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社団法人東京都食品衛生協会 三十年史 東京都食品衛生協会編、昭和54年 B5 388P 箱入

暢気堂書房

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青い目の人形交流展 ―お帰りなさい答礼人形【図録】 武田英子・さいとうみのる:監修 出版社 国際文化協会・朝日新聞社・そごう美術館 刊行年 昭和63 解説 A四 80頁 人形師 初代岩松松乾斉作 秀徳作 二代目平田郷陽作 滝沢光竜斉作 ほか  1920年代、アメリカでは反日感情が高まりをみせており、日本人移民を排斥する「新移民法」が可決された。そのような状況を憂慮した親日家の宗教教育者・ギューリック博士は、「人形」を通じて日米親善をはかろうと考え、親交の深かった渋沢栄一に協力を求めた。その試みは1927年(昭和2年)に実を結び、アメリカから約12,000体の「青い目の人形」が贈られ、その返礼として、日本の子どもたちの献金によって約60体の「答礼人形」が海を渡った。日米開戦によって、敵国からの「贈り物」として多くが廃棄処分を受けたが、捨てるに忍びないと密かに保存された人形たちが戦火をくぐり抜け、1980年代時点で「青い目の人形」216体、「答礼人形」25体が健在であることが確認されている。本書は、19体の「答礼人形」が里帰りし、日本に現存する「青い目の人形」を加え、1988年に日本全国で開かれた展覧会の図録。それぞれの人形にのこる傷あとや汚れから、戦争がもたらす不条理がうかがえ、胸をつかれる。--------------------------千葉の館山小学校の教師だった冨田文枝さんは、つぎのように話していました。「校長先生が私に、『人形を焼却するよう通達がきているけれど、あなたに預けます。くれぐれも憲兵に見つからないように』といわれました。私は必死で押入れに隠しました」(「戦時下の『青い目の人形』」より)□publisher:国際文化協会・朝日新聞・そごう美術館□date of issue:1988年□size:14.8x10.5cm□page:80 ¥5,000

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さらす ストリップの世界  芸双書 3南博・永井啓夫・小沢昭一著  白水社発行 刊行年 1981年初版『ストリップ劇場めぐりの雑文を掲載していた時、私は、あるパーティで、久しぶりに会った若手の大学教授兼評論家から、おだやかに一発くらわされたことがあった。「小説現代のあれ、読みましたよ。あんなことは書かないほうがいいと思うなあ。それあ、僕だってストリップも見ますよ。だけどねえ、ストリップなんてものは、見たければ見てひとりで楽しんでおればいいのですよ。」そして彼は、どこそこの温泉へ行った時これこれこういうストリップを見たということを、いかにも低俗な口ぶりで話して、そのまま、さっさと他の友人の所へ行ってしまった。・・彼には私のその雑文が、いかにも低俗なものに見えたのであろう。・・私は私のその雑文を、低俗でないとは思っていない。低俗、結構ではないか。だが、その低俗は、彼が自分の見たストリップのことを話した時の、その低俗さとは違うものだ。私は、彼が彼の低俗を以て私の雑文を低俗と見たことが、いやだった。私はその雑文をなぜ書いたか。あえて理屈をひねり出していうならば、ほんとうは低俗なくせに低俗ではないようなふりをすることによって世を渡っていること(それはもちろん私自身を含めてのことである)に対する反撥や暴露の気持ちもないわけではなかったのである。』私も駒田信二氏が夢中になった世界に、一時期寝食を忘れて没頭応援しました。しかし、駒田氏がこの著書で言及した「低俗なくせに低俗ではないようなふりをすることによって世を渡っている輩」によって、理不尽にも劇場から排除されました。これら輩の応援信条は、表面上では低俗ではない固有の踊り子を強く応援しながら、裏の影に廻ってはその低俗さを痛感する離反的な悪しき二面性を持っています。そして、その社会的な認識の低俗さを悪用(個人的な嗜好行動を私の所属会社に暴露し社会的信用失墜を計る)して、私をその劇場から理不尽に排斥したのです。私の職業は、駒田信二氏のような著述業(組織にまったく縛られない自由な職業)ではなく普通の会社員です。だから、自分の信念だけに生きられるとても強い駒田信二氏のように、受けた迫害を撥ね付ける力がありません。
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林子平傳 日本国防の先覚者 著者 松原晃 出版社 奥川書房 刊行年 昭17年初版 林子平(はやし しへい)元文3年6月21日(1738年8月6日) - 寛政5年6月21日(1793年7月28日))は、江戸時代後期の経世論家。諱は友直。のちに六無斎主人と号した。高山彦九郎・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の一人(「奇」は「優れた」という意味)。元文3年(1738年)、幕臣岡村良通の次男として江戸に生まれる。父の岡村良通は御書物奉行(620石)として仕えていたが、子平が3歳の頃、故あって浪人の身となり、家族を弟の林従吾(林道明)に預け諸国放浪の旅に出た。子平らは、大名家に往診にも行く開業医であった叔父の従吾のもとで養われる。まもなく、長姉と次姉は仙台藩の江戸屋敷に奉公するようになり、仙台藩5代藩主伊達吉村の侍女として仕えた。次姉のなお(きよ)はその容姿と心ばえが吉村に愛され、やがて6代藩主となる宗村の側室に抜擢され、お清の方と呼ばれるようになった。お清の方は1男1女をもうけた。男子はのちに三河国刈谷藩主土井利信の養嗣子となる土井利置、女子は出雲松江藩主松平治郷の正妻となる方子(青楽院)である。お清の方の縁で、養父の従吾は仙台藩の禄を受けるようになった。従吾の没後、子平の兄の林友諒が封を継ぎ、宝暦6年(1756年)に正式に仙台藩士として150石が下された。同年5月に宗村が死去すると、友諒は家族を引き連れ、仙台川内に移住した。子平は部屋住みの身で妻子は持たなかったが、仙台藩士として生活するようになった。子平はみずからの教育政策や経済政策を藩上層部に進言するが聞き入れられず、禄を返上して藩医であった兄友諒の部屋住みとなり、北は松前から南は長崎まで全国を行脚する。長崎や江戸で学び、大槻玄沢、宇田川玄随、桂川甫周、工藤平助らと交友する。ロシアの脅威を説き、『三国通覧図説』『海国兵談』などの著作を著し、「およそ日本橋よりして欧羅巴に至る、その間一水路のみ」と喝破して、当時の人びとを驚かせた。『海国兵談』の序を書いたのは、仙台藩医工藤平助であった。また『富国策』では藩の家老佐藤伊賀にあて藩政について説いたが、採用はされなかった。
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