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セックスドキュメント モーテルの女王 ポスター72.5cm-26cm1973年5月12日公開、64分監督、構成 高桑信 ナレーション 小島三児 ナレーション 城恵美ナレーション 早乙女りえ今や、ソープランドと並ぶ二大セックス産業のひとつになったモーテル。この、日本で独特な形態で発展した各地のモーテルや部屋の装置を紹介するドキュメント。監督は「麻薬売春Gメン 恐怖の肉地獄」の高桑信、撮影は「やくざと抗争」の稲田喜一がそれぞれ担当。ストーリー湖畔に一台の車が止まっている。中ではカー・セックスの最中。やがて、この車は近くのモーテルへと吸いこまれていく。カメラは一転。日本一といわれる目黒エンペラーへ。一泊二万二千円の超豪華王朝風御殿の間、ラスベガスの味が楽しめるルーレットの間、SMムードの間、ビデオ・コーダーの間などなど、セックスの快楽の極致を楽しむための仕掛けがずらりと揃っている。モーテルは、はじめアメリカで車の旅行者のために生まれた。それが日本に導入されると、マイカーの増加とともに、温泉マークに簡便さとデラックスムードを加えたものとして異常に発達した。カメラは、アメリカのモーテル、日本の温泉マークの旅館を追い、再びゴージャスなモーテル内部へ戻る。そこでは、銀座のホステスと重役タイプの男、OLとその上役らしき男などの情事が繰りひろげられている。昼。昼の利用者も夜に決して劣らない。休憩時間を、フルに利用する人たち。会社の昼休みに、あわただしく肌を求めあうサラリーマンと恋人、家庭をぬけ出して開放感から獣のようにからみつづける人妻と恋人……。カメラは東京を出て、国道沿いに林立しているモーテルを写す。インター・チェンジのあるモーテル内。趣向をこらした多種多様の部屋。その中で、家庭教師と女生徒、新婚夫婦、レスビアン、男一人に女二人、サド・マゾなど目もくらむばかりの色彩の中で、スクリーンに展開されていく……。
曾我量深講義集 第十四巻 「仏陀のさとり」 彌生書房 昭63年初版函付き 曽我量深(1875年(明治8年)9月5日 - 1971年(昭和46年)6月20日)、1875年9月5日、新潟県西蒲原郡味方村(現、新潟市南区味方)円徳寺に、富岡量導の三男として生まれる。1897年、新潟県南蒲原郡新潟村大字指出(現、見附市)の浄恩寺に入寺、曽我恵南の養子となり曽我姓となる。1899年、真宗大学(現、大谷大学)本科を卒業。1901年、真宗大学が東京府北豊島郡巣鴨村宮仲(現、東京都豊島区上池袋一丁目・宮仲公園付近)へ移転・開校するにともない、東京に移住する。初代学監(学長)には、清沢満之が就任する(~1902年)。1903年3月、清沢満之が近角常観の留守宅にて主宰した私塾浩々洞に加入する。同年6月6日、清沢満之示寂。1904年7月、真宗大学研究院を卒業し、同年9月に同大学の教授に就任する。1911年、真宗大学を京都に戻し、高倉大学寮と合併し、真宗大谷大学と改称することが決定する。(1913年、移転。)同年9月、同大学の京都移転に反対して辞任し、10月には郷里新潟に帰り研鑽を続けつつ、同郷の金子大栄と親交を深める。1916年、金子大栄のあとを受けて、清沢満之が創刊した雑誌『精神界』の編集責任者として再び東京へ移住する。同年9月、東洋大学教授に就任する。1924年3月、東洋大学教授を辞任し、同年10月、再び郷里新潟に帰る。1925年4月、大谷大学教授に再任、京都に移住する。1926年、「如来表現の範疇としての三心観」を講義する。『無量寿経』に説かれる法蔵菩薩と、唯識思想の阿頼耶識(第8識)とは本質的に同じであり、「本願の三心(至心・信楽・欲生)」と、「阿頼耶識の三相(自相・因相・果相)」とは同じものであると主張する。1927年、講義録『如来表現の範疇としての三心観』を著す。1930年3月、『如来表現の範疇としての三心観』における主張が、異安心とされ問題となり、事実上追放の形で、同大学教授を辞任する。(しかし、その後も自説を堅持する。)同年9月、金子大栄らと共に左京区鹿ケ谷に興法学園を開設する。同学園にて、研鑽と講義を継続し、多くの論文を発表する。1941年8月、真宗大谷派の最高の学階である「講師」に任ぜられる。同年11月、大谷大学教授に復職する。
曾我量深講義集 第十三巻 「正信の道」出版社 彌生書房 刊行年 昭62 函付き 曽我 量深(1875年(明治8年)9月5日 - 1971年(昭和46年)6月20日)は、日本の明治~昭和期に活躍した真宗大谷派僧侶、仏教思想家。真宗大谷派講師、大谷大学学長、同大学名誉教授。旧姓、富岡。法名、「無極院釋量深」。伝統的な解釈のもとに継承されてきた仏教・真宗の教学・信仰を、幅広い視野と深い信念とによって受け止め直し、近代思想界・信仰界に開放した功績は顕著で、近代仏教思想史の展開上、大きな足跡を残した。
古写真研究こぼれ話 七古写真研究こぼれ話 七―真実を求めて― フェイスブック版 限定100部 2024年初版 高橋信一著目次631. 長崎大学の「蒔絵写真」のアルバム(1)(令和3年12月18日) 632. ハーバード大学の古写真コレクション(1)(令和4年1月8日) 633. 私の本の出版と幕末史研究会での講演(令和4年1月15日)634. 日本カメラ博物館の古写真の展示会(令和4年1月22日)635. ハーバード大学の古写真コレクション(2)(令和4年1月29日) 636. ハーバード大学の古写真コレクション(3)(令和4年2月12日) 637. 「フルベッキ写真」について(6)(令和4年2月26日)638. フェイスブック10年の節目に当って(令和4年3月12日)639. 京都の風景写真(1)(令和4年3月26日)640. アマチュア写真家が作ったアルバム(令和4年4月9日)641. 慶應義塾大学の「蒔絵」のアルバム(4)(令和4年4月23日)642. 京都の風景写真(2)(令和4年5月7日)643. 京都の風景写真(3)(令和4年5月21日)644. 「フルベッキ写真」について(7)(令和4年6月4日)645. 京都の風景写真(4)(令和4年6月18日)646. 京都の風景写真(5)(令和4年7月2日)647. スミソニアンの古写真アルバム(8)(令和4年7月16日)648. 夏休みにします(令和4年7月23日)649. 日本カメラ博物館の展示会(令和4年8月27日)650. 「小樽堺町の奇岩」の写真について(1)(令和4年9月3日)651. 「フルベッキ写真」について(8)(令和4年9月10日) 661. 冬休みにします(令和4年12月17日) 662. 唐人お吉の偽写真(4)(令和5年1月7日) 663. 唐人お吉の偽写真(5)(令和5年1月14日)664. イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(1)(令和5年1月21日)665. 日本カメラ博物館の展示会とトークショー(令和5年1月28日)666. フランツ・スティルフリードのアルバム(1)(令和5年2月4日)667. チャールズ・ウィードの写真(2)(5年2月11日)668. 横浜開港資料館のスティルフリードのアルバム(1)
アメリカ現代版画と写真展 ジョナス・メカスと26人の仲間たち B1ポスター 1983年 原美術館(デザイン:佐藤雅彦)
コーヒー産地事情 帝国飲食料新聞社 昭和51年初版 全175頁
古梅園墨談 全著者 松井貞太郎編 出版社 古梅園本店 刊行年 昭4年 解説 和綴 24頁 四六判(B6判) 「製墨の古梅園」 古梅園は天正5年(1577)、奈良の松井道珍が創業した製墨の老舗。代々、皇室や幕府の御用墨所を勤め、「紅花墨」「神仙墨」などの製墨で知られた。日本橋の古梅園(店主、芹川ふみ)は、奈良古梅園の東京支店であった。「日本橋通一丁目の古梅園は製墨の老舗にして東京の名物也」と記載あり。「古梅園」と記された製墨の絵と、「御用 御墨所 古梅園製墨 官工 南都松井和泉掾㊞」と記された商標が書き写されている。— 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「製墨の古梅園」より抜粋。「墨」という名は「染み」からなまり伝えられたものといわれています。我が国へは推古天皇の18年(西暦610年)高句麗の僧曇徴が製墨法を伝えたといわれています。墨はその後朝廷や寺院においてつくられるようになり、時代を経て室町末期に市井の造墨家として古梅園が創業致しました。製墨法が最も発展した江戸時代、古梅園は幕府の許可を得ながら、中国の造墨家との交流、研究を重ねより一層品質の良い墨をつくるようになり、その技は今も引き継がれている。400余年の間に培った伝統の技を守りながら、墨業一筋に。創業1577年 古梅園
1970年 アメリカの詩と哀愁 現代具象絵画の鬼才 ベン・シャーン展 ポスター 東京国立近代美術館 BEN SHAHN 原弘デザイン 102×73cm