年には維新の立役者であった西郷隆盛を担ぐ、大規模な西南戦争が勃発します。立ち上がった旧士族たちはいずれもやがて政府に鎮圧されて敗北を喫し、首謀者たちは重罪人のレッテルを貼られることになりました。こうした旧士族の重罪人たちは、騒乱が起こった各県の監獄に収監される手はずになります。しかしその数があまりに多かったために、内務省が一元的に直轄する専用施設が必要になりました。これが集治監です。集治監は1878(明治11)年、まず東京(小菅集治監)と仙台(宮城集治監)に建てられ、3カ所めとして北海道が選ばれます。なにしろ当時の北海道の内陸の多くは未開の原野が広がり、本州から見ればまさに最果ての流刑地ともいえる土地でした。立地調査の段階から初代の典獄(監獄長)となるまで、北海道の集治監立ち上げに深く関わったのは、福岡藩出身で内務官僚だった月形潔(1847~1894)でした。樺戸集治監の開設には、さらに北海道の開拓という重要な目的がありました。1879(明治12)年、内務卿伊藤博文が太政大臣三条実美に建議書をあげます。社会を乱した凶悪犯や政治犯たちは、ただ徒食させることは許されない。ロシアへの備えの意味からも開拓が急務である北海道に送り込んで、開墾や道路建設などにつかせるのが良い、とするものです。

暢気堂書房
 東京都東久留米市滝山
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樺戸集治監獄話著者 寺本界雄 出版社 樺戸行刑資料刊行会 刊行年 平成2 月形に樺戸集治監が誕生したのは、開拓使が一定の使命を果たし、全国では憲法制定や議会の設置への気運が高まっていた、こうした大きな変革の時代でした。そもそも集治監とはどんな施設なのでしょう。集治監は、今でいえば重罪犯を収容する特別な刑務所。徳川時代、重罪人は各地の藩ごとの監獄が扱い、罪によって伊豆七島や隠岐などに流されていました。藩の制度を廃止した明治の廃藩置県(1871 年)によって、受刑者は府県の監獄が収容するようになります。しかしまもなく、明治政府を主導した旧薩摩藩や長州藩のリーダーたちが進める政治への不満が募り、各地で旧士族の反乱が勃発しました。1874(明治7)年の「佐賀の乱」、76 (明治9)年の熊本の「神風連の乱」、福岡の「秋月の乱」、山口の「萩の乱」などです。そして1877(明治10)年には維新の立役者であった西郷隆盛を担ぐ、大規模な西南戦争が勃発します。立ち上がった旧士族たちはいずれもやがて政府に鎮圧されて敗北を喫し、首謀者たちは重罪人のレッテルを貼られることになりました。こうした旧士族の重罪人たちは、騒乱が起こった各県の監獄に収監される手はずになります。しかしその数があまりに多かったために、内務省が一元的に直轄する専用施設が必要になりました。これが集治監です。集治監は1878(明治11)年、まず東京(小菅集治監)と仙台(宮城集治監)に建てられ、3カ所めとして北海道が選ばれます。なにしろ当時の北海道の内陸の多くは未開の原野が広がり、本州から見ればまさに最果ての流刑地ともいえる土地でした。立地調査の段階から初代の典獄(監獄長)となるまで、北海道の集治監立ち上げに深く関わったのは、福岡藩出身で内務官僚だった月形潔(1847~1894)でした。樺戸集治監の開設には、さらに北海道の開拓という重要な目的がありました。1879(明治12)年、内務卿伊藤博文が太政大臣三条実美に建議書をあげます。社会を乱した凶悪犯や政治犯たちは、ただ徒食させることは許されない。ロシアへの備えの意味からも開拓が急務である北海道に送り込んで、開墾や道路建設などにつかせるのが良い、とするものです。

1,500
S棚2箱

ダーヴィッド・パレンティ DAVID PARENTI 直筆サイン 限定100/61  2014年 Bunkamura Box Gallery パンフ 

暢気堂書房
 東京都東久留米市滝山
3,500
S棚2段目
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3,500
S棚2段目

臨済宗妙心寺派宗制 発行人臨済宗妙心寺派総務部長 羽賀文圭 編集制作 編集工房 銀匙社 臨済宗妙心寺派宗務本所発行  非売品 垂示記念印あり 刊行年 平9 サイズ B6判 全530頁+92頁 京都の禅寺は、五山十刹代表される、室町幕府の庇護と統制下にあった一派と、それとは一線を画す在野の寺院とがあった。前者を「禅林」または「叢林」、後者を「林下」といった。妙心寺は、大徳寺とともに、修行を重んじる厳しい禅風を特色とする「林下」の代表的寺院である。平安京の北西部を占める風光明媚な妙心寺の地には、花園上皇の花園御所(離宮萩原殿)があった。花園上皇は、建武2年(1335年)落飾して法皇となり、花園御所を禅寺に改めることを発願した。法皇の禅の上での師は大徳寺開山の宗峰妙超であった。宗峰は建武412月没するが、臨終間近の宗峰に花園法皇が「師の亡き後、自分は誰に法を問えばよいか」と尋ねたところ、宗峰は高弟の関山慧玄を推挙した。その頃、美濃の伊深で修行に明け暮れていた関山は、都に戻ることを渋っていたが、師僧・宗峰の遺命と花園法皇の院宣があっては辞去するわけにはいかず、暦応5年/康永元年、妙心寺の開山となった。なお、「正法山妙心寺」の山号寺号は宗峰が命名したもので、釈尊が嗣法の弟子・摩訶迦葉に向かって述べた「正法眼蔵涅槃妙心」という句から取ったものである。関山慧玄の禅風は厳格で、その生活は質素をきわめたという。関山には他の高僧のような「語録」はなく、生前に描かれた肖像もなく、遺筆も弟子の授翁宗弼に書き与えた印可状の他、ほとんど残されていない。妙心寺では開山関山慧玄以降、二祖授翁宗弼、三祖無因宗因、四祖日峰宗舜、五祖義天玄承、六祖雪江宗深までを「六祖」と呼んで尊崇している。なお、この初祖〜六祖は法系を指すものであって、妙心寺の住持として何世目であるかを指すものではない。住持の世代としては日峰宗舜、義天玄承、雪江宗深がそれぞれ七世、八世、九世にあたる。

暢気堂書房
 東京都東久留米市滝山
1,500
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妙心寺 六世住持の拙堂宗朴、足利氏に反旗をひるがえした大内義弘と関係が深かったため、将軍足利義満の怒りを買った。応永6年、義満は妙心寺の寺領を没収して青蓮院の義円に与え、拙堂宗朴は大内義弘に連座して青蓮院に幽閉の身となった。義円は没収した寺領をさらに南禅寺の廷用宗器に与え、廷用は寺号を「龍雲寺」と改めた。こうして妙心寺は一時中絶することとなった。妙心寺が復活するのは永享4年のことである。同年、廷用は微笑塔の敷地をその頃南禅寺にいた根外宗利に与えた。関山慧玄の流れを汲んでいた根外は、犬山瑞泉寺から日峰宗舜を迎えて妙心寺を復興させた。このため日峰は妙心寺中興の祖とされている。妙心寺は応仁の乱で伽藍を焼失したが六祖雪江宗深の尽力により復興。永正6年には利貞尼が仁和寺領の土地を購入して妙心寺に寄進し、境内が拡張された。利貞尼は関白一条兼良女、美濃加納城主斎藤利国の室である。その後の妙心寺は戦国武将などの有力者の援護を得て、近世には大いに栄えた。
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臨済宗妙心寺派宗制 発行人臨済宗妙心寺派総務部長 羽賀文圭 編集制作 編集工房 銀匙社 臨済宗妙心寺派宗務本所発行  非売品 垂示記念印あり 刊行年 平9 サイズ B6判 全530頁+92頁 京都の禅寺は、五山十刹代表される、室町幕府の庇護と統制下にあった一派と、それとは一線を画す在野の寺院とがあった。前者を「禅林」または「叢林」、後者を「林下」といった。妙心寺は、大徳寺とともに、修行を重んじる厳しい禅風を特色とする「林下」の代表的寺院である。平安京の北西部を占める風光明媚な妙心寺の地には、花園上皇の花園御所(離宮萩原殿)があった。花園上皇は、建武2年(1335年)落飾して法皇となり、花園御所を禅寺に改めることを発願した。法皇の禅の上での師は大徳寺開山の宗峰妙超であった。宗峰は建武412月没するが、臨終間近の宗峰に花園法皇が「師の亡き後、自分は誰に法を問えばよいか」と尋ねたところ、宗峰は高弟の関山慧玄を推挙した。その頃、美濃の伊深で修行に明け暮れていた関山は、都に戻ることを渋っていたが、師僧・宗峰の遺命と花園法皇の院宣があっては辞去するわけにはいかず、暦応5年/康永元年、妙心寺の開山となった。なお、「正法山妙心寺」の山号寺号は宗峰が命名したもので、釈尊が嗣法の弟子・摩訶迦葉に向かって述べた「正法眼蔵涅槃妙心」という句から取ったものである。関山慧玄の禅風は厳格で、その生活は質素をきわめたという。関山には他の高僧のような「語録」はなく、生前に描かれた肖像もなく、遺筆も弟子の授翁宗弼に書き与えた印可状の他、ほとんど残されていない。妙心寺では開山関山慧玄以降、二祖授翁宗弼、三祖無因宗因、四祖日峰宗舜、五祖義天玄承、六祖雪江宗深までを「六祖」と呼んで尊崇している。なお、この初祖〜六祖は法系を指すものであって、妙心寺の住持として何世目であるかを指すものではない。住持の世代としては日峰宗舜、義天玄承、雪江宗深がそれぞれ七世、八世、九世にあたる。

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S棚2箱 妙心寺 六世住持の拙堂宗朴、足利氏に反旗をひるがえした大内義弘と関係が深かったため、将軍足利義満の怒りを買った。応永6年、義満は妙心寺の寺領を没収して青蓮院の義円に与え、拙堂宗朴は大内義弘に連座して青蓮院に幽閉の身となった。義円は没収した寺領をさらに南禅寺の廷用宗器に与え、廷用は寺号を「龍雲寺」と改めた。こうして妙心寺は一時中絶することとなった。妙心寺が復活するのは永享4年のことである。同年、廷用は微笑塔の敷地をその頃南禅寺にいた根外宗利に与えた。関山慧玄の流れを汲んでいた根外は、犬山瑞泉寺から日峰宗舜を迎えて妙心寺を復興させた。このため日峰は妙心寺中興の祖とされている。妙心寺は応仁の乱で伽藍を焼失したが六祖雪江宗深の尽力により復興。永正6年には利貞尼が仁和寺領の土地を購入して妙心寺に寄進し、境内が拡張された。利貞尼は関白一条兼良女、美濃加納城主斎藤利国の室である。その後の妙心寺は戦国武将などの有力者の援護を得て、近世には大いに栄えた。

智弥子百句 限定版著者 利根川裕/長谷川智弥子(俳句) 出版社 おぐに山荘出版 刊行年 平成4帙入。和装本。限定13/100部。定価20000円。白色帙。

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2,500
S棚2箱

市川の思い出 市川市市政二十五周年記念 特集市川の手帖 昭和34年 市川毎日新聞社発行 市川市長浮谷竹次郎ほか 全138頁

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S棚2箱

四川武术大全四川科学技术出版社, 1989年初版 2158 ページ

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S棚37箱
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5,000
S棚37箱

現代中国絵画 稲葉昌義/著 東彩美術 コレクターが語るあなたもなれる億万長者 1995年初版カバー

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S棚40箱
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3,500
S棚40箱

腕白、予科練、やくざデカ 土橋俊昭著 平成4年初版 財務出版予科練に入隊、終戦後、農業を経て警官の道へ。暴力団担当刑事として大活躍した自伝。

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手相の究明 田畑大有著 全328頁 出版社 近代社 刊行年 昭和30年初版カバー易聖 真勢中州と新井白峨に次ぐ現代の第一人者。田畑先生二十年余の手相の科学的新研究による書下ろし版。

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S棚25箱

『オバケのQ太郎 No20 クークークーの巻』台本原稿用紙49頁当時ゼロックスコピー山崎晴哉脚本 出崎哲旧蔵 東京ムービ原稿用紙

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25,000
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S棚25箱

図録 宮川香山 : 虫明焼と明治の陶芸 : 没後一〇〇年 福冨幸, 大山真季編 出版社 岡山県立美術館 2016年 ページ数 167 宮川香山(天保13年1月6日(1842年2月15日) - 大正5年(1916年)5月20日)明治時代の日本を代表する陶工。高浮彫、真葛焼(横浜焼)の創始者、帝室技芸員。2代目宮川香山・宮川半之助は養子。海外ではMakuzu Kozanとしても知られている。香山は天保13年(1842年)、京都の真葛ヶ原に陶工・真葛宮川長造の四男として生まれた。幼名は虎之助。19歳の時、父と兄が亡くなり陶工の家を継ぐと父が生前朝廷用の茶器を制作し「香山」の称号を受けていたため虎之助は初代香山の名を名乗り父の得意とした色絵陶器や磁器などを制作。その腕は評判を呼び慶応2年(1866年)、25歳の時、幕府から御所献納の品を依頼されるまでになった。明治3年(1870年)、29歳の時、薩摩の御用商人梅田半之助、実業家鈴木保兵衛らに招聘され翌年、横浜に輸出向けの陶磁器を作る工房・真葛窯を開いた。しかし、当時の関東地方には陶磁器を作る土がなく有名な工房があるのは京都や中国地方などに集中していたため、この地に工房を開くのはかなりの苦労を伴う事業だった。香山は当初欧米に流行していた薩摩焼を研究していくつもの作品を制作、この工房の作を「真葛焼」と名づけて輸出したが金を多量に使用する薩摩焼は制作費に多額の資金を必要とするため、香山は「高浮彫(たかうきぼり)」と呼ばれる新しい技法を生み出す。これは金で表面を盛り上げる薩摩焼の技法を、金のかわりに精密な彫刻を掘り込むことで表現したもので、薩摩焼の技法に変わる新

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2,000
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これは金で表面を盛り上げる薩摩焼の技法を、金のかわりに精密な彫刻を掘り込むことで表現したもので、薩摩焼の技法に変わる新しい表現方法を確立した。
香山はより細密な表現を身に着けるため庭に鷹や熊を飼うまでし、明治9年(1876年)、35歳の時、高浮彫で作られた真葛焼はフィラデルフィア万国博覧会に出品されると多くの国に絶賛され、真葛焼と宮川香山の名を世界に知らしめた。明治29年(1896年)6月30日には帝室技芸員を拝命。ところがのちに高浮彫は生産が難しいだけでなく精度を上げるほど完成まで何年もの時を必要とする生産効率の低さが問題化することになる。これに対処するため、香山は以後、作風を一変。窯の経営を養子の宮川半之助(2代目宮川香山)に任せ、自らは清朝の磁器を元に釉薬の研究、釉下彩の研究に没頭しその技法をものにした。この技法で新たな魅力を築いた真葛焼はその後も輸出産業の主役の一つとして持てはやされた。大正5年(1916年)、死去。享年75。
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図録 宮川香山 : 虫明焼と明治の陶芸 : 没後一〇〇年 福冨幸, 大山真季編 出版社 岡山県立美術館 2016年 ページ数 167 宮川香山(天保13年1月6日(1842年2月15日) - 大正5年(1916年)5月20日)明治時代の日本を代表する陶工。高浮彫、真葛焼(横浜焼)の創始者、帝室技芸員。2代目宮川香山・宮川半之助は養子。海外ではMakuzu Kozanとしても知られている。香山は天保13年(1842年)、京都の真葛ヶ原に陶工・真葛宮川長造の四男として生まれた。幼名は虎之助。19歳の時、父と兄が亡くなり陶工の家を継ぐと父が生前朝廷用の茶器を制作し「香山」の称号を受けていたため虎之助は初代香山の名を名乗り父の得意とした色絵陶器や磁器などを制作。その腕は評判を呼び慶応2年(1866年)、25歳の時、幕府から御所献納の品を依頼されるまでになった。明治3年(1870年)、29歳の時、薩摩の御用商人梅田半之助、実業家鈴木保兵衛らに招聘され翌年、横浜に輸出向けの陶磁器を作る工房・真葛窯を開いた。しかし、当時の関東地方には陶磁器を作る土がなく有名な工房があるのは京都や中国地方などに集中していたため、この地に工房を開くのはかなりの苦労を伴う事業だった。香山は当初欧米に流行していた薩摩焼を研究していくつもの作品を制作、この工房の作を「真葛焼」と名づけて輸出したが金を多量に使用する薩摩焼は制作費に多額の資金を必要とするため、香山は「高浮彫(たかうきぼり)」と呼ばれる新しい技法を生み出す。これは金で表面を盛り上げる薩摩焼の技法を、金のかわりに精密な彫刻を掘り込むことで表現したもので、薩摩焼の技法に変わる新

2,000
S棚25箱 これは金で表面を盛り上げる薩摩焼の技法を、金のかわりに精密な彫刻を掘り込むことで表現したもので、薩摩焼の技法に変わる新しい表現方法を確立した。 香山はより細密な表現を身に着けるため庭に鷹や熊を飼うまでし、明治9年(1876年)、35歳の時、高浮彫で作られた真葛焼はフィラデルフィア万国博覧会に出品されると多くの国に絶賛され、真葛焼と宮川香山の名を世界に知らしめた。明治29年(1896年)6月30日には帝室技芸員を拝命。ところがのちに高浮彫は生産が難しいだけでなく精度を上げるほど完成まで何年もの時を必要とする生産効率の低さが問題化することになる。これに対処するため、香山は以後、作風を一変。窯の経営を養子の宮川半之助(2代目宮川香山)に任せ、自らは清朝の磁器を元に釉薬の研究、釉下彩の研究に没頭しその技法をものにした。この技法で新たな魅力を築いた真葛焼はその後も輸出産業の主役の一つとして持てはやされた。大正5年(1916年)、死去。享年75。

MQ98 冒険王書房

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サントリー角瓶ポスター3種 角ハイボール(59.5cm-42cm)(50cm-24cm)

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【旧車カタログ】 昭和50年 トヨタクラウン MS80/90系 全24頁

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CD かんからそんぐ 添田唖蝉坊・知道をうたう岡大介,小林寛明添田唖蝉坊(正字体表記では「添田啞蟬坊」1872年12月25日(明治5年11月25日) - 1944年(昭和19年)2月8日)は、明治・大正期に活躍した演歌師の草分け。「唖」と「蟬」が添田亜蝉坊と表記されることもある。本名・平吉、号は自らを「歌を歌う唖しの蝉」と称したところから由来。神奈川県の大磯の農家の出で、四男一女の三番目の子として生まれる。叔父が汽船の機関士をしていた関係で、海軍兵学校を志願して上京したが、受験勉強中に浅草の小屋掛芝居をのぞいたのがきっかけで、その世界にのめり込む。海軍兵学校には入学せず、汽船の船客ボーイになり、2年で挫折。以後、横須賀で土方人夫、石炭の積み込みなどの仕事に従事していたが、1890年(明治23年)、壮士節と出会う。当時は政府が廃藩置県、地租改正、学制、徴兵令、殖産興業などの政策を実行している最中で、自由民権運動も盛んな時代であり、「オッペケペ」で有名な川上音二郎らの壮士芝居も、この時代のものである。唖蝉坊は、最初の演歌といわれる「ダイナマイト節」を出した青年倶楽部からその歌本を取り寄せて売り歩いたが、のち政治的な興奮が冷めていくと、政治批判ではない純粋な演歌を目指して、自身が演歌の歌詞を書くようになる。唖蝉坊が最初に書いたといわれているものは、「壇ノ浦」(愉快節)、「白虎隊」(欣舞節)、「西洋熱」(愉快節)などで、1892年(明治25年)の作である。これ以降、「チョイトネ節(紫節)」、「まっくろけ節」、「ノンキ節」、「ゲンコツ節」、「チャクライ節」、「新法界節」、「新トンヤレ節」と続く。1930年(昭和5年)に「生活戦線異状あり」で引退するまでに182曲を残したという。

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1,500
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CD かんからそんぐ 添田唖蝉坊・知道をうたう岡大介,小林寛明添田唖蝉坊(正字体表記では「添田啞蟬坊」1872年12月25日(明治5年11月25日) - 1944年(昭和19年)2月8日)は、明治・大正期に活躍した演歌師の草分け。「唖」と「蟬」が添田亜蝉坊と表記されることもある。本名・平吉、号は自らを「歌を歌う唖しの蝉」と称したところから由来。神奈川県の大磯の農家の出で、四男一女の三番目の子として生まれる。叔父が汽船の機関士をしていた関係で、海軍兵学校を志願して上京したが、受験勉強中に浅草の小屋掛芝居をのぞいたのがきっかけで、その世界にのめり込む。海軍兵学校には入学せず、汽船の船客ボーイになり、2年で挫折。以後、横須賀で土方人夫、石炭の積み込みなどの仕事に従事していたが、1890年(明治23年)、壮士節と出会う。当時は政府が廃藩置県、地租改正、学制、徴兵令、殖産興業などの政策を実行している最中で、自由民権運動も盛んな時代であり、「オッペケペ」で有名な川上音二郎らの壮士芝居も、この時代のものである。唖蝉坊は、最初の演歌といわれる「ダイナマイト節」を出した青年倶楽部からその歌本を取り寄せて売り歩いたが、のち政治的な興奮が冷めていくと、政治批判ではない純粋な演歌を目指して、自身が演歌の歌詞を書くようになる。唖蝉坊が最初に書いたといわれているものは、「壇ノ浦」(愉快節)、「白虎隊」(欣舞節)、「西洋熱」(愉快節)などで、1892年(明治25年)の作である。これ以降、「チョイトネ節(紫節)」、「まっくろけ節」、「ノンキ節」、「ゲンコツ節」、「チャクライ節」、「新法界節」、「新トンヤレ節」と続く。1930年(昭和5年)に「生活戦線異状あり」で引退するまでに182曲を残したという。

1,500
3棚3段目左側

女子新手習用文 木版刷 著者 岡本竹二郎  出版社 松陽堂  刊行年 明治38年 女子 新手習用文 新手ならひ用文 /書家 岡本可亭 竹二郎 編輯筆者 彫刻者 吉田悦太郎/明治38年/松陽堂発行 全五十九丁岡本可亭は伊勢の人で、名は良信、通称は竹二郎、字は子耐、号を可亭・長春堂などと称し、藤堂藩に使えた儒者岡本安五郎の次男で、一般的には「初め父より御家流を習い、後に趙子昂を学んで一家を成した書家」と伝えられているが、詳細は不明である。ただ父が儒者であれば、幼時に家学としての漢学や書を受けた、と推測することは可能であろう。その後、大阪や東京での版下作りや看板揮毫で名を成していれば、一家を張った書家あったことは確かであり、明治24年には『普通高等新体婦女用文』や『女宝』等の書籍も公刊している。また彼は、北大路魯山人の書の師でもあるが、同時に画家岡本太郎の祖父(父岡本一平の父親)でもある。

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2,500
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ぺんてる ディズニーパス 25色未使用●大日本文具株式会社/木製ケース入り

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男性自身創刊号◆エロチックで優雅な水着の研究 この頃セクシーないい女 いしだあゆみ30歳が赤裸々に語る萩原健一との愛情生活 天地真理/さすらい天使 笠間しろう/激変するニューミュージック界に異色の人くぎ哲朗/月光仮面/牧村三枝子/北公次出版社 双葉社 刊行年 昭和54

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