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[VHS]マラドーナ全記録集 孤独、栄光、名誉、そして挫折●マラドーナ全記録集、孤独・栄光・名誉そして挫折。収録時間は約60分。品番:JSV1001919、税込定価3,800円。【内容一覧】収録内容:ユース時代からワールドカップの勝利に至るまでの記録/ワールドカップUSA94でのマラドーナ/ヒストリー
ハイテク・マンモス・ロコ EF200“スーパーライナー” [VHS]45分VHSテープ 発売日 : 1994年販売元 : アポロン EF200形式直流電気機関車。EF200は従来型に変わる次世代の新型機関車として開発された。電子技術を駆使し国内最大の牽引力を持つインバーター電気機関車。長期間の試作・性能試験を重ねた後、92年より東海道、山陽線の高速コンテナ列車で活動を開始。作品ではこの機関車車両の紹介、各地での走行風景はもとより、興味いっぱいの運転室での起動走行シーンなどを収録。加えて貨物ターミナルでの荷役作業風景や僚機として活躍するEF66、65、コンテナ貨車なども紹介。 運転整備重量100.8t 全長19400mm 定格出力6000kw/h定格牽引張力26600kgf最高速度120kw/h製造初年平成2年(量産車は4年)
『アニメドキュメント ミュンヘンへの道』台本6冊 出崎哲旧蔵出崎自身の多数書込。 1972年4月23日から8月20日、および特別編として同年9月24日に不二家の時間(TBS)で放送されたドキュメンタリーとアニメーションを一体化させた番組である。番組はバレーボール日本代表が、ミュンヘンオリンピック(1972年8月開幕)へ向けて取り組む様をチーム全体、あるいは選手個々のエピソードを交えて取り上げたもので、エピソード部分はアニメーション、また練習の模様などは実写映像を使って放送された。アニメ部分の監督を務めた吉川惣司は、日本代表監督の松平康隆がチームの知名度向上を目指して広告代理店経由でTBSに企画を持ち込んだもので、実写番組では視聴率を見込めないことから「アニメと組み合わせるしかない」という判断になったと証言している[1]。放送前の記事では、アマチュア選手を出演させると選手規定に抵触することから、アニメーションに実写を挿入する方式を採ったと紹介されている。1971年にタツノコプロ制作、日本テレビで放映した『アニメンタリー 決断』に次ぐ「アニメによるドキュメンタリー作品」であるが、『決断』が太平洋戦争を題材にした歴史ものだったのに対し、『ミュンヘンへの道』はオリンピックに関連した同時進行ドキュメントであった。日本代表チームが本当に金メダルを取れるのかという視聴者の興味を盛り上げながら、オリンピック前哨戦の試合と連動させることで、メディアミックスともいえる演出効果が見込まれた。通常放送の最終回は、オリンピックでのバレーボール競技が開始される1週間前で、オリンピックでの優勝決定後の9月24日に、優勝を記念する形で総集編的な「特別編」を放映している。スタッフ脚本:松岡清治、辻真先、伊東恒久、竹内泰之、吉原幸栄 他 作画監修:矢沢則夫(J・A・B)作画監督:谷口守泰、金沢比呂司 他 撮影:有吉英敏(ドキュメント部分)、吉田享司(アニメーション部分)監督:大隅正秋 アニメーション演出:吉川惣司 絵コンテ:出崎哲 連載
経世雑筆 安山實、昭17年増版 霞ヶ関書房 B6判279頁函なし
光自転車 東京都光会 大日本機械工業株式会社 90cm-70cm 布製バナー(のぼり旗)
ジュニア版・世界の冒険9 南極にいどむ 石川光男、集英社、昭和46年初版カバー
桐蔭同窓会名簿 第6号 平成9年・10年度 全700頁
学士会会員氏名録 平成13年・14年用(2001・2002) 解説 B5判1410頁厚冊 一般社団法人学士会、国立七大学(北大・東北大・東大・名大・京大・阪大・九大)の卒業生・学生・教員など、約5万人の会員からなる合同同窓団体。七大学の総長も会員で、各大学支部の支部長。旧帝国大学の流れを汲む大学の出身者によって構成されている学士会。その創立は、1886(明治19)年に遡る。この年は官立の旧東京大学が帝国大学令の公布を受けて改組され、「帝国大学」(後の東京帝国大学、現・東京大学)と名称を改めた年に当たる。以来、学士会は各地に創設された帝国大学と共に、その卒業生らを会員として130余年の歴史を歩む。学士会の誕生のきっかけであり、いまも底流で脈々と受け継がれてきているもの。それは、いわば謝恩の情です。まず、学士会の黎明期を語る上では、欠かすことのできない2人の「恩師」の存在があります。1人は加藤弘之・旧東京大学初代総理。そして、もう1人は、加藤氏の旧東京大学総理時代に補佐を務め、後に帝国大学総長となった濱尾新氏です。2人は偶然にも但馬(現・兵庫県豊岡市)の出身で、共に日本最初の総合大学の礎を築いた立役者ですが、学士会の草創に深く関わった人物でもあるのです。加藤氏は、江戸期の1860(万延元)年に東京大学の淵源である蕃書調所の教官となったのを始めとして、改称された開成所、東京開成学校などで教鞭を執り、東京開成学校(法・理・文の3学部)と東京医学校(医学部)が統合した旧東京大学の総理(当初は綜理)に就任しました。日本で初めて立憲思想を紹介した『鄰草』を著すなど、時流であった西洋の学術と研究を進めてきた一方で、国学や漢学の教師を養成するために文学部に古典講習科を設けるなど、幅広い視野でわが国近代の教育界を先導しました。その後に官・学界の多くの要職を担い、明治の総帥ともいわれる加藤氏でしたが、その人柄は良く、学生生活にもきめ細かい配慮を見せていました。統合当初、法・理・文の3学部と沿革の異なる医学部の孤立を解消するため、ボート部員に医学部の学生を積極的に勧誘させるなど、学生間の交流やスポーツの奨励にも心を砕きました。また、好きな哲学の話になると、学生と友達のように接して意見を交換したといわれています。