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富国策(7の61)
富国策建白
日本経済叢書第十二巻 富国策ほか11
青年雑誌 [日本人と其協同心/国家と国民/富国策/怠惰の戒め/他] 第76号
富国策巻之一 蚕業経済録
日本経済叢書 巻十二
日本経済叢書 第十二巻
公武合体論の研究 : 越前藩幕末維新史分析 改訂版.
公武合体論の研究 : 越前藩幕末維新史分析
林子平全集 第2巻 <皇学蔵 2>
公武合体論の研究 越前藩幕末維新史分析 改訂版
公武合体論の研究 : 越前藩幕末維新史分析 改訂版
一冊まるごと武田信玄の本 <ムックの本>
武家時代史論
近代群馬の蚕糸業 : 産業と生活からの照射
維新前後 <経済全書 4>
中国経済史
国是三論 <講談社学術文庫>
横井小楠 : 儒学的正義とは何か <朝日選書> (増補版) <朝日選書 645> 増補版.
横井小楠 <ちくま学芸文庫>
維新前後 <経済選書 4> <経済全書 ; 4>
維新前後 <経済全書 ; 4>
明治維新政治史研究 : 維新変革の政治的主体の形成過程 <歴史学研究叢書>
明治維新対外関係史研究
幕藩制転換期の経済思想
「幕藩制転換期の経済思想」
続佐賀藩の総合研究 : 藩政改革と明治維新
新概觀國史
林子平傳 日本国防の先覚者 著者 松原晃 出版社 奥川書房 刊行年 昭17年初版 林子平(はやし しへい)元文3年6月21日(1738年8月6日) - 寛政5年6月21日(1793年7月28日))は、江戸時代後期の経世論家。諱は友直。のちに六無斎主人と号した。高山彦九郎・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の一人(「奇」は「優れた」という意味)。元文3年(1738年)、幕臣岡村良通の次男として江戸に生まれる。父の岡村良通は御書物奉行(620石)として仕えていたが、子平が3歳の頃、故あって浪人の身となり、家族を弟の林従吾(林道明)に預け諸国放浪の旅に出た。子平らは、大名家に往診にも行く開業医であった叔父の従吾のもとで養われる。まもなく、長姉と次姉は仙台藩の江戸屋敷に奉公するようになり、仙台藩5代藩主伊達吉村の侍女として仕えた。次姉のなお(きよ)はその容姿と心ばえが吉村に愛され、やがて6代藩主となる宗村の側室に抜擢され、お清の方と呼ばれるようになった。お清の方は1男1女をもうけた。男子はのちに三河国刈谷藩主土井利信の養嗣子となる土井利置、女子は出雲松江藩主松平治郷の正妻となる方子(青楽院)である。お清の方の縁で、養父の従吾は仙台藩の禄を受けるようになった。従吾の没後、子平の兄の林友諒が封を継ぎ、宝暦6年(1756年)に正式に仙台藩士として150石が下された。同年5月に宗村が死去すると、友諒は家族を引き連れ、仙台川内に移住した。子平は部屋住みの身で妻子は持たなかったが、仙台藩士として生活するようになった。子平はみずからの教育政策や経済政策を藩上層部に進言するが聞き入れられず、禄を返上して藩医であった兄友諒の部屋住みとなり、北は松前から南は長崎まで全国を行脚する。長崎や江戸で学び、大槻玄沢、宇田川玄随、桂川甫周、工藤平助らと交友する。ロシアの脅威を説き、『三国通覧図説』『海国兵談』などの著作を著し、「およそ日本橋よりして欧羅巴に至る、その間一水路のみ」と喝破して、当時の人びとを驚かせた。『海国兵談』の序を書いたのは、仙台藩医工藤平助であった。また『富国策』では藩の家老佐藤伊賀にあて藩政について説いたが、採用はされなかった。
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