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さらす ストリップの世界  芸双書 3南博・永井啓夫・小沢昭一著  白水社発行 刊行年 1981年初版『ストリップ劇場めぐりの雑文を掲載していた時、私は、あるパーティで、久しぶりに会った若手の大学教授兼評論家から、おだやかに一発くらわされたことがあった。「小説現代のあれ、読みましたよ。あんなことは書かないほうがいいと思うなあ。それあ、僕だってストリップも見ますよ。だけどねえ、ストリップなんてものは、見たければ見てひとりで楽しんでおればいいのですよ。」そして彼は、どこそこの温泉へ行った時これこれこういうストリップを見たということを、いかにも低俗な口ぶりで話して、そのまま、さっさと他の友人の所へ行ってしまった。・・彼には私のその雑文が、いかにも低俗なものに見えたのであろう。・・私は私のその雑文を、低俗でないとは思っていない。低俗、結構ではないか。だが、その低俗は、彼が自分の見たストリップのことを話した時の、その低俗さとは違うものだ。私は、彼が彼の低俗を以て私の雑文を低俗と見たことが、いやだった。私はその雑文をなぜ書いたか。あえて理屈をひねり出していうならば、ほんとうは低俗なくせに低俗ではないようなふりをすることによって世を渡っていること(それはもちろん私自身を含めてのことである)に対する反撥や暴露の気持ちもないわけではなかったのである。』私も駒田信二氏が夢中になった世界に、一時期寝食を忘れて没頭応援しました。しかし、駒田氏がこの著書で言及した「低俗なくせに低俗ではないようなふりをすることによって世を渡っている輩」によって、理不尽にも劇場から排除されました。これら輩の応援信条は、表面上では低俗ではない固有の踊り子を強く応援しながら、裏の影に廻ってはその低俗さを痛感する離反的な悪しき二面性を持っています。そして、その社会的な認識の低俗さを悪用(個人的な嗜好行動を私の所属会社に暴露し社会的信用失墜を計る)して、私をその劇場から理不尽に排斥したのです。私の職業は、駒田信二氏のような著述業(組織にまったく縛られない自由な職業)ではなく普通の会社員です。だから、自分の信念だけに生きられるとても強い駒田信二氏のように、受けた迫害を撥ね付ける力がありません。

暢気堂書房

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