文字サイズ

  • 小
  • 中
  • 大

古書を探す

絶食と宿便 甲田光雄 絶食研究通巻第6号より抜刷 6ページ

暢気堂書房

¥2,000

  • 状態 中古品
  • 解説 1棚3段目2左側

クレジットカード使用可 銀行振込可 代引き可 公費可 海外発送不可

かごに入れる
気になる本に追加
印刷

店舗情報

店舗外観

〒203-0033
東京都東久留米市滝山6-2-14-103 
TEL:042-427-9144
FAX:--

308900206484
書籍商 暢気堂書房

新着書籍

図録 宮川香山 : 虫明焼と明治の陶芸 : 没後一〇〇年 福冨幸, 大山真季編 出版社 岡山県立美術館 2016年 ページ数 167 宮川香山(天保13年1月6日(1842年2月15日) - 大正5年(1916年)5月20日)明治時代の日本を代表する陶工。高浮彫、真葛焼(横浜焼)の創始者、帝室技芸員。2代目宮川香山・宮川半之助は養子。海外ではMakuzu Kozanとしても知られている。香山は天保13年(1842年)、京都の真葛ヶ原に陶工・真葛宮川長造の四男として生まれた。幼名は虎之助。19歳の時、父と兄が亡くなり陶工の家を継ぐと父が生前朝廷用の茶器を制作し「香山」の称号を受けていたため虎之助は初代香山の名を名乗り父の得意とした色絵陶器や磁器などを制作。その腕は評判を呼び慶応2年(1866年)、25歳の時、幕府から御所献納の品を依頼されるまでになった。明治3年(1870年)、29歳の時、薩摩の御用商人梅田半之助、実業家鈴木保兵衛らに招聘され翌年、横浜に輸出向けの陶磁器を作る工房・真葛窯を開いた。しかし、当時の関東地方には陶磁器を作る土がなく有名な工房があるのは京都や中国地方などに集中していたため、この地に工房を開くのはかなりの苦労を伴う事業だった。香山は当初欧米に流行していた薩摩焼を研究していくつもの作品を制作、この工房の作を「真葛焼」と名づけて輸出したが金を多量に使用する薩摩焼は制作費に多額の資金を必要とするため、香山は「高浮彫(たかうきぼり)」と呼ばれる新しい技法を生み出す。これは金で表面を盛り上げる薩摩焼の技法を、金のかわりに精密な彫刻を掘り込むことで表現したもので、薩摩焼の技法に変わる新 ¥2,000
CD かんからそんぐ 添田唖蝉坊・知道をうたう岡大介,小林寛明添田唖蝉坊(正字体表記では「添田啞蟬坊」1872年12月25日(明治5年11月25日) - 1944年(昭和19年)2月8日)は、明治・大正期に活躍した演歌師の草分け。「唖」と「蟬」が添田亜蝉坊と表記されることもある。本名・平吉、号は自らを「歌を歌う唖しの蝉」と称したところから由来。神奈川県の大磯の農家の出で、四男一女の三番目の子として生まれる。叔父が汽船の機関士をしていた関係で、海軍兵学校を志願して上京したが、受験勉強中に浅草の小屋掛芝居をのぞいたのがきっかけで、その世界にのめり込む。海軍兵学校には入学せず、汽船の船客ボーイになり、2年で挫折。以後、横須賀で土方人夫、石炭の積み込みなどの仕事に従事していたが、1890年(明治23年)、壮士節と出会う。当時は政府が廃藩置県、地租改正、学制、徴兵令、殖産興業などの政策を実行している最中で、自由民権運動も盛んな時代であり、「オッペケペ」で有名な川上音二郎らの壮士芝居も、この時代のものである。唖蝉坊は、最初の演歌といわれる「ダイナマイト節」を出した青年倶楽部からその歌本を取り寄せて売り歩いたが、のち政治的な興奮が冷めていくと、政治批判ではない純粋な演歌を目指して、自身が演歌の歌詞を書くようになる。唖蝉坊が最初に書いたといわれているものは、「壇ノ浦」(愉快節)、「白虎隊」(欣舞節)、「西洋熱」(愉快節)などで、1892年(明治25年)の作である。これ以降、「チョイトネ節(紫節)」、「まっくろけ節」、「ノンキ節」、「ゲンコツ節」、「チャクライ節」、「新法界節」、「新トンヤレ節」と続く。1930年(昭和5年)に「生活戦線異状あり」で引退するまでに182曲を残したという。 ¥1,500

おすすめの書籍

徳川慶喜家 最後の家令 古澤秀彌氏旧蔵資料受贈記念 出版社 松戸市戸定歴史館 刊行年 平成22 古澤秀彌氏旧蔵資料受贈記念 「徳川慶喜家 最後の家令」全160ページ 判型:A4 平成22年10月9日発行目次 ごあいさつ図版 カラー148点Chapter0 プロローグ 05 Chapter1 少年秀彌と徳川慶喜邸 12 Chapter2 徳川慶喜家の成立‐家令への歩み‐ 22 Chapter3 家令心得 古澤秀彌 36 Chapter4 徳川家での日々 49 Chapter5 エピローグ 公爵家の終焉と最後の仕事 61「徳川慶喜家 最後の家令」覚書 齊藤洋一 66 徳川慶喜家の家職と家政運営 小寺瑛広 69 近世から近代への移行と断絶-家政制度を中心として- 武子裕美 83 展示リスト 86参考資料古澤秀彌氏関係年表 91 徳川慶喜家系図 94古澤秀彌氏旧蔵資料目録 1.文書 97 2.写真 101 3.美術工芸他 110サムネイル(縮小表示画像) 寄贈資料のうち、カラー図版で載せていないモノクロ図版206点を掲載 1.文書 114 2.写真 116 3.美術工芸他 124徳川慶朝氏所蔵アルバム 徳川慶喜家当主徳川慶朝氏所蔵写真のうち、徳川慶喜の肖像写真32点、徳川慶喜の撮影写真46点、徳川慶喜の撮影写真49点を掲載 TY1.徳川慶喜肖像写真アルバム 127 TY2.徳川慶喜撮影写真アルバム 133 TY3.徳川慶喜撮影写真アルバム 140 史料翻刻 160
¥2,500
新編心理 : 付・論理及倫理一般 明治32年初版山田禎三郎 著出版社:集英堂234p 23cm カバーなし 所々線引きあります。山田 禎三郎(1871年4月22日(明治4年3月3日) - 1930年(昭和5年)10月6日)は、日本の教育者、実業家、衆議院議員。信濃国諏訪郡東堀村(現長野県岡谷市)に生まれる。1894年東京高等師範学校を卒業後、郡立諏訪実科中学(長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)に勤め、千葉県師範学校に赴任。その後、 同郷の渡辺千秋京都府知事の縁故で京都府視学に登用されたが辞任し、1899年茨城県師範学校の校長となった。1900年教職を去り、千葉新聞の記者となる。その後は実業界に転じ、書肆普及会会長、帝国書籍取締役に就任。1902年の教科書疑獄事件では事件発覚のきっかけを作った人物となったが、当人は直前にヨーロッパの教科書事情調査として渡英しており、逮捕は免れたものの留守宅が家宅捜索を受けた。また政界に進出し、1902年の第7回衆議院議員総選挙に長野市選挙区から出馬し落選、1912年の第11回衆議院議員総選挙に同県郡部選挙区から当選を果たす。しかし事業の失敗により1年足らずで辞職し、株券の偽造により投獄された。1907年に中ノ鳥島を発見し、上陸の後、測量までしたとされるが、その後誰1人としてこの島を発見する事は出来なかった。
¥15,000

書籍の購入について

支払方法等:

商品と一緒に同封する郵便振替用紙で1週間以内にお支払いください。(公費購入の場合は後払いのご相談に応じます。)

商品引渡し方法:

ゆうメール・ゆうパケット・レターパック・ゆうパック

返品について:

当方の不備による場合のみ承ります。

他特記事項:

-

書籍の買い取りについて

古本・骨董品の出張買取のお申込み・ご予約は、お電話・またはメールにて承っております。 お気軽にお問合わせください。
出張費は無料です。旧家、蔵のあるお宅、昭和40年以前の古いお宅の買取は、遠方でも大歓迎です。