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戦友 10冊 大正10年〜大正11年 第136号第137号第138号第141号第142号第143号第144号第145号第148号第149号帝国在郷軍人会本部、帝国在郷軍人会本部 A5

暢気堂書房

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花道家元 未生流 挿花美術之詠 広誠庵源甫 編 出版社 肥原政右衛門 刊行年 明治24年 ページ数 54丁 サイズ 26cm中古品(並) 解説 和装本 題箋いたみ未生流は、未生齋一甫によって創流されました。三世未生齋一甫は、二世廣甫の長男安之丞が継ぎます。廣甫と同様に嵯峨御所に務め、法眼の号を許されて上田越後と称しました。在世中に明治維新が起こり、明治十年(一八七七)、華道の沈滞期に逝去しました。三世逝去後は未生流家元の後継者がなく、流の衰退を防ぐために二世の高弟が助け合って、懸命に流勢を維持しました。二世在世の当時から役頭1名、役者4名が最高幹部とされていましたが、広誠斎肥原源甫は、早くからその役職を歴任し、役頭として三世家元を後見していました。明治二一年(一八八八)、流内の信望が厚かった源甫が、空位のままであった家元に推されましたが、源甫はこれを固辞しましたので、源甫の高弟で大阪超泉寺住職の黒川義甫が、四世未生齋を継ぎました。広誠斎肥原源甫は、未生流家元の衰微というよりも、華道界全体が衰退していた時期に、各地の同門の人たちの支えとなって働きました。このように困難な状況においても、『錦の幣』(一八六四)、『開華の錦』(一八六七)などのすぐれた花図書を発行しました。それらに収載された剛毅な作風に、その人柄がしのばれます。肥原源甫は明治二六年(一八九三)、八二歳で亡くなりましたが、そのときには、四世義甫も病気で家元を辞退していて、翌二七年に逝去しました。未生流にとって悲報が続きましたが、同年四月、全国の師範代が大阪に集まり、源甫に未生齋を追諡して五世家元とし、以後肥原家をもって家元世襲を定めました。これは源甫の業績に報いる意味と、家元という流儀の中心機関が安定してない混乱期の師範代には、そうせずにはいられぬものがあったからです ¥5,000
樺戸集治監獄話著者 寺本界雄 出版社 樺戸行刑資料刊行会 刊行年 平成2 月形に樺戸集治監が誕生したのは、開拓使が一定の使命を果たし、全国では憲法制定や議会の設置への気運が高まっていた、こうした大きな変革の時代でした。そもそも集治監とはどんな施設なのでしょう。集治監は、今でいえば重罪犯を収容する特別な刑務所。徳川時代、重罪人は各地の藩ごとの監獄が扱い、罪によって伊豆七島や隠岐などに流されていました。藩の制度を廃止した明治の廃藩置県(1871 年)によって、受刑者は府県の監獄が収容するようになります。しかしまもなく、明治政府を主導した旧薩摩藩や長州藩のリーダーたちが進める政治への不満が募り、各地で旧士族の反乱が勃発しました。1874(明治7)年の「佐賀の乱」、76 (明治9)年の熊本の「神風連の乱」、福岡の「秋月の乱」、山口の「萩の乱」などです。そして1877(明治10)年には維新の立役者であった西郷隆盛を担ぐ、大規模な西南戦争が勃発します。立ち上がった旧士族たちはいずれもやがて政府に鎮圧されて敗北を喫し、首謀者たちは重罪人のレッテルを貼られることになりました。こうした旧士族の重罪人たちは、騒乱が起こった各県の監獄に収監される手はずになります。しかしその数があまりに多かったために、内務省が一元的に直轄する専用施設が必要になりました。これが集治監です。集治監は1878(明治11)年、まず東京(小菅集治監)と仙台(宮城集治監)に建てられ、3カ所めとして北海道が選ばれます。なにしろ当時の北海道の内陸の多くは未開の原野が広がり、本州から見ればまさに最果ての流刑地ともいえる土地でした。立地調査の段階から初代の典獄(監獄長)となるまで、北海道の集治監立ち上げに深く関わったのは、福岡藩出身で内務官僚だった月形潔(1847~1894)でした。樺戸集治監の開設には、さらに北海道の開拓という重要な目的がありました。1879(明治12)年、内務卿伊藤博文が太政大臣三条実美に建議書をあげます。社会を乱した凶悪犯や政治犯たちは、ただ徒食させることは許されない。ロシアへの備えの意味からも開拓が急務である北海道に送り込んで、開墾や道路建設などにつかせるのが良い、とするものです。 ¥1,500
臨済宗妙心寺派宗制 発行人臨済宗妙心寺派総務部長 羽賀文圭 編集制作 編集工房 銀匙社 臨済宗妙心寺派宗務本所発行  非売品 垂示記念印あり 刊行年 平9 サイズ B6判 全530頁+92頁 京都の禅寺は、五山十刹代表される、室町幕府の庇護と統制下にあった一派と、それとは一線を画す在野の寺院とがあった。前者を「禅林」または「叢林」、後者を「林下」といった。妙心寺は、大徳寺とともに、修行を重んじる厳しい禅風を特色とする「林下」の代表的寺院である。平安京の北西部を占める風光明媚な妙心寺の地には、花園上皇の花園御所(離宮萩原殿)があった。花園上皇は、建武2年(1335年)落飾して法皇となり、花園御所を禅寺に改めることを発願した。法皇の禅の上での師は大徳寺開山の宗峰妙超であった。宗峰は建武412月没するが、臨終間近の宗峰に花園法皇が「師の亡き後、自分は誰に法を問えばよいか」と尋ねたところ、宗峰は高弟の関山慧玄を推挙した。その頃、美濃の伊深で修行に明け暮れていた関山は、都に戻ることを渋っていたが、師僧・宗峰の遺命と花園法皇の院宣があっては辞去するわけにはいかず、暦応5年/康永元年、妙心寺の開山となった。なお、「正法山妙心寺」の山号寺号は宗峰が命名したもので、釈尊が嗣法の弟子・摩訶迦葉に向かって述べた「正法眼蔵涅槃妙心」という句から取ったものである。関山慧玄の禅風は厳格で、その生活は質素をきわめたという。関山には他の高僧のような「語録」はなく、生前に描かれた肖像もなく、遺筆も弟子の授翁宗弼に書き与えた印可状の他、ほとんど残されていない。妙心寺では開山関山慧玄以降、二祖授翁宗弼、三祖無因宗因、四祖日峰宗舜、五祖義天玄承、六祖雪江宗深までを「六祖」と呼んで尊崇している。なお、この初祖〜六祖は法系を指すものであって、妙心寺の住持として何世目であるかを指すものではない。住持の世代としては日峰宗舜、義天玄承、雪江宗深がそれぞれ七世、八世、九世にあたる。 ¥1,500

おすすめの書籍

大石寺法門 川澄勳 著 1996年初版カバー帯付 オレンジ出版社川澄勲がその半生をかはて大石寺の古文書を解明された成果であり集大成。宗門も創価学会も夢にも知らぬ法門なり。滅後700年、真反対に歪められてきた日蓮法門の真実を、古文書研究の巨匠がその生涯をかけて解き明かす。 [解説] 序滅後末法の衆生は今、どのような世を迎えて、どのようにして成道を遂げ、安穏な日々を迎えることが出来るのであろうか。菩薩も今となっては、衆生を手当たり次第に地獄に追いおとしているのみである。宗門ではそれを双手を上げて待っているのではないかと思われる程である。宗祖はその日のために霊山浄土を考えて、そこに残されているのが「師弟子の法門」なのではなかろうか。仏・菩薩はなくとも、持って生まれた「因果倶時不思議の一法」があれぱ、師と共に成道できる場が霊山浄土となるのである。今の宗門では、師弟因果の法門については一向に理解していないように思われる。二祖日興上人の佐渡の法華講衆に与えられた御消息を信頼することもなく、「白蓮」と書き入れられたものも疑書と判じて、これを消し去ろうとしているようである。堀上人も本因妙抄、百六箇抄については、すでに3本線をもって切り捨てられているようである。それでは弟子の救われる道は封じられたも同然であって、衆生は地獄に落とされ、成道ということはできなくなる。一体、宗祖二祖のねらいの法門とは何であったのであろうか。この「大石寺法門」の中から、その行く手を求められたいと思う。二祖が『この師弟子の法門』と受けとめられた法門こそ、宗門を代表するようなものになるのではなかろうか。もっともっと掘り下げて、考え直してもらいたいものである。悪口の縁に索かれて「大石寺法門」を書き出してから10年、仏法の創始者としての日蓮像というよりも、思想家、日蓮につなげられる処へ目標をおいて綴ってきたつもりである。仏法も、思想も、見る場所による相違のように思われるが、結局同じものではないかと思う。未整理のまま、筆の赴くままに載せたので、重複するような読みづらい点などもあるかもしれないが、ご容赦願いたいと思う。将来研究家が出て、一行半句でも取り上げられることでもあれば光栄である。今回、大石寺法門の数巻をまとめて刊行することになったので、ここに序文を草すること
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