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平戸焼絵譜
平戸焼繪譜
平戸焼絵譜 初版
長崎丸山花月記 山口雅生、山口雅生、清文堂出版 昭和43年初版
廓の娘 : 続・長崎丸山花月記 限定版
長崎の丸山花月日記
廓の娘 続・長崎丸山花月記
グローバル化経済の構図と矛盾
長崎丸山花月記
(正編)長崎丸山花月記 (続編)廓の娘 続・長崎丸山花月記 正続2冊
長崎丸山花月記・廓の娘(続・長崎丸山花月記)2冊揃
季刊 浮世絵 37 応挙めがね絵・長崎絵の春画 昭和44年夏月号
廓の娘 続・長崎丸山花日記
長崎丸山花月記/廓の娘 (続・長崎丸山花月記) 全2巻揃+特別付録(唐人紅毛人艶姿拾躰)付
長崎丸山花月記 丸山遊廓(長崎)*山口雅生(山口家十七世) 著者 花月十七世 山口雅生 署名入り 出版社 清文堂出版 解説 昭和43年初版 函なし 稿正本だったようで所々赤鉛筆でチェック後あります。丸山は、寛永末 - 1956年(昭和31年)の間に栄えた長崎の花街(遊女・芸者などの集まる街)。鎖国令によりオランダ商館と同様に寛永18年(1641年)、平戸の丸山から名称と共に移設された。寛永末頃の集娼制度設立により、寛永19年(1642年)に市中の遊女屋が全て丸山の地に集められたのが始まりである。外国人を対象とした遊郭としては当時唯一のものであり、丸山遊女のみが唐人屋敷や出島に出入りすることを許されていた[1]。後にその区域も整備され町名も太夫町から丸山町・寄合町に変更された。1956年の売春防止法公布により遊廓としての丸山は終焉した。その始めは文禄2年(1593年)、筑前博多の花街、柳町の若干の遊女を古町、桶屋町、今博多町に移住させたことである。その数は次第に増え、博多町、大井手町、紙屋町、古町、八幡町、伊勢町などに散在していたが、寛永19年(1642年)に丸山町、寄合町にひきまとめた。延宝版「長崎土産」には「丸山町遊女屋五十九軒遊女三百三十五人内太夫六十九人、寄合町遊女屋四十四軒遊女四百三十一人内太夫五十八人」とある。元禄ころの状況を伝えるケンペルの紀行には「長崎の丸山は京の嶋原以外では、他に見られぬ艶麗を表現している」とあり、花月楼の鶴の枕は、唐の玄宗皇帝の楊貴妃の遺物であると伝わり、遊女の服装が華やかだったことは、小唄「京の女郎に長崎衣裳、江戸の意気地にはればれと、大坂の揚屋で遊びたい」とあるほどで、井原西鶴の「日本永代蔵」には「長崎に丸山と云ふ所なくば、上方の金銭無事に帰宅すべし」とさえ評された。
山口雅生著、平戸焼研究会、1979.5
252p 27cm
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