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詩抄 花盗人 佐藤朔太郎 昭和50年盛夏発行
漫画ザ・ターボ 1982年12月号 瀬木勝 杉戸光史 海藤理賢 杉浦つとむ 牧村みき 佐本裕 吉田英一 紺野泰介ほか
志と仲間たちと 文士たちの石神井、美術家たちの練馬 : 練馬区立石神井公園ふるさと文化館分室特別展練馬区立石神井公園ふるさと文化館分室 編出版:練馬区立石神井公園ふるさと文化館分室 2015年発行55p 30cm1930~195年代にかけて、志を同じくする若い芸術家が集い創作に情熱を傾けた、二つの拠点を紹介。石神井文士の拠点・石神井(アーティストが集まった石神井ホテルや、檀一雄周辺、石神井談話会)、池袋アトリエ村と同時期に30人以上の美術家の卵たちが住みながら、その存在が知られていなかった「練馬アトリエ村」。若い芸術家たちの格闘と出会い、そして時代とともに忘れられていったことを紹介。展覧会中に判明。「舟越保武が石彫を教わった石屋さん」美術学校では石彫を教えなかったため、舟越保武は、練馬アトリエ村近くの「石屋の親方」に石彫を教わる。道具を借り、使い方を教わり、そうした地元の職人の技がのちの名作へとつながっていく。展覧会中に、その石屋さんの場所が判明。 石神井池近くに住んだ小説家・檀一雄を中心とする文士村、そして練馬駅周辺にできたアトリエ村に光を当てた貴重な展示である。檀一雄は、結婚した1942年から石神井に住み、その後陸軍報道班員として中国へ渡った後、再婚し、1947年に石神井に戻り、三宝寺池畔の石神井ホテルに投宿した。そこで書いたのが代表作のひとつ、闘病する先妻との生活を描いた『リツ子 その愛』 『リツ子 その死』だった。その後、檀は石神井池周辺に家を買い、流行作家となる。石神井ホテルとは、1918年頃に、当初は料亭「豊島館」旅館「武蔵野館」として開業した。木造2階建てで、三宝寺池のすぐ南側の、石神井城址隣に立っていた。1923年には、日本共産党臨時党大会が開かれている。1975年頃に取り壊された。檀一雄が石神井の地に関心を持ったのは、1937年に太宰治らと三宝寺池を散策したときのことが楽しく記憶に残っていたからだという。33年に太宰治と知り合った檀は、彼らの友人を集めて「青春五月党」という団体を結成し、交流を深めていた。戦後の昭和20〜30年代に石神井ホテルに住んでいた人物としては、洋画家・南風原朝光、美術評論家・四宮潤一夫妻、美術家・今井滋らがいた。
五代目中村富十郎傘寿記念 第九回矢車会パンフレット 平成21年 歌舞伎座『寿三番叟』『雪傾城』『勧進帳』、夜の部は『寿競べ』『お祭り』そして中村富十郎、鷹之資親子での『連獅子』など見逃せない演目が並ぶ一日限りの特別公演。歌舞伎美人では、公演の見どころや思い出などを、"富十郎が語る「矢車会」"として2回に分けて上演。中国芸術研究院名誉教授 龍愁麗、遠州茶道宗家 紅心小堀宗慶、九世 片山九郎右衛門等 文。
7冊「鳥獣」昭和2年第2巻第11号、昭和3年第3巻第1号、第3巻第3号、第3巻第6号、第3巻第7号、第3巻第8号、第3巻第11号、東京鳥獣社 主幹上田金三郎
浜田知明 銅版画『夜』35/60 額装 1988年制作/猫/仏芸術文化勲章受章作家 : 浜田知明題名 : 夜 1988年エディションナンバー 35/60署名 : 下にサインとエディションナンバー技法 : 銅版画作品サイズ : タテ28cm × ヨコ24cm(マット窓寸法)額サイズ : タテ50cm × ヨコ44cm箱ございません浜田知明 1917-2018版画家。熊本県生まれ。県立御船中学在学中に富田至誠の影響を受ける。1939年(昭和14)東京美術学校卒業後、第二次世界大戦終了まで、下級兵士として兵役につく。戦後、駒井哲郎・関野準一郎(1914―1988)に銅版画法を学び、1956年のルガノ国際版画展出品の『初年兵哀歌(歩哨)』が受賞し、これに続く兵隊シリーズで、戦争体験を原点とした社会派版画に独自の孤高の地位を築く。その後、彫刻も始める。1993年には大英博物館日本館で「浜田知明展」、1996年には東京・小田急美術館で「浜田知明の全容展」が開催された。2008年にウフィッツィ美術館で日本人として初めて個展が開催されるなど、日本のみならず、国際的にも高い評価を得る。フランス芸術文化勲章受章(1989)。
エリック・サティとその時代展出版社 アートインプレッション 刊行年 2015 ページ数 171p サイズ 26cm 解説 初版●CD欠。エリック・サティ(1866-1925)は、20 世紀への転換期に活躍したフランスの作曲家。サティは芸術家たちが集い自由な雰囲気をたたえるモンマルトルで作曲家としての活動を開始し、その後生涯を通じて芸術家との交流を続けたた。第一次大戦中より大規模な舞台作品にも関与し、パブロ・ピカソとはバレエ・リュスの公演《パラード》を、フランシス・ピカビアとはスウェーデン・バレエ団の《本日休演》を成功させます。また一方でアンドレ・ドラン、ジョルジュ・ブラック、コンスタンティン・ブランクーシ、マン・レイ、そして数々のダダイストたちがサティとの交流から作品を生み出していきました。マン・レイによって「眼を持った唯一の音楽家」と評されたサティの活動を芸術家との交流のなかで捉え、刺激を与え合った芸術家たちの作品を通して、作曲家サティの新たな側面を浮かび上がらる。
大石寺法門 川澄勳 著 1996年初版カバー帯付 オレンジ出版社川澄勲がその半生をかはて大石寺の古文書を解明された成果であり集大成。宗門も創価学会も夢にも知らぬ法門なり。滅後700年、真反対に歪められてきた日蓮法門の真実を、古文書研究の巨匠がその生涯をかけて解き明かす。 [解説] 序滅後末法の衆生は今、どのような世を迎えて、どのようにして成道を遂げ、安穏な日々を迎えることが出来るのであろうか。菩薩も今となっては、衆生を手当たり次第に地獄に追いおとしているのみである。宗門ではそれを双手を上げて待っているのではないかと思われる程である。宗祖はその日のために霊山浄土を考えて、そこに残されているのが「師弟子の法門」なのではなかろうか。仏・菩薩はなくとも、持って生まれた「因果倶時不思議の一法」があれぱ、師と共に成道できる場が霊山浄土となるのである。今の宗門では、師弟因果の法門については一向に理解していないように思われる。二祖日興上人の佐渡の法華講衆に与えられた御消息を信頼することもなく、「白蓮」と書き入れられたものも疑書と判じて、これを消し去ろうとしているようである。堀上人も本因妙抄、百六箇抄については、すでに3本線をもって切り捨てられているようである。それでは弟子の救われる道は封じられたも同然であって、衆生は地獄に落とされ、成道ということはできなくなる。一体、宗祖二祖のねらいの法門とは何であったのであろうか。この「大石寺法門」の中から、その行く手を求められたいと思う。二祖が『この師弟子の法門』と受けとめられた法門こそ、宗門を代表するようなものになるのではなかろうか。もっともっと掘り下げて、考え直してもらいたいものである。悪口の縁に索かれて「大石寺法門」を書き出してから10年、仏法の創始者としての日蓮像というよりも、思想家、日蓮につなげられる処へ目標をおいて綴ってきたつもりである。