JavaScript を有効にしてご利用下さい.
文字サイズ
古書を探す
2点 原水爆禁止世界大会 1976年広島 討議資料 第22回(ノーモア・ヒロシマ・ナガサキの大義は人類の大義である)核兵器完全禁止・使用禁止 話しあいのために 全48頁 原水爆禁止日本協議会。第22回原水爆禁止世界大会報告書 ヒロシマ・ナガサキの声を全世界に 杉並原水協のあゆみ 1976年 原水爆禁止杉並協議会 全42頁。
シナリオ 若者の旗(「若者たち」)/山内久】映画「若者たち」全国上映委員会/昭和45年 山内久映画「若者たち」全国上映委員会・発行/’70年 「若者たち」「若者はゆく -続若者たち-」に続く第三作。脚本、監督、撮影も前作と同じく、山内久、森川時久、宮島義勇がそれぞれ担当。佐藤家の五人兄弟はそれぞれにさまざまな問題をかかえて生きていた。三郎は高等学校の教師をしていたが、校長と意見が合わずやめてしまい、今は昼間、出版社で働き、夜は夜間中学で教べんをとっていた。社会の底辺に置かれ少年たちも、それぞれの悪環境と戦いながら勉学に励んでいた。その中の一人、努少年は蒸発した父の借金返しに町工場でタダ働き同様に毎日を送っていた。オリエは恋人と信じていた戸坂の病気を見舞ったが、そこで将来結婚を約束したという西田和子を紹介され、がく然となった。戸坂は佐藤家を訪ねて自分の置かれている切実な状況を打ち明け、太郎や三郎に許しを乞うた。オリエは悲しみにたえ、動揺する戸坂にいつまでも平和運動を続けようと励ました。末吉は、今では会社内でも指折りの自動車セールスマンとして活躍し、所長の姪みわと恋愛中だった。独立してみわとの結婚も真剣に考え末吉の稼ぎっぷりは、ますます猛烈になっていった。同僚を裏切っても良心に恥じることさえ忘れた。そんな末吉を見て、みわは「あなたという機械の部品にされるのはいやだ」といって去ってしまいそれからの末吉の行動はますます荒み、太郎や三郎との衝突も激しさを増していった。一方、次郎は町子と口論を続けながらも桃太郎という愛児をもうけ、その生活ぶりはまずまず順調だった。末吉は三郎の激しい説得にようやく自分の「金とセックスとバクチのために生きている」という生き方に疑問を感じ始め、次郎と町子の子供、桃太郎を見たとき自分の内に芽ばえてくる新しい生命力を感じ、今までの生活を考え直して、一から出なおす決心をした。
3点 目撃者の証言 袴田問題の真実 全55頁 1978年発行 日本共産党中央委員会出版部。袴田除名の前とあと 日本共産党中央委員会幹部会委員長 宮本顕治 全64頁 1978年発行 日本共産党中央委員会出版部。袴田手記「週刊新潮」総批判 真実は一つもない 時間と空間を超えた虚言と妄想 日本共産党中央委員会出版部 全48頁 1978年発行
ボンカレー袖付両面ホーロー看板 琺瑯看板松山容子 大塚食品 マニア垂涎の的になったホーロー看板そこで、販売店を相手に試食会を実施して直接ボンカレーを食べていただき、お店に置いてもらうように盛んに働きかけ、20人ほどいた営業マンがライトバンや自転車で朝から晩まで50軒、60軒の小売店を回りました。さらに、宣伝用に女優の松山容子さんがボンカレーをもったホーロー看板を製作し、1日15枚のノルマで営業に成功した店に貼っていったのです。なんとホーロー看板は全国で9万5千枚も取り付けられました。そうした営業マンの努力の甲斐もあり、ボンカレーは次第に売上を伸ばし、1973年には年間販売数量1億食を達成したのです
オリエンタルカレー オリエンタルマースカレー 琺瑯看板 60cm-45cm
高橋兵治郎 木地山系 秋田川連村七十六才作 八寸 約24cm秋田県川連村久保の木地業高橋徳左衛門の二男。
田螺骨董店 自筆挿絵原稿 香山滋作 今村恒美画 全3点揃 探偵小説宝石 昭和28年 宝石編集者旧蔵品 肉筆原稿
田中芳谷 昭和二十年八月十七日 終戦2日後のガリ版刷り 教辞 大東亜戦争終結ノ聖詔シ・・・ 田中智学子息