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討論 群馬・埼玉の埴輪著者 金井塚 良一, 梅沢 重昭, 増田 逸朗, 石塚 久則, 若松 良一, 熊倉 浩靖 昭和62年初版カバー 企画編集株CAD計画研究所 出版社 あさを社 全335頁
価値紊乱者の光栄 石原慎太郎著 出版社 凡書房 刊行年 昭和33年初版カバー
軽犯罪法めい規法の解説と実務 警視庁警ら課 昭和55年8月 全215頁 非売品
地域警察官のための事件処理の手引き(捜査・交通編)警視庁地域部 平成13年改訂 全302頁
方正學文粹 全六巻 合本 刊行年 文政巳丑新刋 浪華/郡玉堂 蔵印
POCKETガーリー 1971年3月号 オルガスムスを呼ぶ口吻の愛オーラリズム ピンク・スター・アイドル4 辺見マリ+ちあき=茜みさを 特別読切小説 鞭と愛 北村鱒夫作 由谷敏明画 夢と現実 新高校生ブルース 関根恵子 夜の最前線・東京秘地帯 相川圭子 続いそぎんちゃく 渥美マリ ほか 辰巳出版
帝都高速度交通営団史 東京地下鉄株式会社 刊行年 平16 ページ数 633頁函付き サイズ B5日中戦争中に、国家による統制管理のために設置された経営財団、いわゆる「営団」の一つである。「帝都」とは大日本帝国の首都、すなわち東京のこと、「高速度」とは新幹線のような高速鉄道の意味ではなく、かつて市内交通の主役であった路面電車に対して「高速」である『都市高速鉄道』の意味である。英語表記は “Teito Rapid Transit Authority” で、 “TRTA” という略称もあった。東京地下鉄道と東京高速鉄道によって行われていた東京市の地下鉄建設・運営事業を統合し、一元的に東京の地下鉄を建設・経営する公共企業体として発足した。元々は1930年代の不況の中、他の交通機関と競争を続け経営難に陥っていた交通事業者を統合して救済する「交通調整」を目的に設立が検討され(この理念を体現したのがのちの陸上交通事業調整法である。当時このような交通事業の再編は、自動車の急増を背景としてロンドンやベルリンで既に行われており、世界的なトレンドであった)、地下鉄のみならず東京近郊のすべての鉄道とバス事業を担う巨大交通事業者となることが期待された。ところが1937年に日中戦争が開戦すると一転好景気となり、それに伴う輸送量の急増により「交通調整」の前提が崩れた。そこで計画が見直され、地下鉄の整備を新設の特殊法人(交通営団)が担い、路面電車やバスなどは東京市が管理するという体制となった。第二次世界大戦後、日本を占領した連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の指令により、帝都高速度交通営団を除く営団は解散もしくは公団へ移行した。当営団についてもGHQは当初、戦時体制下の非民主的組織であるとして廃止を検討し、地下鉄運営の主導権を戦前より狙っていた東京都がこれを強く支持した。しかし、当時の東京都に地下鉄運営の実績がなかったことと、「交通営団は戦争目的の統合ではなく、当時世界的なトレンドであった交通事業再編の議論の一環で設立された組織」であるとする国と当営団の主張がGHQに受け入れられたためにそのまま維持され、旧憲法下の「帝都」を名称に含む組織は新体制移行後60年近くという長期に亘って存続した。その間、東京都の直営による地下鉄事業開始(1960年)や国鉄分割民営化
洋燈 深沢幸雄 [限定版]藤川清撮影 ; 加藤孝次,由水常雄著 出版社 冬樹社 刊行年 昭和52年 ページ数 129頁 サイズ 21×30×3㎝ 灯火用ガラス、とりわけランプの油壷とホヤの製造は明治のガラス工業をささえる主要分野であった。石油ランプは明治前期に急速に普及し生活の必需品となっていった。 中でも座敷ランプは、行灯や燭台のスタイルを取り入れ和洋折衷の魅力に富んでいる。また材質も鋳鉄製、朱塗り、安価なブリキ製など多様である。舶来品に匹敵するランプの制作は、明治中期以降で畳や障子に似合う日本的たおやかさを身につけた作例が生まれた。 座敷ランプは、渋みとガラスの優雅さが不思議な調和をたもつ小世界を作り出す和ガラスの代表といえます。笠や油壷にガラスの加飾の粋が凝らされた卓上に置くランプ卓上に置く石油ランプ(灯油ランプ)を総称して「台ランプ」と呼びます。その中でも平芯で笠をかけない四つ爪で丸ホヤを支えたランプを「置きランブ」とし二分四つ手・五分四つ手とも呼び、巻芯のアルガン燈で円筒形の竹ホヤを冠せて笠のかかったものを「台ランプ」と区分します。笠や油壷にガラス加飾の粋が凝らされた華麗な作例が多い。座敷生活が一般的だった明治期には、紫檀や花凛、それを模した材質のランプ台が用意されることもあった。 豆ランプ。小型のランプは、仏壇、神棚、台所、風呂場、便所などに運ばれて手元を照らす明かりにされました。豆ランプ、手ランプ、吊りランプは巻き芯を用いる。大正4年の佐々木硝子店のカタログには同様の豆ランプは「豆押台」と掲載されている。
〈怪奇と幻想〉草月シネマテーク会員例会一周年記念出版社 草月アートセンター 刊行年 1967年6月13日 サイズ 21×21㎝表紙デザイン:和田誠 文:ミシェル・ラクロ/石上三登志/佐藤重臣/飯島耕一 西江孝之
健全牛乳キャップ 10点 千葉 健全牛乳工場
天河流動縁起 祜松泰成 著 出版社 コスモ・テン・パブリケーション 刊行年 平成5年初版カバー ページ数 285p サイズ 19cm カバー (綴じこみ附録無)マンダラの本質を観得する目的で書かれた。読み進むごとに、各人の修養の軌道修正を行い、最終的には修養者自身が、二次元に描かれたマンダラを肉体上で三次元化して、マンダラの本質を体得する構成となっている。
コレヒドール最後の日 ウノ・カズマロ著 初版 成徳書院 昭和19年 B6判181p目次コレヒドール最後の日無条件降伏か否かコレヒドール最後の夜コレヒドール肉弾挺身隊長の話白日下の鋼鉄要塞捕虜の身許を洗ふコレヒドール・トンネル海軍は何もしなかつた捕虜と戦争目的屋根裏に瞬く星俺達捕虜はどうなるトンネル病院の女達重傷患者たち捕虜の行方アメリカ兵気質コレヒドールの子供
庄野真代 DOMESTIC MAYO LINE 1980 コンサートパンフレット
時間論の諸パラダイム <別冊数理科学>数理科学編集部企画出版社:サイエンス社発売日:2004.10192p 26cm
昼田とハッコウ 山崎 ナオコーラ 非売品 2013年刊行予定 校了前の非売品
富士文化資料一班 昭和8年の持主書込
群馬県第五回通常会議日誌第七号 43頁
山岳の韻律 羽仁春(羽仁春太郎)、遺稿刊行会、昭9
神の立琴 ジエー・エフ・ルサフォード 訳者明石順三 発行者 ジエー・エフ・ルサフォード 印刷者 ジエー・エフ・ルサフォード発行所 萬国聖書研究団 印刷所 萬国聖書研究団印刷部 1925年発行
秋月目鏡橋物語 山口祐造 秋月郷土館 1979
現代文の総整理 : スピード完成著者名:永山勇 出版社:洛陽社発売日:昭和43年改定182p 21cm
死亡広告物語 真杉高之、昭和59年
億万のかがやく太陽 財部鳥子/穆広菊 編訳、書肆山田、1988年初版帯付
杭州綺譚 京本通俗小説 学生文庫 村松 暎:訳、酣燈社、昭和26年経年しみあります。丸尾長顕宛著者手紙と署名入り
霧の中の真実 佐川一政 鹿砦社
(映画チラシ)並木座ウイークリー No.23 1954年〜1989年-銀座 並木座-(東京)138部
福煦元帥及其戰法 張柏亭編著 中華民国四十六年初版発行 武學書局
大阪優良品協会名鑑 大阪優良品協会/編 大阪優良品協会
憲法と安保体制 京都憲法会議常任幹事 天野和男・編 出版社 法律文化社 刊行年 1969年重版天野和夫(1923年6月15日 - 2000年3月23日)日本の法学者。立命館大学名誉教授。学校法人立命館総長・立命館大学学長。父はタイムレコーダーなどの発明家でアマノ創業者の天野修一。東京都出身。
明日の国立に向かって 移りゆく時代のなかでの創意と工夫の記録 平成5年 国立市谷保第一土地区画整理組合 発行 全113頁
戯画と戯詩 限定800部 函帯付著者 中村真一郎 出版社 清春白樺美術館 刊行年 1997
光の魂たち 山岳編序章 人の御魂を磨く聖なる山々 森井 啓二 著 きれい・ねっと(2022/09発売)神来(しんらい)第1章 登山とは何か?・自然の中に入ることの大切さ・山に入る登山・山選び・単独行・山のエネルギーと同調する・日本人と自然界の声・聴こえない音を聴くこと・山の規則、人の規則第2章 山から学ぶ山岳修験道・山で感じる言葉を超えた体験・山岳修験道・熏習と香光荘厳の世界・抖擻・山という字・山伏・修験道の宗教性・自然界と調和する時代の到来第3章 五大元素の習得・五大元素とは何か・頭中心の生き方から離れる・五大元素の習得方法・地のワーク・水のワーク・火のワーク・風のワーク・空のワーク・自然界とのつながりを取り戻す・五大元素を体験する真の目的・霊的な能力について第4章 美しい世界の創造に向けて・山後に続く波動の影響・自然界のリズムに合わせる・古代から受け継がれる和の心・分離から統合、そして超越へあとがき
ダイヤモンドとひきがえる 他二編(復刻世界の絵本館オズボーン・コレクション)出版社 ほるぷ出版 ページ数 3冊 サイズ 10.5×6.5/10×6/10×7cm ・本の形態 :豆小冊子3冊(英語・外函、カバー付き) ・本のサイズ :10.5×6.5/10×6/10×7cm
原色中国切手図鑑1978年版 ”Chinese Stamp Catalog Illustrated in Colours“ 著者 みずはらめいそう編 出版社 日本郵趣協会 刊行年 1977年 72頁
Noel Gallagher's High Flying Birds / Chasing Hearts (2CDR)盤質良好 ケースイタミ ノエル・ギャラガーズ・ハイ・フライング・バーズ
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1,2番/アキコ・マイヤース(vn)ヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調作品19ヴァイオリン協奏曲第2番ト短調作品63アン・アキコ・マイヤース(ヴァイオリン)ドミトリー・キタエンコ指揮フランクフルト放送交響楽団1995年録音国内盤、帯なしアン・アキコ・マイヤース(Anne Akiko Meyers )、アメリカのヴァイオリニスト。ドイツ系アメリカ人でセロ・コーゾ・コミュニティ大学の学長であり、後にオレゴン州立大学の学長となる父リチャード・スチュアート・マイヤースと、日本人画家である母ヤスコ・カマタ・マイヤースの間に、サンディエゴで生まれる。4歳からスズキ・メソードでヴァイオリンを始め、1981年、11歳の時にロサンジェルス・フィルハーモニックと初協演し、「ザ・トゥナイト・ショー」に2度出演した。1982年、12歳の時にズービン・メータ指揮のニューヨーク・フィルハーモニックと初協演。1983年、インディアナ大学ジェイコブズ音楽院でジョーゼフ・ギンゴールドに師事。1984年、ジュリアード音楽院で全額奨学金を受け、川崎雅夫、ドロシー・ディレイ、フェリックス・ガリミアに師事した。以後、ソリスト、室内楽奏者、レコーディングアーティスト、教育者等として世界中で演奏活動を行う。
CD Luar Na Lubre Saudade ルアル・ナ・ルブレ13曲収録1 Desterro 2 Olla meu irmau 3 Cantiga do Neno da Tenda (con Adriana Varela) 4 Danza dos esqueletes 5 Domingo Ferreiro (con Lila Downs) 6 Mina Nai 7 Pandeirada do Che (Farruco Sesto) 8 Lonxe da terrina 9 Nova Galicia 10 Teu nome, Amarante (con Cida Airam) 11 Galego guajiro 12 Saudade 13 Tu gitana (con Pablo Milanes) ルアル・ナ・ルブレ(Luar na Lubre)は、スペイン北西部、スペイン・ケルトの地として知られるガリシア州を代表する音楽グループ。「luar」とはガリシア語で「月の光」を、「lubre」とはドルイド僧が呪術を行った「魔法の森」を意味する。1992年よりマイク・オールドフィールドと親交を深め、オールドフィールドのアルバム『ヴォイジャー』(1996年)ではルアル・ナ・ルブレが1988年に発表した曲「O Son do Ar」がカヴァーされている。更に1999年にはオールドフィールドのツアー「ライヴ・ゼン&ナウ1999」で前座を務めて、世界的に知られるようになった。現在ではガリシアを代表するグループとなっている。
CD 鯉沼廣行 幻の笛 - 鯉沼廣行 横笛小曲集1967年に国立音楽大学を卒業し、はじめリコーダー奏者として活動。後、和楽器の横笛に惹かれるようになり、六代目福原百之助に篠笛と能管を師事した。1977年に最初の横笛リサイタルを開いて以来、フィンランド、中華人民共和国、ロシア、アメリカ合衆国、ブルガリア、フランス、イタリア、エストニアといった海外を含め、各地で横笛の演奏活動を行っている。作曲を高田三郎に師事し、横笛のための作品や教則本を出版。弟子に金子由美子がいる。
青い目の人形交流展 ―お帰りなさい答礼人形【図録】 武田英子・さいとうみのる:監修 出版社 国際文化協会・朝日新聞社・そごう美術館 刊行年 昭和63 解説 A四 80頁 人形師 初代岩松松乾斉作 秀徳作 二代目平田郷陽作 滝沢光竜斉作 ほか 1920年代、アメリカでは反日感情が高まりをみせており、日本人移民を排斥する「新移民法」が可決された。そのような状況を憂慮した親日家の宗教教育者・ギューリック博士は、「人形」を通じて日米親善をはかろうと考え、親交の深かった渋沢栄一に協力を求めた。その試みは1927年(昭和2年)に実を結び、アメリカから約12,000体の「青い目の人形」が贈られ、その返礼として、日本の子どもたちの献金によって約60体の「答礼人形」が海を渡った。日米開戦によって、敵国からの「贈り物」として多くが廃棄処分を受けたが、捨てるに忍びないと密かに保存された人形たちが戦火をくぐり抜け、1980年代時点で「青い目の人形」216体、「答礼人形」25体が健在であることが確認されている。本書は、19体の「答礼人形」が里帰りし、日本に現存する「青い目の人形」を加え、1988年に日本全国で開かれた展覧会の図録。それぞれの人形にのこる傷あとや汚れから、戦争がもたらす不条理がうかがえ、胸をつかれる。--------------------------千葉の館山小学校の教師だった冨田文枝さんは、つぎのように話していました。「校長先生が私に、『人形を焼却するよう通達がきているけれど、あなたに預けます。くれぐれも憲兵に見つからないように』といわれました。私は必死で押入れに隠しました」(「戦時下の『青い目の人形』」より)□publisher:国際文化協会・朝日新聞・そごう美術館□date of issue:1988年□size:14.8x10.5cm□page:80 [解説]
朝鮮銀行券 朝丁100円券 未使用- 在外銀行券 軍票
牧野富太郎と植物画展 : ボタニカルワールドへのいざない 展覧会チラシ付 小田急美術館 大阪市立自然史博物館 展覧The World of Makino's Botanical Illustrations 「牧野富太郎と植物画展」図録 : ボタニカルワールドへのいざない 高知県立牧野植物園,毎日新聞大阪本社文化事業部編 出版社 毎日新聞社 刊行年 2001 ページ数 213p サイズ 30cm 日本が世界に誇る植物学者・牧野富太郎博士は,95年の生涯のすべてを植物研究に捧げました.全国の山野でフィールドワークを行い,2500もの新植物に名前をつけました.日本の「植物学の父」と呼ぶにふさわしい人です. 牧野博士は,また,植物画の名手でもありました.精密かつ力強い筆使いで,植物の「種」としての典型の表現をめざした図で,その画法は「牧野式」と呼ばれました.植物を最もよく知る植物学者によって描かれた図には,みずみずしい生気が宿り,学術的価値に加えて,美術的にも高く評価されています. 本展は,高知県立牧野植物園が所蔵する牧野博士の植物画をはじめ,博士の植物画コレクションの他,博士の遺品やエピソードを通じて,牧野富太郎の人間的魅力を紹介。【主な展示品】1.牧野富太郎の植物図 約150点2.関根雲停,山田壽雄,服部雪斎,渡邊鍬太郎など幕末から明治の画工たちの作品 約50点3.牧野富太郎の遺品や生涯を物語る資料 「臍の緒袋」から「愛用の採集用具,観察用具」,「競売通知書」,「妻,壽衛との手紙のやりとり」など,約100点
門脇俊一木版画木版44点 四国八十八ヶ所霊場めぐり 37.5cm-9cm 一ばん霊山寺 三ばん金泉寺 四ばん大日寺 六ばん安楽寺 七ばん十楽寺八ばん熊谷寺 九ばん法輪寺 十ばん切幡寺 十八ばん恩山寺 十九ばん立江寺 二十三ばん薬王寺 二十四ばん最御崎寺 二十五ばん津照寺 二十六ばん金剛頂寺 二十七ばん神峰寺 二十八ばん大日寺 三十一ばん竹林寺 四十六ばん浄瑠璃寺 五十一ばん石手寺 五十二ばん太山寺 五十ばん五南光寺 五十七ばん栄福寺 五十八ばん仙遊寺 五十九ばん国分寺六十一ばん香園寺 六十三ばん吉祥寺 六十五ばん三角寺 六十六ばん雲辺寺 六十七ばん大興寺 六十八ばん山禅寺 六十九巻ばん観音寺 七十ばん本山寺 七十一ばん弥谷寺 七十二ばん曼荼羅寺 七十三ばん出釈迦寺 七十四ばん甲山寺七十六ばん金倉寺 七十七ばん道隆寺 七十八ばん郷照寺 八十ばん国分寺 八十一ばん白峰寺 八十二ばん根香寺 八十四ばん屋島寺 八十六ばん志度寺
明治広告人夜話 創立二十周年並業歴四十五年記念出版 西部謙治 著 出版社 旭東通信社 刊行年 昭和47年 ページ数 169p 解説 非売品広告代理店の蔵印
梅田雲浜と維新秘史 梅田薫著 出版社 東京正生学院 刊行年 昭和54年初版カバー 梅田雲浜(文化12年6月7日〈1815年7月13日〉- 安政6年9月14日〈1859年10月9日〉)江戸時代末期の儒学者。通称は源次郎[2]。名は義質、のちに定明。号は雲浜のほか、湖南、東塢がある。 天保14年京都へ上り藩の塾となっていた望楠軒の講主に迎えられる。ところが、嘉永5年(1852年)海防の強化を建言したことが藩主・酒井忠義の怒りに触れ藩籍を剥奪されてしまう。「君が代を おもふ心の 一筋に 我が身ありとも 思はざりけり」という和歌は、この時期に詠んだとされる[4]。嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のマシュー・ペリーが来航すると条約反対と外国人排斥による攘夷運動を訴えて尊皇攘夷を求める志士たちの先鋒となり、幕政を激しく批判した。やがて安政5年(1858年)、日米修好通商条約への朝廷の勅許拒否・その後の戊午の密勅等一連の事案が発生すると、首謀者と目された雲浜は京中の邸にて、大老・井伊直弼による安政の大獄で最初の捕縛者となった。この間、安政2年に千代と結婚している。捕縛後は京都から江戸に送られる。取調べでも箒尻で何度も打たれる拷問においても何一つ口を割らなかった[要出典]。江戸では小笠原忠嘉の邸に預けられる[8]。安政6年9月14日に幽閉中に病死した。享年45。流行のコレラに罹ったというが、拷問での傷の悪化による死因説もある。
三十八度線 佐々木祝雄著 出版社 全国引揚孤児育英援護会 刊行年 昭和32年初版 B6判朝鮮北部の精錬の街、文坪地区にあった日本人たちの引揚記。敗戦の混乱と危険の直下での残留就労、酷寒零下20度の越冬、脱走、引揚げー大勢の人の国境を越えた人間愛に支えられながら。 佐々木祝雄氏は終戦時、住友軽金属の元山工場の勤労部長を務めていた。航空機製造の為、アルミの製造工場を起ち上げていた。佐々木祝雄氏の記録は民族間緊張を扱った貴重な記録である。そしてソ連軍占領下での苦闘、それから徒歩で南下して38度線を越えた時の安堵感と胸を打つ記録である。住友軽金属の立ち上げが遅かっただけに、元山の終戦時の記録として残されているのは少ない。貴重な記録である。
海底トンネル第一号 上田廣・著 謹呈署名 出版社 珊瑚書房 刊行年 昭和31年5月25日発行 ページ数 317頁 海底トンネルの掘削は、日本のみならず世界で初めての快挙。題名も「関門トンネル」じゃなく『海底トンネル第一号』としたのも、工事関係者らにその意気込みがあったから。日本初のシールド工法でもあった。
日蓮教学精要 本多日生著 昭38年初版函付 出版社 財団法人統一団 サイズ B6 全414頁本多日生(1867年4月17日(慶応3年3月13日) - 1931年(昭和6年)3月16日)僧侶。日蓮宗妙満寺派、顕本法華宗元管長、法号は聖応院日生。近代日本の代表的な日蓮仏教の改革者として名を残す。 1884年(明治17年)以降、明治政府のもと仏教各宗派の教団近代化が始まり、日蓮宗妙満寺派にいた日生は革新派として近代化の体制整備に奔走し、1889年(明治22年)、24歳の若さにして妙満寺派教学部長に就任する。しかし、日生の革新的な宗制改革は、宗内の守旧派から反発を呼び、保守派の錦織日航が管長に就任すると、1891年(明治24年)、教学部長を罷免される。日生に対する守旧派の処分は続き、福島県二本松の蓮華寺への左遷命令を拒否した日生に対して1892年(明治23年)、僧籍剥奪処分が下る。以後、日生は「顕本法華宗義弘通所」を設立して独自の布教活動を始める。宗内での盛んな日生復権運動の結果、1894年(明治27年)、宗門は「仏教各宗綱要」の日生への執筆依頼のために僧籍を復権。それと同時に、かねてから構想していた日蓮門下統合に向けて僧俗を問わずに運動を展開する拠点として「統一団」を結成する。団報「統一」を発刊し、現在までその活動は継続されている。日生は宗門の宗務総監に就任した後、日蓮宗妙満寺派を正式に「顕本法華宗」とする公称許可を得て、1905年(明治38年)、39歳で顕本法華宗管長に就任した。以後21年間、同職を務める中、1909年(明治42年)には以前からライフワークとしていた僧俗一体の布教伝道、社会教化、門下統合の拠点とするため「天晴会」を組織、佐藤鉄太郎海軍中将、小笠原長生子爵などの有力軍人、政治家、名士たちが名を連ねた。関連団体として、各地で頻発する労働争議に対応するための労働者・勤労者を中心とした「自慶会」や、共産主義、無政府主義に対抗するための政治運動拠点として「知法思国会」も組織し、幅広い分野での日蓮主義伝道活動に務めた。1922年(大正11年)、広く日蓮門下に呼びかけ宗祖・日蓮大聖人の「立正大師号追諡」を実現させる。以後日生は宗祖を一貫して「立正大師」と呼称し続けた。
ぼくらの出航 長編少年少女小説 那須野稔著 出版社 講談社 刊行年 昭和38年初版函付き ページ数 184頁 サイズ A5判敗戦時の動乱の満州に生きる日本少年の物語。第三回講談社児童文学作品募集佳作入選。
まるいてえぶる1号 井上靖還暦記念号 編集人 井上修一 制作者 原雅人 1967年発行 全111ページ 非売品
講座日本の演劇 1 日本演劇史の視点 諏訪晴雄・菅井幸雄編 出版社 勉誠社 刊行年 平4年初版 カバー・帯付世界の中の、そして古代から現在への日本の芸能と演劇。人間はなぜ演じ続けてきたのか?いま、時空の双軸を把握する視座。200名の第一線の執筆陣による書き下し。目次序論 日本演劇史の視点1 演劇の誕生2 演劇の展開3 民俗芸能4 歌謡と芸能5 アジアと日本芸能6 ヨーロッパと日本演劇7 アイヌの芸能8 沖縄の芸能9 研究の手引
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