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小さな手の哀しみ <松下竜一その仕事 / 松下竜一 著 5>
中世歌謡 <塙選書>
俗神 増補改訂.
伴信友家集
ひと芸と時代 : 芸能の歩んだ道と芸団協30年
徒然草の変貌 <徒然草>
昭和のドラマトゥルギー : 戦後期昭和の時代精神 <講談社選書メチエ 537>
三波春夫という永久革命
能楽礼讃
貞女への道 <ちくま文庫> 初版1刷
日本歴史故事物語 上下揃 河出文庫
無極随筆
古典文学鑑賞辞典
光悦の芸術
古文芸の論
異界のフォノロジー : 純粋国学理性批判序説 意識と場所2
眺める文化と曝される文化
教程 日本文学小史
美空ひばり歌は海を越えて
異界のフォノロジー 純粋国学理性批判序説(意識と場所Ⅱ)
和歌 解釈のパラダイム
軍記物論考 <三弥井選書 18>
読書颯々
三橋美智也プログラム等一括
蝸牛庵聯話
夏目漱石 続
「鎮守府将軍 平惟茂碑並銘(ちんじゅふしょうぐんたいらのこれもちのひならびにめい)」 名将 平惟茂
田中千禾夫 作「自由少年ー花の幻ー」俳優座1969年定期公演No.3 俳優座座公演N0.93プログラムパンフレット 演出・千田是也・増見利清、音楽・石井 歓、謡曲指導・観世栄夫 他 キャスト/東野英治郎、滝田裕介、福田豊士、新 克利、古谷一行、川口敦子、市原悦子、野村昭子 他出演者の素顔=写真 巻頭文/「太郎杉を伐る勿れ」・田中千禾夫 対談「自由少年」について/千田是也×増見利清 <サンパ>と<ヤソ>=宮本研 花の幻/原民喜詩・石井歓曲 ボムボム節/田中千禾夫詩・石井歓曲楽譜掲載 むしう・かいせつ=渡辺保 他
やわらかな未知のものがたり : 現代<表現>論
俗楽旋律考 <岩波文庫 ; 93>
『東海林太郎 全集』 CD6枚揃い 函・歌詞集付き
デザイン No.61 1964年7月 <フィンランドのデザイン>
新編・新宿ゴールデン街 <ラピュタbooksシリーズ ラピュタ新書>
能楽盛衰記 〔復刻版〕;増補版
秘められし啄木遺稿
流行歌 : 西條八十物語 <ちくま文庫>
宝生流のはなし
復刻版 「風俗画報」 第198号
紅白歌合戦と日本人< 筑摩選書 0078>
梓みちよ『こんにちは赤ちゃん/梓みちよ第2集』東京キング/SKG-5010インチレコード/梓みちよ「こんにちは赤ちゃん / 梓みちよ第2集 (1964年・SKG-50・東海林修・中村八大編曲)第1面 こんにちは赤ちゃん 月光価千金 プリンセスプリンセス ブルーヴェルヴェット第2面 ダンケ・シェーン 恋はロマンチック 永遠に愛して 悲しみがいっぱい 盤質良好です。梓みちよ(1943年6月4日[1] - 2020年1月29日)、日本の歌手、女優。本名は林 美千代。血液型はO型。株式会社アラベスク所属で株式会社プロダクション尾木と業務提携。日本統治下の朝鮮釜山市生まれ。福岡県福岡市博多区出身。福岡女学院中学校・高等学校2年中退。宝塚音楽学校中退。1960年代から1970年代を中心にヒットを飛ばした。アメリカンポップスから歌謡曲まで幅広いレパートリーを持つ。1960年、福岡女学院高校を2年で中退して宝塚音楽学校に入学。同校在学中に渡辺プロダクションのオーディションに応募し合格し、上京し契約する。約1年間のレッスンを経て、1962年に“ボサノバ娘”のキャッチフレーズでキングレコードより「ボッサ・ノバでキッス」でデビューし、歌手として本格的に活動を始める。芸名の名付け親は渡辺プロダクション創業者の渡辺晋。「梓弓のようにしなやかで強くなって欲しい」の意味で名付けられたという。1963年7月、『夢であいましょう』の今月の歌として発表された「こんにちは赤ちゃん」(作詞・永六輔、作曲・中村八大)が大ヒットとなり、同年12月の第5回日本レコード大賞の大賞を受賞。また『第14回NHK紅白歌合戦』にも初出場を果たし、人気歌手としての地位を得た。また同曲は翌1964年3月の第36回選抜高校野球大会の開会式入場行進曲に採用された。更には1964年5月に東京都文京区の椿山荘で開かれた学習院初等科同窓会に招待されて、昭和天皇の御前でこの歌を披露した。明治時代以降において日本芸能界初の天覧歌謡曲となる。
CD3枚組 台湾情台湾歌4 江蕙 Kang Hūi(カン・フイ)江蕙(台湾語白話字:Kang Hūi(カン・フイ)、中国語ピンイン:Jiāng Huì(チァン・フエイ)、1961年9月1日- )は台湾の女性歌手。専ら台湾語(台湾ホーロー語)で唱っており、「台語天后」(意訳:台湾語歌謡の女王)と称されている。2015年6月27日の第26回金曲賞で「特別貢献賞」を受賞した。同年9月13日の高雄コンサートをもって芸能界を引退した。 江蕙と彼女が活躍する台湾語歌謡界について理解する為には、台湾語の歴史的事情に注意を払う必要がある。台湾は、日本が第二次世界大戦敗戦後中華民国に返還され、内戦に敗れた中華民国政権が中央政府を1949年に台湾に移し、1990年代まで戒厳令で独裁強権政治が行われて来た。この間、台湾人には北京語が強要され、彼等の母語である台湾語(ホーロー語、客家語、原住民諸語)は抑圧され、蔑ろにされて来た。こうした事情から、当時の恐怖政治下では、中国語は現代的で洒落たもの、台湾語は古臭くて格好悪いもの、と言う暗黙裏の位置付けがあった。従って、現代的な欧米のポップスや日本のニューミュージックの影響が及んだのは、先ず中国語の歌謡曲であり(校園民歌など)、台湾語の歌は昔ながらの民謡や日本の歌謡曲の翻訳にほぼ限られていた。この様な状況に対して、欧米日のポップスと比べて遜色のない現代的なメロディーを台湾語で歌う、と言う変革をもたらした代表選手が江蕙である。その様な現代台湾語ポップスの萌芽としては潘越雲の「情字這条路」(1988年)などが先行したが、決定打は江蕙が1992年に出した「酒後的心聲」と言える。日本人の耳には1980年代に流行したポップス演歌に似ているが、同曲はそれ以前のド演歌とは一線を画すもので、台湾全土の老若男女に受け入れられ、伝説的な大ヒットとなった。台湾では既に中国語世代が主流となってはいるが、今日では、台湾語の曲を聞いたりカラオケで歌うことに恥ずかしさや抵抗感はないし、中華人民共和国に於てさえ一部では江蕙を始めとする台湾語曲が人気を得ている。
漱石先生と私 上下
謡曲地拍子研究の栞
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