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現代俳句短冊全書 大野雑草子篇 出版社 東京四季出版 刊行年 1991年 ページ数 211頁 サイズ A4判211

暢気堂書房

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青い目の人形交流展 ―お帰りなさい答礼人形【図録】 武田英子・さいとうみのる:監修 出版社 国際文化協会・朝日新聞社・そごう美術館 刊行年 昭和63 解説 A四 80頁 人形師 初代岩松松乾斉作 秀徳作 二代目平田郷陽作 滝沢光竜斉作 ほか  1920年代、アメリカでは反日感情が高まりをみせており、日本人移民を排斥する「新移民法」が可決された。そのような状況を憂慮した親日家の宗教教育者・ギューリック博士は、「人形」を通じて日米親善をはかろうと考え、親交の深かった渋沢栄一に協力を求めた。その試みは1927年(昭和2年)に実を結び、アメリカから約12,000体の「青い目の人形」が贈られ、その返礼として、日本の子どもたちの献金によって約60体の「答礼人形」が海を渡った。日米開戦によって、敵国からの「贈り物」として多くが廃棄処分を受けたが、捨てるに忍びないと密かに保存された人形たちが戦火をくぐり抜け、1980年代時点で「青い目の人形」216体、「答礼人形」25体が健在であることが確認されている。本書は、19体の「答礼人形」が里帰りし、日本に現存する「青い目の人形」を加え、1988年に日本全国で開かれた展覧会の図録。それぞれの人形にのこる傷あとや汚れから、戦争がもたらす不条理がうかがえ、胸をつかれる。--------------------------千葉の館山小学校の教師だった冨田文枝さんは、つぎのように話していました。「校長先生が私に、『人形を焼却するよう通達がきているけれど、あなたに預けます。くれぐれも憲兵に見つからないように』といわれました。私は必死で押入れに隠しました」(「戦時下の『青い目の人形』」より)□publisher:国際文化協会・朝日新聞・そごう美術館□date of issue:1988年□size:14.8x10.5cm□page:80 [解説] ¥5,000
牧野富太郎と植物画展 : ボタニカルワールドへのいざない 展覧会チラシ付 小田急美術館 大阪市立自然史博物館 展覧The World of Makino's Botanical Illustrations 「牧野富太郎と植物画展」図録 : ボタニカルワールドへのいざない 高知県立牧野植物園,毎日新聞大阪本社文化事業部編 出版社 毎日新聞社 刊行年 2001 ページ数 213p サイズ 30cm 日本が世界に誇る植物学者・牧野富太郎博士は,95年の生涯のすべてを植物研究に捧げました.全国の山野でフィールドワークを行い,2500もの新植物に名前をつけました.日本の「植物学の父」と呼ぶにふさわしい人です. 牧野博士は,また,植物画の名手でもありました.精密かつ力強い筆使いで,植物の「種」としての典型の表現をめざした図で,その画法は「牧野式」と呼ばれました.植物を最もよく知る植物学者によって描かれた図には,みずみずしい生気が宿り,学術的価値に加えて,美術的にも高く評価されています. 本展は,高知県立牧野植物園が所蔵する牧野博士の植物画をはじめ,博士の植物画コレクションの他,博士の遺品やエピソードを通じて,牧野富太郎の人間的魅力を紹介。【主な展示品】1.牧野富太郎の植物図 約150点2.関根雲停,山田壽雄,服部雪斎,渡邊鍬太郎など幕末から明治の画工たちの作品 約50点3.牧野富太郎の遺品や生涯を物語る資料 「臍の緒袋」から「愛用の採集用具,観察用具」,「競売通知書」,「妻,壽衛との手紙のやりとり」など,約100点 ¥2,500
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日蓮教学精要 本多日生著 昭38年初版函付 出版社 財団法人統一団 サイズ B6 全414頁本多日生(1867年4月17日(慶応3年3月13日) - 1931年(昭和6年)3月16日)僧侶。日蓮宗妙満寺派、顕本法華宗元管長、法号は聖応院日生。近代日本の代表的な日蓮仏教の改革者として名を残す。 1884年(明治17年)以降、明治政府のもと仏教各宗派の教団近代化が始まり、日蓮宗妙満寺派にいた日生は革新派として近代化の体制整備に奔走し、1889年(明治22年)、24歳の若さにして妙満寺派教学部長に就任する。しかし、日生の革新的な宗制改革は、宗内の守旧派から反発を呼び、保守派の錦織日航が管長に就任すると、1891年(明治24年)、教学部長を罷免される。日生に対する守旧派の処分は続き、福島県二本松の蓮華寺への左遷命令を拒否した日生に対して1892年(明治23年)、僧籍剥奪処分が下る。以後、日生は「顕本法華宗義弘通所」を設立して独自の布教活動を始める。宗内での盛んな日生復権運動の結果、1894年(明治27年)、宗門は「仏教各宗綱要」の日生への執筆依頼のために僧籍を復権。それと同時に、かねてから構想していた日蓮門下統合に向けて僧俗を問わずに運動を展開する拠点として「統一団」を結成する。団報「統一」を発刊し、現在までその活動は継続されている。日生は宗門の宗務総監に就任した後、日蓮宗妙満寺派を正式に「顕本法華宗」とする公称許可を得て、1905年(明治38年)、39歳で顕本法華宗管長に就任した。以後21年間、同職を務める中、1909年(明治42年)には以前からライフワークとしていた僧俗一体の布教伝道、社会教化、門下統合の拠点とするため「天晴会」を組織、佐藤鉄太郎海軍中将、小笠原長生子爵などの有力軍人、政治家、名士たちが名を連ねた。関連団体として、各地で頻発する労働争議に対応するための労働者・勤労者を中心とした「自慶会」や、共産主義、無政府主義に対抗するための政治運動拠点として「知法思国会」も組織し、幅広い分野での日蓮主義伝道活動に務めた。1922年(大正11年)、広く日蓮門下に呼びかけ宗祖・日蓮大聖人の「立正大師号追諡」を実現させる。以後日生は宗祖を一貫して「立正大師」と呼称し続けた。 ¥2,000

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成田ヒロシ / 何不自由のない街で南正人のデビュー時からの盟友であり、南の諸作で作詞やプロデュースにも関係していたあの「成田ヒロシ」です。その昔、放送禁止/発禁となった南の名作「赤い花」も成田作詞のもの。つげ義春の「紅い花」のイメージとも呼応して、まるで三上寛が歌いそうなこのうた・・・こんな鮮烈な詞を書く人でした。ここで取り上げるCD「何不自由のない街で」は、成田ヒロシの初アルバムで、いわゆるポエトリー・リーディングの作品です。私は、詩の朗読と言うと、Jesse Ed DavisがバックをつとめたJohn Trudellぐらいしか聴いたことはありませんでした。「何不自由のない街で」も正直言って、はたしていかなるものなのかあまり期待せずに恐る恐る聴いてみたところ・・・、余計な心配は一切無用でしたね。豊かな「うた」の世界が、鮮やかな光彩を放ちながら眼前に広がっていくさまは、実に感動的!バックは古田勘一(ギター)、笠井由紀子(ピアノ)の二人のみ。全8曲の作曲/編曲もこの2人がやってます。   1.ほんの少しだけ   2.きのう今日あした   3.歩いてみないか   4.今夜は眠れそうにない   5.何不自由のない街で   6.ダンボール箱   7.父さんのエレジー   8.合い鍵古田勘一も南正人つながりですね。初期の南バンドにおけるこの人の、まるで魂が沸騰したかのような、火を噴くスライド・ギターを私は愛してやみません!その後の30年間どのような活動をしてきたのかは知りませんが、思わぬところであい変らず達者なギターを聴くことができてうれしい限り。さすがにここでは火を噴くというわけにはいきませんが、ロバート・ジョンスン・スタイルのブルースナンバーはもちろんのこと、多くの曲で素晴らしいスライド・プレイを聴かせてくれます。これもまたこの作品の聴きどころです。ピアノの笠井由紀子という人は私は知りません。若手のジャズピアニストなのかな?リリカルな曲からブルースナンバーまで見事に弾き分けています。
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