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华君武漫画 浙江人民美术出版社 华君武直筆サイン入 杉浦幸雄先生宛 Hua Junwu | COMIC 全152ページ 26cm-26cmハードカバー
古写真研究こぼれ話 八 ―真実を求めて― フェイスブック版 限定100部 2026年発行 高橋信一著 「西南戦争の軍人集合写真」は「佐賀の乱の軍人集合写真」だった。「フルベッキ写真」の顔認証ソフトによる人物判定が論文に。鉄道開通式の写真はベアトが撮ったのではなく下岡蓮杖だった。スティルフリード=アンデルセン写真館の最後のアルバム発見、長崎港の巡幸パノラマ写真の真相。小川一真は「老夫婦」の写真を撮っていなかった。長崎・致遠館跡地に「フルベッキ写真」の説明板が設置。長崎・諏訪神社の五つの大鳥居のミステリー、ベアトの「蒔絵」のアルバム。その他長崎大学やニューヨーク公共図書館の古写真コレクションの写真の紹介など。合計300枚を超える明治時代の風景と風俗の写真の詳しい解説。
ふえみな 秋号 パターンブック 昭和16年 編集兼発行者片岡よね ふえみな社 上野精養軒広告
デヴィッド・ボウイ 地球に落ちて来た男 チラシ 東劇宇宙のかなたから はかり知れない衝撃をもって ひとりの男が来た・・・
東京高裁糾弾! 14号 八鹿高校事件の真相はこうだ 仕組まれた暴行と差別教育の実態 全48頁出版 狭山差別裁判取り消し、無実の石川一雄即時釈放要求中央闘争委員会 刊行年 1974年八鹿高校事件は、1974年(昭和49年)11月22日に兵庫県立八鹿高等学校で発生した、部落解放同盟の同盟員が集団下校中の教職員約60名を学校に連れ戻し、約13時間にわたって監禁・暴行し、教師48名が負傷、内29名が重傷、1名が重体となった事件である。略称は八高事件。
2点 表現の自由をまもるために 大田立看板事件のたたかい 大田立看板事件平野夫妻守る会 日本国民救援会東京本部 全40頁、大田立看板事件勝利のために署名とカンパ用紙。 大田立看板事件、1970年代に東京都大田区で設置された看板を巡り、軽犯罪法違反に問われた事件。1981年8月の東京高裁で無罪判決が出され、立看板が「はり札」に該当するかが争点となった表現の自由に関する重要な刑事裁判
2点 原水爆禁止世界大会 1976年広島 討議資料 第22回(ノーモア・ヒロシマ・ナガサキの大義は人類の大義である)核兵器完全禁止・使用禁止 話しあいのために 全48頁 原水爆禁止日本協議会。第22回原水爆禁止世界大会報告書 ヒロシマ・ナガサキの声を全世界に 杉並原水協のあゆみ 1976年 原水爆禁止杉並協議会 全42頁。
シナリオ 若者の旗(「若者たち」)/山内久】映画「若者たち」全国上映委員会/昭和45年 山内久映画「若者たち」全国上映委員会・発行/’70年 「若者たち」「若者はゆく -続若者たち-」に続く第三作。脚本、監督、撮影も前作と同じく、山内久、森川時久、宮島義勇がそれぞれ担当。佐藤家の五人兄弟はそれぞれにさまざまな問題をかかえて生きていた。三郎は高等学校の教師をしていたが、校長と意見が合わずやめてしまい、今は昼間、出版社で働き、夜は夜間中学で教べんをとっていた。社会の底辺に置かれ少年たちも、それぞれの悪環境と戦いながら勉学に励んでいた。その中の一人、努少年は蒸発した父の借金返しに町工場でタダ働き同様に毎日を送っていた。オリエは恋人と信じていた戸坂の病気を見舞ったが、そこで将来結婚を約束したという西田和子を紹介され、がく然となった。戸坂は佐藤家を訪ねて自分の置かれている切実な状況を打ち明け、太郎や三郎に許しを乞うた。オリエは悲しみにたえ、動揺する戸坂にいつまでも平和運動を続けようと励ました。末吉は、今では会社内でも指折りの自動車セールスマンとして活躍し、所長の姪みわと恋愛中だった。独立してみわとの結婚も真剣に考え末吉の稼ぎっぷりは、ますます猛烈になっていった。同僚を裏切っても良心に恥じることさえ忘れた。そんな末吉を見て、みわは「あなたという機械の部品にされるのはいやだ」といって去ってしまいそれからの末吉の行動はますます荒み、太郎や三郎との衝突も激しさを増していった。一方、次郎は町子と口論を続けながらも桃太郎という愛児をもうけ、その生活ぶりはまずまず順調だった。末吉は三郎の激しい説得にようやく自分の「金とセックスとバクチのために生きている」という生き方に疑問を感じ始め、次郎と町子の子供、桃太郎を見たとき自分の内に芽ばえてくる新しい生命力を感じ、今までの生活を考え直して、一から出なおす決心をした。