JavaScript を有効にしてご利用下さい.
文字サイズ
古書を探す
ダイヤモンドとひきがえる 他二編(復刻世界の絵本館オズボーン・コレクション)出版社 ほるぷ出版 ページ数 3冊 サイズ 10.5×6.5/10×6/10×7cm ・本の形態 :豆小冊子3冊(英語・外函、カバー付き) ・本のサイズ :10.5×6.5/10×6/10×7cm
原色中国切手図鑑1978年版 ”Chinese Stamp Catalog Illustrated in Colours“ 著者 みずはらめいそう編 出版社 日本郵趣協会 刊行年 1977年 72頁
Noel Gallagher's High Flying Birds / Chasing Hearts (2CDR)盤質良好 ケースイタミ ノエル・ギャラガーズ・ハイ・フライング・バーズ
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1,2番/アキコ・マイヤース(vn)ヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調作品19ヴァイオリン協奏曲第2番ト短調作品63アン・アキコ・マイヤース(ヴァイオリン)ドミトリー・キタエンコ指揮フランクフルト放送交響楽団1995年録音国内盤、帯なしアン・アキコ・マイヤース(Anne Akiko Meyers )、アメリカのヴァイオリニスト。ドイツ系アメリカ人でセロ・コーゾ・コミュニティ大学の学長であり、後にオレゴン州立大学の学長となる父リチャード・スチュアート・マイヤースと、日本人画家である母ヤスコ・カマタ・マイヤースの間に、サンディエゴで生まれる。4歳からスズキ・メソードでヴァイオリンを始め、1981年、11歳の時にロサンジェルス・フィルハーモニックと初協演し、「ザ・トゥナイト・ショー」に2度出演した。1982年、12歳の時にズービン・メータ指揮のニューヨーク・フィルハーモニックと初協演。1983年、インディアナ大学ジェイコブズ音楽院でジョーゼフ・ギンゴールドに師事。1984年、ジュリアード音楽院で全額奨学金を受け、川崎雅夫、ドロシー・ディレイ、フェリックス・ガリミアに師事した。以後、ソリスト、室内楽奏者、レコーディングアーティスト、教育者等として世界中で演奏活動を行う。
CD Luar Na Lubre Saudade ルアル・ナ・ルブレ13曲収録1 Desterro 2 Olla meu irmau 3 Cantiga do Neno da Tenda (con Adriana Varela) 4 Danza dos esqueletes 5 Domingo Ferreiro (con Lila Downs) 6 Mina Nai 7 Pandeirada do Che (Farruco Sesto) 8 Lonxe da terrina 9 Nova Galicia 10 Teu nome, Amarante (con Cida Airam) 11 Galego guajiro 12 Saudade 13 Tu gitana (con Pablo Milanes) ルアル・ナ・ルブレ(Luar na Lubre)は、スペイン北西部、スペイン・ケルトの地として知られるガリシア州を代表する音楽グループ。「luar」とはガリシア語で「月の光」を、「lubre」とはドルイド僧が呪術を行った「魔法の森」を意味する。1992年よりマイク・オールドフィールドと親交を深め、オールドフィールドのアルバム『ヴォイジャー』(1996年)ではルアル・ナ・ルブレが1988年に発表した曲「O Son do Ar」がカヴァーされている。更に1999年にはオールドフィールドのツアー「ライヴ・ゼン&ナウ1999」で前座を務めて、世界的に知られるようになった。現在ではガリシアを代表するグループとなっている。
CD 鯉沼廣行 幻の笛 - 鯉沼廣行 横笛小曲集1967年に国立音楽大学を卒業し、はじめリコーダー奏者として活動。後、和楽器の横笛に惹かれるようになり、六代目福原百之助に篠笛と能管を師事した。1977年に最初の横笛リサイタルを開いて以来、フィンランド、中華人民共和国、ロシア、アメリカ合衆国、ブルガリア、フランス、イタリア、エストニアといった海外を含め、各地で横笛の演奏活動を行っている。作曲を高田三郎に師事し、横笛のための作品や教則本を出版。弟子に金子由美子がいる。
青い目の人形交流展 ―お帰りなさい答礼人形【図録】 武田英子・さいとうみのる:監修 出版社 国際文化協会・朝日新聞社・そごう美術館 刊行年 昭和63 解説 A四 80頁 人形師 初代岩松松乾斉作 秀徳作 二代目平田郷陽作 滝沢光竜斉作 ほか 1920年代、アメリカでは反日感情が高まりをみせており、日本人移民を排斥する「新移民法」が可決された。そのような状況を憂慮した親日家の宗教教育者・ギューリック博士は、「人形」を通じて日米親善をはかろうと考え、親交の深かった渋沢栄一に協力を求めた。その試みは1927年(昭和2年)に実を結び、アメリカから約12,000体の「青い目の人形」が贈られ、その返礼として、日本の子どもたちの献金によって約60体の「答礼人形」が海を渡った。日米開戦によって、敵国からの「贈り物」として多くが廃棄処分を受けたが、捨てるに忍びないと密かに保存された人形たちが戦火をくぐり抜け、1980年代時点で「青い目の人形」216体、「答礼人形」25体が健在であることが確認されている。本書は、19体の「答礼人形」が里帰りし、日本に現存する「青い目の人形」を加え、1988年に日本全国で開かれた展覧会の図録。それぞれの人形にのこる傷あとや汚れから、戦争がもたらす不条理がうかがえ、胸をつかれる。--------------------------千葉の館山小学校の教師だった冨田文枝さんは、つぎのように話していました。「校長先生が私に、『人形を焼却するよう通達がきているけれど、あなたに預けます。くれぐれも憲兵に見つからないように』といわれました。私は必死で押入れに隠しました」(「戦時下の『青い目の人形』」より)□publisher:国際文化協会・朝日新聞・そごう美術館□date of issue:1988年□size:14.8x10.5cm□page:80 [解説]
朝鮮銀行券 朝丁100円券 未使用- 在外銀行券 軍票