釧路市中央図書館・釧路文学館 「文学の街」の底力【書庫拝見15】

釧路市中央図書館・釧路文学館 「文学の街」の底力【書庫拝見15】

南陀楼綾繁

 6月17日の朝、飛行機は釧路空港に着陸した。

 釧路は霧が多い土地として知られている。「めったにないけど、霧が多すぎて着陸できない時もある」と聞かされていたが、この日は晴天。いつもなら肌寒い時期だと云うが、気温も高めだった。

 空港バスに50分乗り、釧路駅前に着いた。交差点の向こうで、盛厚三さんが手を振っていた。釧路への旅のきっかけとなった人だ。

 盛さんは1947年、釧路市生まれ。埼玉県に住み、デザインの仕事をしながら、釧路の文学史を研究している。最初にお会いしたのは、文学同人誌『サンパン』の集まりだっただろうか。その後、不忍ブックストリートの一箱古本市に最高齢の店主として参加。自身が発行する同人誌と同じ「北方人」の屋号で親しまれた。

 昨年には『釧路湿原の文学史』を刊行。雄大な湿原を訪れた作家、詩人、評論家らの群像を描く労作で、釧路文学賞を受賞した。ちなみに、同書の版元である藤田印刷エクセレントブックスは、釧路に本拠を置く道内有数の印刷会社であり、アイヌ関係の本などを刊行する出版社でもある。一昨年亡くなった元朝日新聞記者のジャーナリスト・外岡秀俊さんの遺稿集『借りた場所、借りた時間』の版元もココだ。外岡さんの小説『北帰行』のクライマックスが釧路だったという縁からだとあとで聞いた。

 駅から南へと走る大通りが「北大通」。まっすぐ行ったところにあるのが、釧路を代表するスポットである幣舞橋(ぬさまいばし)だ。釧路の歴史は、幣舞橋の南側からはじまった。松前藩がアイヌとの交易を行なうために設置した「クスリ場所」があり、それが「釧路」の語源となった。1901年(明治34)には釧路駅が開業して以来、幣舞橋の北が発展していく(釧路市地域史料室編『街角の百年』釧路新書)。
「まだ湿原だったこの地の開墾を行なったのが、作家・中戸川吉二の父です。釧路の恩人ですね」と、さっそく盛さんの解説がはじまる。

 北大通を歩くと、右側に白い、大きなビルが見える。そこには「釧路市中央図書館」という文字がくっきりと浮き出ている。なかなかの偉容だ。1、2階が北海道銀行で、3階から7階までが図書館となっている。

釧路市中央図書館

 この日は、そこから100メートルも離れていないところにある〈古書かわしま〉の2階で、釧路で初開催となる一箱古本市が行なわれた。釧路駅の反対側には、1982年創業という〈豊文堂書店〉もある。道東では、店舗のある古本屋はいまでは釧路にしかないそうだ(筆者追記 根室と北見にも店舗があるそうです)。

110年の釧路文学史

 図書館に着くと、館長の髙玉雄司さんと副館長の石原美津代さんが迎えてくれる。お二人は釧路文学館の館長、副館長でもある。

 最初に6階にある釧路文学館を見る。釧路の文学史とゆかりの作家のパネルや作品が展示されている。

釧路文学館の入り口

釧路文学館の展示室

 ゆかりの作家として取り上げられているのは11人。中でも大きく扱われているのは、石川啄木、原田康子、桜木紫乃の3人だ。

 啄木は1908年(明治41)1月から釧路新聞社に勤めた。わずか76日しか滞在しなかったにもかかわらず、釧路の人たちに強い印象を残した。釧路には啄木の歌碑が26基もあるという。全国にある啄木の歌碑の4分の1を占める多さだ。

 原田康子は東京で生まれ、1歳から釧路に住んだ。1956年に刊行した長編小説『挽歌』がベストセラーとなった。同作は釧路湿原が舞台のひとつであり、「黄ばんだ銀色の葦と、黒い野地坊主に埋め尽くされた荒れた野は、非常な美しさに充ちて無限大にひろがっていた」などと魅力的に描写されている(『釧路湿原の文学史』)。

幣舞公園の「挽歌」の碑

 桜木紫乃は釧路生まれで、2013年に『ホテルローヤル』で直木賞を受賞。釧路を舞台にした多くの作品を書いている。

 啄木から桜木紫乃まで約110年。釧路には文学の伝統が受け継がれているのだ。

 ここで図書館と文学館の経緯を見ておこう。ちょうど7階の展示室で「図書館の歩み」展が開催中だった。

 釧路滞在中の啄木は、友人の宮崎郁雨宛ての書簡で、「(釧路には)教育機関の改善拡張や図書館の設置や、其他まだまだ沢山ある」と書いている。それらの機関の充実が必要だと訴えたものだろう。

 彼が釧路を去って4年後の1912年(明治45)、幣舞町の釧路町公会堂の一室に「釧路教育会附属釧路図書館」が開設された。蔵書数は約2200冊。同館は1925年(大正14)に昭和天皇のご成婚を機に「御成婚記念釧路市簡易図書館」となる。この日が、釧路市図書館の創立日となっている。

 戦後、1950年に「市立釧路図書館」と改称する。その翌年、同じく幣舞町に初めての独立の図書館を建設。この時はじめて、利用者が自由に本を手に取れる形式になる。

「図書館の歩み」展で展示されていた市立釧路図書館の看板。昭和40年代には使用されていた。

 1972年、旧市役所庁舎跡地に新しい図書館を建設。地上4階、地下1階のコンクリート造で、視聴覚ホールなどを設けた。その後、図書館バス(移動図書館)の運行も開始する。

 この時の図書館の建物は、いまも残っている。行ってみると、幣舞橋をはじめ町なかが見下ろせるいい場所だった。隣には幣舞公園があり、原田康子の「挽歌」の碑もある。
「『挽歌』の単行本に入っている原田康子の写真は、(市役所庁舎時代の)この図書館の裏辺りで撮影したものです」と、案内する盛さんが教えてくれた。

幣舞町の旧図書館

 この図書館は長く親しまれたが、耐震やスペース不足の問題から移転が決まり、2018年2月、現在の地に中央図書館がオープンした。

 一方、文学館についても30年近くの経緯がある。1989年、「釧路文学館を考える会」が発足、開設に向けた趣意書を提出する。その後、教育委員会が中心となり文学館の構想を検討。そのなかで、「考える会」が収集した文学資料約1万3000点を、市に寄贈している。

 そして、新図書館の移転に合わせて、文学館を併設することが決まり、2018年2月に開設されたのだ。同館では常設展示のほか、年4回の企画展を開催している。

 蔵書数は図書館、文学館を合わせて35万冊にのぼる。

丹葉節郎コレクションと3つの個人文庫

「では、中へどうぞ」

 石原さんが文学館の展示フロアの奥にあるドアを開けてくれる。作業などを行なう部屋で、ここには「丹葉節郎コレクション」が収められている。

 丹葉節郎(1907~1994)は公民館長などを務めた人物で、釧路における石川啄木の足跡の研究をライフワークとした。啄木に関わった人のうち、現存者に直接会って取材している。

 啄木の日記に登場する芸妓・小奴(近江ジン)は、のちに近江屋旅館を経営した。丹葉が彼女にインタビューしたテープも残されているという。丹葉コレクションの「小奴遺品」と書かれた箱には、啄木の友人・金田一京助が釧路を訪れた際に小奴に贈った、自作の歌を書いた色紙帳もある。

金田一京助が小奴に贈った色紙帳

 また、釧路で撮影された唯一の啄木の写真(鉄道視察団との記念写真)も、丹葉コレクションのひとつだ(丹葉コレクションについては、『まちなみ』第50号、1989年5月、第51号、1989年6月 市立釧路図書館郷土行政資料室 を参照)。

 さらに奥のドアを開けると、文学館の保管庫がある。ここには本やその他の資料が約3万4000点収蔵されている。一番手前はゆかりの作家11名に関する資料。それから奥に向かって雑誌、創作、俳句。短歌、色紙・挿絵、演劇という風に棚が分かれている。
 
 11名のうち、啄木、原田、桜木は紹介した。他の8名を簡単な肩書付きで挙げておく。中戸川吉二(作家)、更科源藏(詩人)、土屋祝郎(作家)、荒澤勝太郎(作家)、小松伸六(文芸評論家)、佐佐木武観(劇作家)、永田秀郎(劇作家)、鳥居省三(文芸評論家)。このうち中戸川、更科、小松については盛厚三さんが研究を発表している。保管庫には彼らの著作や関連の資料が並べられている。

 個人文庫としては、鳥居文庫、吉田文庫、原文庫の3つがある。鳥居文庫については後で触れる。吉田文庫は日本エディタースクールを創設した吉田公彦とその兄弟である民俗学者の谷川健一、詩人の谷川雁、東洋史学者の谷川道雄の蔵書。吉田公彦の義妹にあたる人は、釧路に本拠を持つ書店チェーン〈コーチャンフォー〉の創立者だという。原文庫は釧路出身の政治学者・原彬久の蔵書を受け入れたものだ。

 一番奥にキャビネットがふたつあり、そこには貴重書が保管されている。

 中戸川吉二の著作、更科源藏の詩集『種薯』、荒澤勝太郎『樺太文学史』原稿などと並んで、原田康子の『挽歌』(東都書房)もあった。
「状態がいいでしょう」と石原さんが自慢する通り、帯付きの美本だ。「異例の波紋! 奔流の売行!」との帯のコピーが景気いい。

更科源藏詩集『種薯』(北緯五十度社)

原田康子『挽歌』東都書房

 目を見張ったのが、土屋祝郎の『獄中日記』だ。土屋は秋田県生まれ。京都三高時代に学生運動に身を投じ、1932年(昭和7)に逮捕。中退後、1937年(昭和12)に思想犯として逮捕され、釧路刑務所で5年服役。1941年(昭和16)に出所するが再逮捕され、1943年(昭和18)に釈放されるまで、7年にも及ぶ獄中生活を送った。
『獄中日記』は、豆粒のような細かく、丁寧な文字で獄中の生活や考えを記録したもので、その執念にため息が出るほどだ。

土屋祝郎『獄中日記』

蔵書の1割が郷土資料

 次に図書館の書庫に向かう。ここからは図書館の斎藤愛美さんが案内に加わった。

 5階の貴重庫には、作曲家・伊福部昭の遺品である洋服や指揮棒、パイプなどを収蔵している。伊福部の父は警察官で、昭は3歳までこの地に住む。そのあと音更町にも住んだことから、同町の図書館には「伊福部昭音楽資料室」がある。この取材の2日後に訪れたが、小さいがいい資料室だった。
「こんなものもありますよ」と、斎藤さんが取り出してくれたのは、小さなガラス乾板写真だ。釧路の写真師・木村藤太が1896年(明治29)の皆既日食を撮影したものだという。利用者から「こういう資料があるはずだが」という問い合わせがあったことで、館内で発見されたという。

皆既日食を撮影した写真

 同じ階のカウンターの裏には、レファレンスなどで使う頻度の多い資料が並べられている。たしかに、『釧路築港史』『釧路人物評伝』に明治期の電話番号簿や写真帖など、釧路の歴史を調べる際には必要なものばかりだ。

戦前の郷土資料を収めた棚

 斎藤さんに広げてもらって、1910年(明治43)の釧路の地図(復刻版)を見る。この種の資料で面白いのは広告だ。よく見ると、啄木の恋人・小奴が営んでいた近江屋旅館の広告もあった。

1910年(明治43)に発行した釧路の地図の広告面

「当館の蔵書のうち約10分の1が郷土資料に当たります。この割合から見ても、道内でもかなり郷土資料が多い図書館だと云えると思います」と、斎藤さんは話す。「自分が生まれるよりずっと前の時代の釧路に関する資料を見るのは、とても楽しいです」。

 最後に入ったのは3階の書庫。ここには新聞類などを保存する。明治期の「釧路新聞」は他の図書館に所蔵されておらず、市の指定文化財になっている。現在はマイクロフィルムやPDFで閲覧するため、原本は閲覧できないのだが、今回は特別に包装されたものを開いて見せてもらった。

 貴重な紙面だが、ところどころに切り抜かれた跡がある。石川啄木が書いた記事を切り抜いた不届き者がいるのだ。しかし、そいつの目が届かず、残っている記事がある。1908年(明治41)3月11日の「空前の大風雪」という記事で、署名が入っていないので気づかなかったのだろう。「天地晦瞑唯巨獣の咆哮するが如き暴風雪の怒号を聞く」「潰倒家屋数戸、圧死者数十名、前後二十四時間に亘れる」などは大きい活字で強調されている。状況が生々しく伝わる文章だ。

石川啄木の無署名記事(「釧路新聞」1908年3月11日)

「これが啄木が書いたものであることは、本人の日記(「明治四十一年戊申日誌」、『石川啄木全集』第5巻、筑摩書房)に『出社して、風説被害の記事を一頁書いた。田舎の新聞には惜しい程の記事と思ふと、心地がよい』とあることで判ります」と、石原さんが解説する。

 この他、図書館にはアイヌ関係の資料も多く所蔵する。「松本文庫」はアイヌ文化懇話会を設立し、『久摺(クスリ)』を発行した松本成美の蔵書284点。「多助文庫」はアイヌ文化の伝承者だった山本多助エカシ(長老)の書簡や日誌など約800点。

 貴重庫に所蔵されている『永久保秀二郎日誌』全8冊は、アイヌ学校の教師の日誌で、市の指定文化財になっている。これらは翻刻され、二巻本として刊行された。
「旧図書館の3階には郷土行政資料室があり、アイヌ関係の資料を積極的に集めていました」と、石原さんが説明してくれた。

釧路文学史の恩人・鳥居省三

 書庫を一巡りして、文学館にも図書館にも、郷土の資料が多く所蔵されていることが判った。特に文学に関しては、北海道立図書館や道立文学館にも所蔵されていないものが多いようだ。

 これだけの資料を集めたのには多くの人の尽力があったはずだが、なかでも注目されるのが、鳥居省三だ。

 鳥居の本名は良四郎。1925年(大正14)、紋別市に生まれ、幼い頃に釧路管内に引っ越す。国鉄に勤務しながら、戦後に同人誌を創刊。その後、釧路の太平洋炭礦の図書館に勤務する。そして、1951年に釧路図書館の職員となる。

 その翌年、市立釧路図書館館報として『読書人』が創刊される。鳥居は座談会「釧路文学の現状と将来」の司会をしている。同じ年の秋、鳥居は北海道文学同人会を創設し、同人誌『北海文学』を創刊。原田康子も同人となる。

『読書人』創刊号

 図書館と同人誌の関係については、原田康子が鳥居の追悼として書いた「青春の図書館」に詳しい。
「当時、鳥居さんは釧路市立図書館の司書をしていた。おかげで同人会には図書館を利用することができた。(略)図書館は高台の崖近くにあった。崖ぎわに市役所の建物が建っていて市役所にふさがれて下町は目にはいらない。市役所の蔭のこぢんまりした図書館は、身体をすくめるようにひっそりと建っていた。

 私たちは、図書館の事務室をつかった。(略)雑誌が出たあとに同人会を行う習慣であったから、つい掲載作を槍玉にあげることになる。あげられたほうもだまってはいない。茶碗酒を飲みだすにおよんで、声はさらに高くなる。サルトルやカミュをはじめ、文学一般に話題が転じたとしても、公共の施設の中でお酒まで飲んだのである」(『北海文学』第93号、2006年12月)

 このように図書館と文学活動が近い時代があったのだ。『読書人』に原田康子が書評やエッセイを寄稿しているのも、こうした空気のなかでのことだった。

 鳥居は図書館で得た給料を『北海文学』につぎ込むが、印刷所への借金が増えたため、ガリ版印刷に切り替える。このときの同誌に連載されたのが、原田の『挽歌』だった(鳥居省三『私の歩いた文学の道』釧路新聞社)。

 鳥居は1966年、1974年の二度、釧路図書館の館長を務める。鳥居の在職中、市立釧路図書館叢書として『北海道郷土資料目録』『アイヌ古代舞踊の研究』などが刊行された。

 古谷達也「追想 図書館の鳥居さん」((『北海文学』第93号、2006年12月)によれば、当時の市役所では退庁時間を過ぎると職場で一杯飲む習慣があった。
「図書館でもご多分にもれなかったが、ちょっと一杯の後の鳥居さんの飲み屋は定番の『挽歌』であり、そこで逆立っている頭髪を振りたて、口を突き出し大声で談論風発し」たという。この〈挽歌〉は栄町のおでん屋で、太田和彦のエッセイにも行った話が出てくるので、割と最近まであったようだ。

 文学館の續橋(つづきはし)史子さんの父は市役所で鳥居の同僚だったそうで、酔っぱらった鳥居をタクシーで自宅まで連れ帰ったこともあるそうだ。

 鳥居は1960年に創刊した「釧路叢書」の編集にも関わった。この中に鳥居編『釧路文学運動史』全3巻も入っている。釧路叢書は釧路市が発行元になっている文化や学術の叢書で現在も刊行中。また、「釧路新書」は市の教育委員会が刊行している。在庫があるものは、啄木の資料を展示する港文館などの観光スポットでも販売されている。
『北海文学』はその後も発行を続けた。盛厚三さんも鳥居から声を掛けられて同人になった。桜木紫乃の出発点も同誌だった。

 2006年、鳥居が亡くなると、その追悼号を最後に『北海文学』は休刊。鳥居の蔵書は図書館に寄贈された。「鳥居文庫」は6511点。文学の単行本や文芸誌のほかに。三島由紀夫『金閣寺』など雑誌連載の作品を切り取ったり、芥川賞の選評をまとめたりしたファイルもある。

鳥居文庫の連載ファイル

 切り取った記事を自分でバインダーに綴じたものもあり、細やかな性格だったことがうかがえる。

 鳥居が館長だったことで、文学に関する資料の寄贈につながったことも多かったはずだ。釧路図書館と文学館にとっての恩人のひとりと云えるだろう。

文学の街を、次の世代へ

 充実した取材を終えて、夜は鳥居省三にならって栄町の飲み屋を数軒はしごして飲んだ。そのうち、赤ちょうちん横丁にあるシェリー酒を出すバーの店主は石丸基司さんといい、作曲家でもある。石丸さんは伊福部昭の最後の弟子であり、図書館に遺品を寄贈したのもこの人なのだ。この日の一箱古本市にも出店していたが、「ディレッタント」という言葉が似合う自由人だ。

 翌日は盛さんの案内で、米町公園の石川啄木碑などを見学する。

米町公園の石川啄木碑

 そして午後には、釧路文学館の開館5年を記念して、盛さんと私で「文学の街・釧路」と題するトークイベントを開催。50人以上が集まってくれた。

釧路文学館で行なわれたトークイベント「文学の街・釧路」

 こっそり打ち明けると、このタイトルを聴いた時、私はちょっと心配だった。「本の町」「文学の街」といったスローガンを立てる土地は多いが、どれだけ内実が伴っているかは疑問だ。そう名乗るためには、それなりの実態と覚悟が必要だと思う。

 しかし、釧路を訪れて、ここがたしかに「文学の街」だったことがよく判った。そして、図書館・文学館や古本屋、出版の現状を見ても、いまも「文学の街」という名前にふさわしい、底力のようなものを感じた。おかげで、確信をもってトークに臨むことができた。

 ただ、将来にわたっても「文学の街」たりうるかは、釧路の人たちの熱意によって決まるだろう。これまでの蓄積を生かして、文学や本に関わる次の世代も育てていってほしい。

 
 
 
 
 
南陀楼綾繁(なんだろう・あやしげ)

1967年、島根県出雲市生まれ。ライター・編集者。早稲田大学第一文学部卒業。明治大学大学院修士課程修了。出版、古本、ミニコミ、図書館など、本に関することならなんでも追いかける。2005年から谷中・根津・千駄木で活動している「不忍ブックストリート」の代表。「一箱本送り隊」呼びかけ人として、「石巻まちの本棚」の運営にも携わる。著書に『町を歩いて本のなかへ』(原書房)、『編む人』(ビレッジプレス)、『本好き女子のお悩み相談室』(ちくま文庫)、『古本マニア採集帖』(皓星社)、編著『中央線小説傑作選』(中公文庫)などがある。

ツイッター
https://twitter.com/kawasusu

 
釧路市中央図書館・釧路文学館
https://kushirolibrary.jp/bungakukan/

Copyright (c) 2023 東京都古書籍商業協同組合

懐かしき古書店主たちの談話 第1回

懐かしき古書店主たちの談話 第1回

日本古書通信社 樽見博

 私が日本古書通信社に入社したのは昭和54年1月である。社長の八木福次郎は大正4年生まれの当時64歳で、かなり老人だなと思ったものだが、いつの間にか私もその年齢を超えてしまった。当時、携帯電話は勿論、FAXもパソコンもなく、電話機は黒のダイヤル式、印刷は活版だった。古い東京古書会館3階の西側と東側2室が事務所で、編集室は西側の7坪の狭い部屋。大学の部室みたいだった。窓から喫茶店世界が見え、八木が執筆者や古書店主たちとよく話していた。そこに陣取る古書店主たちも多く、会館に出入りする業者や即売会に来る人達を見おろしていた。当時の古書会館には現在の8階にあるような休憩スペースはなく、喫茶店世界が替わりを果たしていた。会館玄関を入り狭い階段を上がった奥に管理人室があり、当時は竹之内さんご夫婦が住み込みで様々な仕事をされていた。

 天井は高いが薄暗い地階には、弘文荘・反町茂雄氏の使用する部屋など数室の他、業者用のロッカーが並び、空いたスペースで、山の本専門の小林静生さんや、叢文閣の矢島さん、浅草のおもしろ文庫の夏目さん、江戸川区の志賀書店さんなどが将棋を指していた。交換会は1階と2階を使えたが、エレベーターは会場の外、階段の奥に一台あった。週末の古書即売会は2階が会場だから、金曜日の交換会は1階のみの使用だった。

 入札会場の奥に帳場があり、経理は算盤で、その日のうちに現金で清算された。売り買いの明細はなく、ヌキは簡単なもので、売りは入札封筒の下部を切り、必要な場合は自分でリストを作成した。全てが手作業であった。当時も市場は忙しい作業であったが、まだどこかのんびりした時代であった。入札される古本も現在に比べれば量も少なく、一冊一冊が丁寧に扱われていた気がする。喫煙も自由であった。

 明治古典会の終了後、鶉屋書店の飯田淳次さんを囲んで、当時は詩歌書を専門にしていた下井草書房さんや石神井書林さんなどがその日落札した古本について教えを受けている光景をよく見かけた。この三人は、本誌の目録欄の常連だったので特に印象深い記憶なのだが、当時の私は飯田さんの業績については全く知らず、この方を中心とする燭の会の目録原稿がいつも遅れがちで、会えば督促する相手が飯田さんだったのだ。バーミューダーに草履履きのイメージが強いが、いつも少し眠そうな表情をされていた。過労気味だったのか。燭の会のメンバーに現在は映画文献専門の稲垣書店中山信行さんがいて、燭の会の後を、稲垣書店さんが継承して目録掲載は107回に及んだ。2015年に、それら全部に解説を添えて複製し『一頁のなかの劇場』という私家版が刊行されている。

 1989年に飯田さんは68歳で亡くなる。鶉屋さんを師とも恩人ともする青木正美さんによって、2006年に詳細な評伝『ある古本屋の生涯』(日本古書通信社)が刊行される。編集は私が担当した。この16年前、反町さんから、当時明治古典会の会長をされていた青木さんに、昭和40年からの再興明治古典会のキーマンとなった飯田さんの業績を顕彰することが強く求められていた。下町から飯田さんを抜擢したのは反町さんだった。反町さんが主宰する文車の会から平成2年(1990)に『鶉屋書店飯田淳次氏の仕事と人』という本が刊行された。青木さん司会による明治古典会メンバーの「故飯田淳次氏を偲ぶ座談会」、反町氏執筆の「飯田さんと明治古典会の事など」、「飯田コレクション売立目録」から構成されている。伝説の詩歌文学書売立とも言える、この目録(1985年)の項目には落札値と落札した業者の名前が記録された。反町氏の強い意向が反映されていた。この件が発行と同時に古書組合の規約に反するとして問題になった。その他この記念誌刊行にまつわる経緯は、やはり青木さんの著書『古書肆・弘文荘訪問記―反町茂雄の晩年』(2005・日本古書通信社)に克明に記録されている。この本も私が担当したが、青木さんは記念誌が出来る前から、樽見さん持っているといいよと、座談会ゲラのコピーなどを内緒でくれたりしていた。人生は出会いが大きな意味を持つが、反町、飯田、青木さん、この三人の出会いは、戦後復興期を背景にしたドラマをみるようである。「日本古書通信」の創刊者八木敏夫と反町氏の出会いが、大正震災後の文化復興を背景としたドラマのようであるのと似ている。売立目録への落札値と落札業者の明記の資料的価値は言うまでもない。

 今、青木さんはベッドの人となってしまわれた。文章を書くことを何よりも生き甲斐とされていたが、既に読むこともままならなくなったと息子さんから伺っている。私が古書業界に入って40数年が過ぎたが、八木福次郎を別にすれば、私は青木さんから一番影響を受けてきた。

 青木さんの古本屋としての凄さに対し私は畏敬の念を持ってきた。優れた古本屋がみなそうであるように、従来価値がないと見られていたものに商品としての魅力を見出していく先見性。青木さんの場合、それは戦前戦中の児童物の分野で発揮された。加えてその価格面の変動を記録し公表してきたこと。その記録することの強い思いは、商売を離れた作家自筆物の研究や業界に足跡を残した人々の顕彰に及んだ。商人として成功した古本屋は少なくないが、そうした記録を残した人は極めて少ない。私は青木さんの56冊に及んだ著書の内、9冊の編集をし、『青春さまよい日記』(1998、東京堂出版)ほか他社からの本の校正も頼まれてやっている。自伝的要素の強い著作ゆえに、編集や校正の仕事を通し青木さんの人生を私も伴走させられたような気分がある。当社の刊行と言っても、実は青木さんご自身が本の内容を決め、原稿入力や印刷屋との折衝もされており、私は修正や校正はするが、完成した本を預かり販売するケースが殆どだった。事前に入力済の原稿を示され、樽見さんが不要と思うものは全部削除するからと言われていたが、多少修正はしても大きな変更は要請していない。ただ、前記『古書肆・弘文荘訪問記』は大変気を使われた本であった。慎重を期して私が事前に原稿を読み、青木さんご自身のことが余に強く出ている多くの部分を削除して頂いた。自分のことが前面に出過ぎるとテーマがぼやけて読み難くなるのである。この本は坪内祐三さんが高く評価してくれたこともあって再版することになった。だが青木さんにとって削除は不本意だったのだと思う。それ以降しばらく事前に原稿が提示されることは無かった。再び内容的にも私が関わるようになったのは、2019年の『古書市場が私の大学だったー古本屋控え帳自選集』以降かと思う。最後の3冊『古書と生きた人生曼陀羅図』『戦時下の少年読物』『昭和の古本屋を生きる―発見、発見の七十年だった』は本当に最後の力をふり絞るようにして刊行されたもので、死力を注ぎ書き尽くされたとの思いが強い。著書を出すことに対する情熱・執念は常に驚嘆に値するものだった。

 その青木さんとの長いお付き合いの中で忘れられない一言がある。2012年11月号が「日本古書通信」の通巻1000号で、一時は40数頁もあったのに減りに減ってしまった後半の古書目録欄を充実させようと、お付き合いのある古書店にお願いして40軒ほどの協力が得られた。その折、青木さんにもお願いしたのだが、青木さんは「樽見さん、わたしはもう現役ではないし、古本屋が古書目録を出すというのは、戦いのようなもので、必死の覚悟がなくては出来ないんだよ。付き合いで出すようなことは出来ない」と即答で断られた。勿論頼んだ側として落胆はしたが、青木さんらしい言葉だと思い、嫌な気持ちは起こらなかった。

 青木さんにとって商いは戦いそのものだった。それは古い古書業界の慣習を破るべく生涯をかけた反町さんや、下町の古本屋から詩歌書専門店として全国に名を轟かせ今も語り継がれるまでになる飯田さんの戦いとも共通している。語弊があるかもしれないが、古書業界は震災や戦災からの復興時に最大の役割を果たして来た。三人というか彼等の同世代の古書業者は皆どこかで同じ歩みをしてきたと私は思っている。

 日本古書通信の編集を通し、私はいつからか戦争とそこからの復興に古本屋として活躍された方々の話を記録したいと思うようになった。これも青木さんの影響かと思う。ちくま文庫『古本屋群雄伝』(2009)は青木さんにしか書けない名著である。それに比べ今回から古書組合機関誌に連載する拙稿は、残念ながら青木さんのようには書けない。取材記録と記憶だけで書くだけである。組合史という枠からは零れ落ちてしまう個人的な話が多くなるかと思うが、しばしお付き合い願えれば幸いである。

 
 


 
 
(「全古書連ニュース」2023年5月10日 第494号より転載)

※当連載は隔月連載です

 
 
日本古書通信社
https://www.kosho.co.jp/kotsu/

Copyright (c) 2023 東京都古書籍商業協同組合

2023年6月26日号 第373号

■■■ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ■■■
 。*..*.:☆.:*・日本の古本屋メールマガジン・*:.☆.:*..*。
     。.☆.:* その373・6月26日号 *:.☆. 。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

このメールは「日本の古本屋会員」の方で、メールマガジンの配信
を希望された方にお送りしています。
ご不要な方の解除方法はメール下部をご覧下さい。
【日本の古本屋】は全国999古書店参加、データ約659万点掲載
の古書籍データベースです。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

☆INDEX☆
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
1.『フォークナーの語りと創造世界』
             梅垣昌子 (名古屋外国語大学教授)

2.『シティ・ライツ ノート』
            編集サークル街から舎 主宰・本間健彦

3.『銭湯』は「すごい小説」ではない
                          福田節郎

4.『戦後デザインの最大の謎、杉浦康平のアジア転回を解き明かす。』
 (杉浦康平のアジアンデザイン)

              エディトリアルデザイナー 赤崎正一

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
━━━━━━━━━【大学出版へのいざない7】━━━━━━━━━━━

『フォークナーの語りと創造世界』
              梅垣昌子 (名古屋外国語大学教授)

 ノーベル賞作家のウィリアム・フォークナーには三つの顔があります。
詩人、作家、そして脚本家の顔です。自らを「挫折した詩人」と呼んだ
フォークナーは、十代で詩を書きはじめたのですが、ロバート・フロス
トのように海外で知名度をあげるべく、渡欧の足がかりとしてニューオ
ーリンズを訪れました。しかし意外にもそこで作家デビューを果たし、
二十代の後半で長編第一作を出版する運びとなります。三十代のはじめ、
ヨクナパトーファ・サーガの嚆矢となる作品を手がけたころから、経済
的な事情もあって脚本書きの仕事を始め、故郷ミシシッピとハリウッド
の間を断続的に行き来するようになります。四十代の後半、批評家マル
カム・カウリーの編集による作品選集「ポータブル・フォークナー」が
世に出てまもなくノーベル文学賞を受賞したフォークナーは、五十代の
後半で映画の仕事に終止符を打ちました。

続きはこちら
https://www.kosho.or.jp/wppost/plg_WpPost_post.php?postid=11778

書名:『フォークナー 語りの力 その創造性の起源へ』
著者名:梅垣昌子
出版社名:名古屋外国語大学出版会
判型:A5/製本:形式上製/ページ数:445頁
税込価格:4,950円(本体4,500円)
ISBNコード:978-4-908523-24-3
Cコード:0098
2023年8月下旬刊行予定
https://nufs-up.jp/

━━━━━━━━━━【自著を語る(309)】━━━━━━━━━━

『シティ・ライツ ノート』
              編集サークル街から舎 主宰・本間健彦

 本書は本年(2023年)3月末に、わたしの主宰する編集サークル街か
ら舎という個人事務所から刊行されました。補足説明をさせていただく
と――。実は、街から舎は編集プロダクション業務を行う株式会社とし
て1985年に創業し、2000年代入ってからは小さな出版事業にも手を染め
てきたのですが、コロナ禍の昨年8月に会社組織を解散し、仲間と編集サ
ークルを立ち上げ、身の丈にあった編集業務を続行していこうと方針転
換を図りました。つまり本書は表向き街から舎が版元となって刊行する
かたちをとっていますけれど、実情はいわば自主出版だったということ
になります。

続きはこちら
https://www.kosho.or.jp/wppost/plg_WpPost_post.php?postid=11785

『シティ・ライツ ノート』
街から舎刊
本間健彦著
税込価格:2,200円(税込)
ISBNコード:9784939139284
好評発売中!
https://machikarasha.thebase.in/items/73875259

━━━━━━━━━━【自著を語る(310)】━━━━━━━━━━

『銭湯』は「すごい小説」ではない
                            福田節郎

 皆さん、どうも初めまして、福田節郎と申します。
 この度、「自著を語る」というテーマで原稿依頼をいただきました。
要するに著作を解説せよということでしょうが、『銭湯』は小説であり、
しかも筋らしい筋がなく、無理やりあらすじのようなものにまとめたり、
一言で簡潔に言い切ってしまうのは小説そのものに対する冒とくだと考え
ているので、内容は説明できません。とりあえず銭湯の話ではいっさいな
いということくらいしか言えず、買って読んでもらうより他ありません。
すみません。とは言え、一人でも多くのメルマガ読者の方に『銭湯』に興
味を持っていただき、その購入につなげることが私の責務ですから、購買
意欲を掻き立てるような文章を書かねばなりませんが、私自身はこの『銭
湯』(また併載されている「Maxとき」)という作品を手放しで勧められる
ような「すごい小説」だとはまったく思っていません。

続きはこちら
https://www.kosho.or.jp/wppost/plg_WpPost_post.php?postid=11770

『銭湯』(第4回ことばと新人賞受賞作)
書肆侃侃房刊
福田節郎著
ISBNコード:978-4-86385-577-9
定価:1,600円(税抜)
好評発売中!
http://www.kankanbou.com/books/novel/0577

Twitter
https://twitter.com/sentonokoto

━━━━━━━━━━━━【プレゼント企画】━━━━━━━━━━━━

文学ムック『ことばと』(『銭湯』掲載)と
短歌カタログ『31文字の世界』(書肆侃侃房発行)の2冊セットを
抽選で5名様にプレゼント致します。
ご応募お待ちしております。

応募申込は下記ページにてお願い致します。
 締切日 6月28日(水)午前10時

https://www.kosho.ne.jp/entry2023/0626/0626.html

━━━━━━━━━━【自著を語る(番外編)】━━━━━━━━━━

『戦後デザインの最大の謎、杉浦康平のアジア転回を解き明かす。』
(杉浦康平のアジアンデザイン)

                 エディトリアルデザイナー 赤崎正一

■戦後デザインの巨星、杉浦康平の「謎」
 杉浦康平は誰もが知る戦後日本を代表するグラフィックデザイン界の巨星
です。90歳を超えた2023年の今なお、現役として活躍し続けています。

 70年近くにおよぶ活動の中で生み出された作品は膨大です。そのため全貌
を把握することはきわめて困難でもあります。単に作品の量が多いからばか
りではなく、そこには大きな「謎」があると受け止められてきたことも理由
の一つです。

 1950年代末から60年代の、若い戦後デザイン界で、20代の杉浦康平は先端
を疾る寵児でした。スイス・ドイツ的モダンデザインとも、アメリカ的デザ
インとも一線を画した、斬新で怜悧な理知的デザインが人々を魅了しました。

続きはこちら
https://www.kosho.or.jp/wppost/plg_WpPost_post.php?postid=11755

赤崎正一
1951年東京生れ。エディトリアルデザイナー。
神戸芸術工科大学名誉教授。
現在、『世界』(岩波書店)のデザインなど担当。

『杉浦康平のアジアンデザイン』
新宿書房 刊
港の人 発売
杉浦康平 著
神戸芸術工科大学アジアンデザイン研究組織 著
赤崎正一 編
黄國賓 編
定価:4,290円(税込)
ISBN:9784896294194
好評発売中!
http://www.shinjuku-shobo.co.jp/
http://www.shinjuku-shobo.co.jp/new5-15/html/mybooks/483_Sugiura.html
https://www.minatonohito.jp/book/419/

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

「コショなひと」始めました

東京古書組合広報部では「コショなひと」というタイトルで動画
配信をスタート。
古書はもちろん面白いものがいっぱいですが、それを探し出して
売っている古書店主の面々も面白い!
こんなご時世だからお店で直接話が出来ない。だから動画で古書
店主たちの声を届けられればとの思いで始めました。
お店を閉めてやりきったという店主、売り上げに一喜一憂しない
店主、古本屋が使っている道具等々、普段店主同士でも話さない
ことも・・・
古書店の最強のコンテンツは古書店主だった!
是非、肩の力を入れ、覚悟の上ご覧ください(笑)

コショなひと 盛林堂書房
☆おまけ☆古書店主の古本談義「古書コショばなし」 盛林堂書房 編

YouTubeチャンネル「東京古書組合」
https://www.youtube.com/@Nihon-no-Furuhon-ya

━━━━━━━━━━━━━【次回予告】━━━━━━━━━━━

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
「大学出版へのいざない」シリーズ 第8回

書名:『皇室財政の研究――もう一つの近代日本政治史』
著者名:加藤祐介
出版社名:名古屋大学出版会
判型:A5/製本形式:上製/ページ数:414頁
税込価格:6,930円
ISBNコード:978-4-8158-1126-6
Cコード:C3021
2023年7月刊行予定
https://www.unp.or.jp/ISBN/ISBN978-4-8158-1126-6.html
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
『古今善本録-蔵書が伝える図書館150年の軌跡』
発行:立正大学図書館
編集:立正大学図書館品川学術情報課
販売総代理店:極東書店
税込価格:16,500円(税込)
ISBNコード:978-4-907075-09-5
好評発売中!
https://www.kyokuto-bk.co.jp/topics/KF-2237.pdf
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
「2023年上半期の古ツアをふり返る」(仮題)
古本屋ツアーインジャパン 小山力也
http://furuhonya-tour.seesaa.net/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

━━━━━━━━━【日本の古本屋即売展情報】━━━━━━━━

6月~7月の即売展情報

⇒ https://www.kosho.or.jp/event/list.php?mode=init

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

見逃したメールマガジンはここからチェック!
 【バックナンバーコーナー】

https://www.kosho.or.jp/wppost/plg_WpPost_category.php?catid=43

┌─────────────────────────┐
 次回は2023年7月中旬頃発行です。お楽しみに!
└─────────────────────────┘

*☆ 本を売るときは、全古書連加盟の全国の古書店に ☆*
全古書連は全国古書籍商組合連合会(2,200店加盟)の略称です

https://www.kosho.or.jp/buyer/list.php?mode=from_banner

==============================

日本の古本屋メールマガジン その373・6月26日

【発行】
 東京都古書籍商業協同組合:広報部・「日本の古本屋」事業部
 東京都千代田区神田小川町3-22 東京古書会館
 URL  https://www.kosho.or.jp/

【発行者】
 広報部・編集長:藤原栄志郎

==============================

・メールマガジンの購読停止、アドレスの変更はマイページから
 お願い致します。
  https://www.kosho.or.jp/mypage/

・このメールアドレスは配信専用です。
 返信いただいても対応致しかねます。ご了承下さい。

・メールマガジンの全てまたは一部を無断転載することを禁じます。

・メールマガジンの内容に対するご意見、ご感想は
  melma@kosho.ne.jp までお願い致します。

・メールマガジン内容以外のご質問は info@kosho.or.jp へお願い
 いたします。なお、ご質問の内容によりましては、返信が大幅に
 遅れる場合もございます。ご了承下さい。

============================================================
☆*.:*゜*・゜☆*.:*゜*・゜☆*.:*゜*・゜☆*.:*゜*・゜☆*.:*・
============================================================

city_lights_note

『シティ・ライツ ノート』

『シティ・ライツ ノート』

編集サークル街から舎 主宰・本間健彦

 本書は本年(2023年)3月末に、わたしの主宰する編集サークル街から舎という個人事務所から刊行されました。補足説明をさせていただくと――。実は、街から舎は編集プロダクション業務を行う株式会社として1985年に創業し、2000年代入ってからは小さな出版事業にも手を染めてきたのですが、コロナ禍の昨年8月に会社組織を解散し、仲間と編集サークルを立ち上げ、身の丈にあった編集業務を続行していこうと方針転換を図りました。つまり本書は表向き街から舎が版元となって刊行するかたちをとっていますけれど、実情はいわば自主出版だったということになります。

 この『シティ・ライツ ノート』という本は、わたしにとって単著としては9冊目の単行本ということになります。モノ書きの著作数としては寡作ですね!とよく言われるのですが、わたしは編集業を生業としてきまして、その合間に「これって本になりそうだな!」と閃いた人物や事象に出会うと、本を出してくれそうな出版社を探して企画を売り込み出版してもらってきたのです。そんな無名のノンプロ・ライターによる著述業なので、この位の著作数が精一杯だったのでしょう。

 わたしは編集業を生業にしてきたわけですけれど、その遍歴をかいつまんで申しあげますと。『話の特集』の編集者を経て、1969年6月から72年3月まで新宿のタウン誌『新宿プレイマップ』の編集長を務め、その後はフリーランスの編集者・ライター稼業に長く従事したのち、冒頭に記したように(株)街から舎を設立して主宰するようになります。そして1992年10月、『街から』と題したミニコミ誌を有志市民と共に創刊し、街から舎から隔月刊で刊行してきました。

 『街から』は、その誌名のためだったのか、外目にはタウン誌のように映っていたようですけれど、わたしたちスタッフは「シティ・マガジン」(市民誌)を標榜してきました。その理由は「インディペンデント・マガジン創ろう!」という意向と志を持った<有志市民>たちのメディアを目指したからでした。自立メディアを創りたいというのは、わたしの長い間の夢であり宿題だったのですが、しがないフリーランサーの身では日々の生活に追われるばかりで、実現の見通しなどとても立てられなかった。ところがあるとき、ふっと、「ミニコミ誌なら作れるのではないか・・・」という発想が啓示のように閃いたんですね。

 ミニコミというのは、60年代末から70年代初頭にかけ、カウンター・カルチャーの蜂起した時代に活字志向の若者たちが、あるべき姿の生き方を模索し表明する表現活動の場として作っていたガリ版刷りやタイプ印刷の手作りの新聞・雑誌の呼称なのですが、90年代にはミニコミを作る若者たちはすでに消滅していて、絶滅危惧種のメディアと見做されていました。わたしは当時すでに五十路を迎えていたのですけれど、何を血迷ったのか、あの時代にアヴァンギャルド志向の若者たちが創っていたミニコミの事を思い出し、その手法にヒントを得て無謀にも「街から」誌の刊行に踏み切ったのです。 

 では、ミニコミの手法とはどんなものだったのでしょうか。端的に言えば、自立メディアを創るためには非商業主義路線をどれだけ徹底して歩めるかどうかという点が要諦でした。『街から』が律した要諦は、①市民会員を募り、会費として購読料をいただく。②『街から』誌の雑誌作りの方針に賛同してもらえる企業及び店舗に限定して広告料を取得する。③編集発行人及び編集スタッフ(ボランティア参加)の報酬はなし。ただし編集制作に要する経費は清算して支払う。④寄稿者やインタビュー取材をお願いした方に対する原稿料や謝礼の支払はしない。⑤雑誌編集発行に要する経費は、①と②を集計した収入によって賄う事を原則とする。以上のような点だった。

 ずいぶんけち臭く、情けない手法なのですけれど、このような手法を貫かなければ、ミニコミ誌とはいえ自立メディアを立ち上げ存続させて行くことは不可能なのだ、と判断したうえでの選択でした。

 しかし難題や課題は他にもあった。最も憂慮したのは、『街から』誌が対象とする<有志市民>が果して存在するのか否かという点でした。というのも『街から』の希求した<有志市民>というのは、こよなく自由を愛し、それぞれの人びとが各自のあるべき姿の生き方を目指す、そういう市民像を対象としていたからです。けれどもご承知のように、日本の社会には地域社会は存在するけれど、市民社会は未成熟と見做さざるを得ませんし、それゆえ市民意識も確立されているとはいえない状況が露見していたからです。

 創刊当初、この国はバブル経済崩壊直後でまるで氷河期に突入するような時代であったので、友人・知人たちからは「どうせ3号雑誌に終るのだろうから、無謀な冒険は止めといた方がいいぞ」とずいぶん忠告を受けました。その危惧の念はミニコミ手法の貫徹で何とかしのぎ3号雑誌で終ることなく持続することはできたのですが、市民会員を増大し、市民が作る自立メディアとして大きく発展させるまでに至らなかったのは、わたしたちの力不足だったという点は否めなかったにしても、やはりこの国の市民社会の未成熟な点や市民意識の希薄な国民性という根深い壁にはばまれたのではないかという想念を抱かざるを得ませんでした。

 そんな閉塞状況のなかで苦戦は免れなかったのですが、何とか『街から』は持続することができ、2000年12月に通巻50号を刊行する事ができました。隔月刊の発行で、創刊9周年目に達成できたのです。わたしたちにとってはまさに快挙!でした。50号の刊行を記念して街から舎ではインタビュー集『人間屋の話』という単行本を出版しています。この本はわたしがそれまでの『街から』に掲載してきた<有志市民>のオピニオンたち16人に対するインタビュー記事で編纂したもので、和田誠さんにカバーデザインをお願いしていて、その後、街から舎が出版事業に進出する端緒となる出版でした。

 この『人間屋の話』を出版した際の出来事で今なお印象深く心に刻まれているのは、16人の登場人物のひとりで、序文の執筆まで引き受けてくださった故マルセ太郎さん(<笑いの哲人>として誉れ高かった方です)の次の言葉です。

 われわれのような権力から遠い者は、一人ひとり無力かもしれない。しかし
野球にたとえれば、せめて良き外野席の客になることはできるだろう。歴史を
しっかり見よう。世の中には、少数派ではあるが、常に弱者への視点を失わな
いで闘っている勇気の人がいる。彼らを孤独にさせてはならない。外野席から
でも拍手を送ろう。『街から』のようなミニコミ誌なら、それができるはずだ。

これはマルセ太郎さんから、街の小さなメディアをこつこつと作っているわたしたちへの激励のメッセージだったのだと思います。わたしたちはマルセさんがともしてくれた灯りをかかげ、ほふく前進を続けてきました。発行部数の伸び方の微小さには頭を痛めていましたが、手ごたえは感じていました。

 けれども、2000年代に入ると、周知のようにインターネットの普及により若い人たちのあいだでは、ブログやツイッターで自分の意見や情報を発信し、情報交換する日常が普遍化し、それにともない新聞や雑誌など印刷媒メディア離れが加速する現実に直面することになります。また、経済至上主義の縦断爆撃現象が人びとの日常・価値観・生き方に根深く浸透している様子をニュース見聞するにつけ、人間は壊れつつあり、人類は破滅の道を突き進んでいるのではないかという危惧を抱かざるを得ませんでした。

 だがしかし、わたしたちも結局、強大な圧力とわたしたちを取り囲む超大に壁に阻まれ、敗北するしかなかったのだな・・・と見做す事になります。でも、たぶん多くの皆さんは、街の片隅の小さなメディアの敗北物語などに耳を傾けたくはないでしょうし、当事者としても、もうこれ以上語りたくはありません。なので、結果だけを申し上げておきましょう。

 • 20019年3月、『街から』は通巻157号を刊行し、終刊としました。

 本書『シティ・ライツ ノート』は、数本他誌に寄稿した記事が入っていますけれど、大半は『街から』に掲載されたわたしのインタビュー記事、ルポ、コラム、編集後記などのなかから記事を選抜し編纂しました。添付したチラシに目次を記してありますので、ご覧いただき、もし関心のありそうな記事がございましたら、本書をご購入いただき、お読み頂ければ幸甚です。

 蛇足かもしれませんが、本書を刊行した意図を付け加えておきます。それは、『街から』というミニコミ誌にどんな面々が賛同して加わってくださっていたのか、その一端を是非記録しておきたかったからなのです。

 
 
 
 


『シティ・ライツ ノート』
街から舎刊
本間健彦著
税込価格:2,200円(税込)
ISBNコード:9784939139284
好評発売中!
https://machikarasha.thebase.in/items/73875259

Copyright (c) 2023 東京都古書籍商業協同組合

faulkner

『フォークナーの語りと創造世界』 【大学出版へのいざない7】

『フォークナーの語りと創造世界』 【大学出版へのいざない7】

梅垣昌子 (名古屋外国語大学教授)

 ノーベル賞作家のウィリアム・フォークナーには三つの顔があります。詩人、作家、そして脚本家の顔です。自らを「挫折した詩人」と呼んだフォークナーは、十代で詩を書きはじめたのですが、ロバート・フロストのように海外で知名度をあげるべく、渡欧の足がかりとしてニューオーリンズを訪れました。しかし意外にもそこで作家デビューを果たし、二十代の後半で長編第一作を出版する運びとなります。三十代のはじめ、ヨクナパトーファ・サーガの嚆矢となる作品を手がけたころから、経済的な事情もあって脚本書きの仕事を始め、故郷ミシシッピとハリウッドの間を断続的に行き来するようになります。四十代の後半、批評家マルカム・カウリーの編集による作品選集「ポータブル・フォークナー」が世に出てまもなくノーベル文学賞を受賞したフォークナーは、五十代の後半で映画の仕事に終止符を打ちました。

 ノーベル文学賞の受賞スピーチで、フォークナーは次のように述べています。「昨今、ものを書く若い人たちは、人間の心の中に生まれる抜き差しならぬ葛藤を描くことを忘れてしまっています。この葛藤こそが優れた作品を生み出すのであり、唯一この葛藤こそが、七転八倒して文章を紡ぎ出すに値するテーマなのです。」作家にとって、何を語るかということが重要であることはいうまでもありません。しかし、第一次世界大戦の時に多感な思春期を過ごした「失われた世代」の一人であり、モダニズムの作家として知られるフォークナーは、「どう語るか」ということに終生、強いこだわりを示していました。すなわち、時代性や地域性と強く結びついた「葛藤」について、いかに普遍性を獲得した手法で語り尽くすのか、それが彼の創造性の根幹と強く結びついています。フォークナーは、あるインタビューの中で、芸術性や技量の高さの要求度という観点からすれば、詩が最高峰であり、その次が短編であるという考えを語っています。すなわち彼は、短編小説というのが、緻密な構成力と芸術的な手腕を要求する、重要な表現形式であると考えていたのです。

 本書では、フォークナーの詩人と脚本家の側面を視野にいれつつ、彼の作家としての創作技法の特徴に照らして、その作品世界のひな型ともいうべき短編小説を主な考察の対象としています。本書の前半では、短編作品を重点的に扱い、フォークナー文学の根幹をなす語りの手法をつぶさに分析したうえで、後半では脚本の仕事に目を移し、彼の緻密な構成力を観察します。最後にフォークナーが詩人から作家へと変貌を遂げたニューオーリンズでの創作活動に注目し、彼の詩的想像力と語りの力の起源へ遡るという道筋をとっています。

 フォークナーは、モダニズムの金字塔ともいうべき『響きと怒り』を執筆していますが、本書では、そこで芽生えたフォークナーの語りの四つの原型を出発点として、「土地」「時空間」「視点」「起源」という四つの軸を中心に、フォークナーの創造世界に分け入ります。フォークナーはかつて、自分の創造する世界を「宇宙の楔石(くさびいし)」にたとえ、「もしそれが失われたならば、宇宙自体が崩壊する」と語りました。創造することで崩壊をくい止めるフォークナーの楔石と、それを嵌め込む現実世界の迫石(せりいし)との接合面には、どのような摩擦が働き、その圧着を促していたのか。また、フォークナーのどのような語りがそれを可能にし、楔石が支えるアーチをくぐった先には、何が待っているのか。こういったことへの答えを探るべく、本書で扱う作品には、彼が重視した形式である短編を中心に、フォークナーの生きたアメリカ南部の現実を直接的あるいは間接的に鋭く照射するものを選びました。たとえば「あの夕陽」という作品では、白人の子供と黒人女性の交流の物語を黒人音楽のブルースとの関連性に触れつつ論じ、「乾燥の九月」については、ヘイトクライムを生んだ共同体のメカニズムに言及しています。そのほか、アメリカ先住民を扱った作品では、黒人奴隷との関係性に焦点をあてています。

 フォークナーは1955年、米国国務省の文化親善大使として来日しました。その際、東京、長野、京都の各地でセミナーや座談会などに参加し、川端康成、大岡昇平、高見順らと直接語りあって、日本の文壇に鮮烈な印象を残しました。本書では、その後長く定着していた、ノーベル賞作家としてのフォークナー像に新たな光をあて、彼の作品に密着しつつその創造性の起源の多角的な解明を試みています。

 
 
 
 
 


書名:『フォークナー 語りの力 その創造性の起源へ』
著者名:梅垣昌子
出版社名:名古屋外国語大学出版会
判型:A5/製本:形式上製/ページ数:445頁
税込価格:4,950円(本体4,500円)
ISBNコード:978-4-908523-24-3
Cコード:0098
2023年8月下旬刊行予定
https://nufs-up.jp/

Copyright (c) 2023 東京都古書籍商業協同組合

sento

『銭湯』は「すごい小説」ではない

『銭湯』は「すごい小説」ではない

福田節郎

 皆さん、どうも初めまして、福田節郎と申します。
 この度、「自著を語る」というテーマで原稿依頼をいただきました。要するに著作を解説せよということでしょうが、『銭湯』は小説であり、しかも筋らしい筋がなく、無理やりあらすじのようなものにまとめたり、一言で簡潔に言い切ってしまうのは小説そのものに対する冒とくだと考えているので、内容は説明できません。とりあえず銭湯の話ではいっさいないということくらいしか言えず、買って読んでもらうより他ありません。すみません。とは言え、一人でも多くのメルマガ読者の方に『銭湯』に興味を持っていただき、その購入につなげることが私の責務ですから、購買意欲を掻き立てるような文章を書かねばなりませんが、私自身はこの『銭湯』(また併載されている「Maxとき」)という作品を手放しで勧められるような「すごい小説」だとはまったく思っていません。

 この作品が刊行されることになったのは、表題作である「銭湯」という作品が版元(書肆侃侃房)主催の第4回ことばと新人賞を受賞したことによります。同新人賞は純文学を対象とする、いわゆる五大文芸誌に紐づく新人賞と比較すれば、その規模はずっと小さなものですが、選考委員の方々は掛け値なしに素晴らしく、というか、個人的には文学新人賞のなかでは最もグッとくるラインナップです。選考委員の名前をここに記すことはしませんが、とにかくそういった方々にいちおうは「受賞でいいよ」「本を出してもいいんじゃないか」と認められるような形で刊行されたことにはなるわけで、私自身がこの本を「推せる」としたら、ただただその一点しかありません。もちろんそれは光栄だし、めちゃくちゃすごいことですけどね。あ、もう一点、装丁が大変かわいらしく、本当に素敵で、本そのものとしての魅力にあふれた造りになっていることも推せるポイントです。選考委員と造本の素晴らしさというこの二点で本を買ってくださると大変助かります。

 さて、上述した「すごい小説」とはどういったものなのか、私自身が考えるそれは、人の価値観を大きく揺さぶったり、覆してしまったり、思いもよらない示唆を与えたり、とにかく読み手の人生やその選択に強い影響を及ぼす小説です。ところで「銭湯」はまったくそういう小説ではありません。私にはまだそういう小説は書けない。謙遜でも卑下でもなく、そう思っているし、受賞のコメントを求められたときにもそのように書きました。また新人賞というのは本来、今までになかった小説の在りようを提示する作品に与えられるべきものでしょうから、そういった意味で「銭湯」は新人賞にふさわしくないのかもしれません。もちろんそういった事柄は私が考える「すごい小説」に当てはまらないという話で、読んでくださる誰かにとっての「すごい小説」になり得る可能性はあるし、なにか見どころがあるから受賞に至ったのだろうと信じたいし、ありがたい感想もたくさん頂いているけれど、なんにせよ、自分では「すごい小説」だとはとても言えない。だから小説を読むことに劇的な意味や過剰な期待を求める方には、まったくオススメできません。『銭湯』という本におさめられている二つの小説は、どちらも取るに足らないものです。取るに足らない小説の良さだって、もちろんあるわけですが。

 また冒頭に書きましたが、筋らしい筋がなく、自分で言うのもなんですが、文章はかなりまどろっこしく、わかりやすい心地よさ、手っ取り早い楽しさは得られません。しかもそれなりに長いので、「一度ページを開いたらどんなにつまらなくても最後まで読み通す」派の方々にとっては苦行になる可能性がかなり高いと思われます。それから人は死なず、不治の病にも罹らず、大きな事件も起きません。ただ出てくる人々は精一杯生きています。書肆侃侃房のサイトから試し読みができるのでリンクを貼っておきます。

https://note.com/kankanbou_e/n/n86a1143dc1b2?magazine_key=m1c3b12626069

 とにかく「すごい小説」ではないことを言いましたが、ある程度は笑える小説だと思っています。それだってツボにはまる人はかなり少ないというか、ウケてくれる人はだいぶ世間からずれているだろうと失礼ながら思ってしまいますが、それでも「銭湯」で描かれている、私自身がそうである、貧しくてわがままでどうしようもない、でもそれなりに年を重ねてはいる大人たちがえんえんと酒を飲んだり、テキトーなことを言ったり、わけのわからない話で盛り上がったり、そういう取るに足らないことに真剣に向き合っている様は、自分で言うのもなんですが、なかなか面白く、少しだけ泣けて、読み手の人生を1ミリも動かしはしないにせよ、ちょっとした慰謝になるのかもしれない、まあなんか、明日もどうにか生きてやるかと思うその手助けくらいにはなるのかもしれないと考えたりもします。私の小説が誰かにとってそういう小説になりえるのなら、それはたぶん誇りに思っていい。でも私は「すごい小説」を書きたい。自分が信じる「すごい小説」をいつか書くために、自分が書いた人々のように、ちっとも冴えない毎日をあの手この手で楽しみながらどうにかこなしています。

 まったく「自著を語る」というテーマにふさわしくない文章になってしまいましたが、『銭湯』という小説や小説を書くことについての考えを少しだけ書きました。一人でも多くの方に『銭湯』を手に取ってもらえたら幸いです。増刷なんかされちゃったら超嬉しいです。よろしくお願いいたします。

 
 
 
 


『銭湯』(第4回ことばと新人賞受賞作)
書肆侃侃房刊
福田節郎著
ISBNコード:978-4-86385-577-9
定価:1,600円(税抜)
好評発売中!
http://www.kankanbou.com/books/novel/0577

Twitter
https://twitter.com/sentonokoto

 
 
 


『31文字の世界』(書肆侃侃房短歌カタログ)
書肆侃侃房刊
非売品・無料冊子

Copyright (c) 2023 東京都古書籍商業協同組合

asian_design

『戦後デザインの最大の謎、杉浦康平のアジア転回を解き明かす。』 (杉浦康平のアジアンデザイン)

『戦後デザインの最大の謎、杉浦康平のアジア転回を解き明かす。』 (杉浦康平のアジアンデザイン)

エディトリアルデザイナー 赤崎正一

戦後デザインの巨星、杉浦康平の「謎」

 杉浦康平は誰もが知る戦後日本を代表するグラフィックデザイン界の巨星です。90歳を超えた2023年の今なお、現役として活躍し続けています。

 70年近くにおよぶ活動の中で生み出された作品は膨大です。そのため全貌を把握することはきわめて困難でもあります。単に作品の量が多いからばかりではなく、そこには大きな「謎」があると受け止められてきたことも理由の一つです。

 1950年代末から60年代の、若い戦後デザイン界で、20代の杉浦康平は先端を疾る寵児でした。スイス・ドイツ的モダンデザインとも、アメリカ的デザインとも一線を画した、斬新で怜悧な理知的デザインが人々を魅了しました。

 その杉浦が70年代末から80年代に入って、誰も想像しなかった境地へと至ります。さまざまに意味と象徴を内在した図像が配置され、溢れる色彩によって画面が埋め尽くされる「豊穣」なデザインの登場です。「モダニズム」とは遥かに距離を隔てた「アジアンデザイン」の誕生です。

 どのようにして、このような前期「杉浦デザイン」から後期「杉浦デザイン」への転換が起こったのでしょうか? そこには何らかの切断があったのでしょうか? 多くの人にとって、それは長く「謎」として残りました。

「疾風迅雷」/「脈動する本」/アジアンデザイン研究所

 「謎」が「謎」のままであったのは、長く杉浦自身がデザイン表現についても、またその背景となる心境についても、一切語ることがなかったからです。本書のインタビューで、杉浦自身は「多忙のあまり」と言い訳をしますが、明らかに自己言及への禁欲があったはずです。

 それでも21世紀に入ってから、2004年の雑誌デザインの回顧展「疾風迅雷」(ギンザ・グラフィック・ギャラリー)と、2011年の書籍デザインの回顧展「脈動する本」(武蔵野美術大学美術館・図書館)が開催され、それぞれの充実した図録が刊行されたことによって、その全貌への見通しは格段に開けました。

 また勤務校であった神戸芸術工科大学内に2010年、アジアンデザイン研究所が設置されたことで、「アジアンデザイン」は公式に研究領域として扱われることになりました。所長として杉浦自身が就任し、多くの留学生をふくむ若い後進たちに、杉浦が長年暖めていた、デザインの領域をも超えるより広範な、図像表現に内在する象徴性の研究が受け継がれました。

連続インタビュー

 本書のもととなる連続インタビューは、神戸芸術工科大学の研究メンバー3名(赤崎正一・入江経一・黃國賓)によって2017年度の学内共同研究として実施されました。

 その後、テキスト編集、図版類の収集・撮影などの作業をすすめ、2022年度の学内出版助成制度の援助を受けて今回の刊行に至りました。

 私たち研究メンバーの質問に対して、杉浦はじつに率直に応えてくれました。細部にわたる明瞭な記憶で、長期間の活動の、その時々の詳細が生き生きと語られました。

 内容はデザイン制作の手法や発想についてばかりではなく、30代前半で招聘教授として赴任した西ドイツ(当時)ウルム造形大学の教育の場で直面した、深甚な「アジア人」としての自覚という、のちの「アジアンデザイン」の原点とも言える体験と、その心境についても雄弁なものでした。

 インタビューによって知り得たのは、杉浦の終始一貫しているデザイン思考と、表現の質に対する偏執的とも言えるこだわりです。表面に現れる外形的なデザインの相違にも関わらず、常に自律システム的に「プロセス」の中で成立するデザインへの志向です。独創的なアイデアによって、印刷技術工程の内部にまで遡る技法の発想なども一貫しています。

杉浦プロトコル

 われわれ受け手の側の印象の分裂とはまったく異なる、時代を超えて常にどのような対象であっても、その本質に立ち帰って統合的に把握し、デザインへと再構築していく強い意志こそが杉浦デザインの特徴でした。

 そのような姿勢を研究メンバーのひとり入江経一は「杉浦プロトコル」と呼び、その原則的な不変性を指摘しました。

 深層にある不変の姿勢から導き出された「アジアンデザイン」の提示は、日本近代、とりわけ「戦後デザイン期」におけるモダンデザインへの信奉の態度をあらためて問い直すものです。

 杉浦自身によって「アジアンデザイン」が詳細に語られた本書は、これまで前提とされてきた「近代」の「デザイン」の在り方そのものを問うものです。

 そして、これまでのデザイナーの、社会における自己認識と身の処し方への不断の問いかけでもあります。

本書のブックデザイン

 全体構成と基本組版設計、およびモノクロ本文ページの組版・デザインの実務は研究メンバーの赤崎が担当しました。

 装丁とカラー図版ページのデザインは、神戸芸術工科大学出身で、現在出版デザインの世界で活躍のめざましい佐野裕哉が、杉浦デザインへのオマージュ的再解釈を試みて、新世代によるブックデザインを提示しました。

 
 
 
 
赤崎正一
1951年東京生れ。エディトリアルデザイナー。
神戸芸術工科大学名誉教授。
現在、『世界』(岩波書店)のデザインなど担当。

 
 
 
 


『杉浦康平のアジアンデザイン』
新宿書房 刊
港の人 発売
杉浦康平 著
神戸芸術工科大学アジアンデザイン研究組織 著
赤崎正一 編
黄國賓 編
定価:4,290円(税込)
ISBN:9784896294194
好評発売中!
http://www.shinjuku-shobo.co.jp/
http://www.shinjuku-shobo.co.jp/new5-15/html/mybooks/483_Sugiura.html
https://www.minatonohito.jp/book/419/

Copyright (c) 2023 東京都古書籍商業協同組合

2023年6月9日号 第372号

■■■ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ■■■
 。*..*.:☆.:*・日本の古本屋メールマガジン・*:.☆.:*..*。
 古書市&古本まつり 第125号
      。.☆.:* 通巻372・6月9日号 *:.☆. 。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

メールマガジンは、毎月2回(10日号と25日号)配信しています。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

━━━━━【古本屋でつなぐ東北(みちのく)余話】━━━━━━

東北の古本屋―広がる古本の裾野

                   (日本古書通信社)折付桂子

 「古本屋でつなぐ東北」は『日本古書通信』二〇二二年八月~二〇二
三年二月号に連載した、東北の若い古本屋さんによるリレーエッセイで
す。自らの針路を決めた古本屋との出会い、一度読まれた本ならではの
想いを込めた売り方の工夫、地方の雄である古本屋三代目の覚悟、古本
屋仲間と交流し情報交換する休日、細々(こまごま)とした地元資料を
整理し伝える難しさ、震災と原発事故を乗越え被災地で頑張る日々、そ
して東北の古本屋として生きることはどういうことか、などについて七
人の店主が胸の内を語ってくれました。そこには、古本屋という仕事に
向き合う真摯な姿勢、地域に対する熱い思いが感じ取れます。一方で、
葛藤もあります。東北はいわば辺境の地。食品でも何でも良い物が中央
へと流れる中で、古本の世界でも同様の状況はあり、地元の資料を地元
で繋いでゆくことの厳しさを阿武隈書房さんが指摘していました。ただ、
そうした悩みを抱えつつも、地域と繋がり、仲間と繋がり、そして地元
の文化を伝えてゆこうという思いは、東日本大震災を経て、より強く
なったように感じます。

続きはこちら
https://www.kosho.or.jp/wppost/plg_WpPost_post.php?postid=11660

━━━━━━━━━【シリーズ書庫拝見14】━━━━━━━━━

東洋文庫 本の旅の果てに

                         南陀楼綾繁

 急に気温が上がった5月10日の午後、私は自転車で坂を上っていた。
目的地は本駒込の「東洋文庫」だ。岩崎久彌が1924年(大正13)に設
立した、東洋学の研究図書館である。

 入り口の巨大な「MUSEUM」という文字を眺めて中に入る。入ってす
ぐがミュージアムショップになっており、その奥に展示室がある。
「フローラとファウナ 動植物の東西交流」という企画展が開催中で、
多くの人が訪れていた。

「新型コロナウイルス禍以来、来場者が落ち込んでいましたが、いまは
元に戻ってきました」と、普及展示部研究員・学芸員の篠木由喜さんは
話す。

続きはこちら
https://twitter.com/kawasusu

東洋文庫
http://www.toyo-bunko.or.jp/

※当ブログの全てまたは一部の無断複製・転載を禁じます

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

「コショなひと」始めました

東京古書組合広報部では「コショなひと」というタイトルで動画
配信をスタート。
古書はもちろん面白いものがいっぱいですが、それを探し出して
売っている古書店主の面々も面白い!
こんなご時世だからお店で直接話が出来ない。だから動画で古書
店主たちの声を届けられればとの思いで始めました。
お店を閉めてやりきったという店主、売り上げに一喜一憂しない
店主、古本屋が使っている道具等々、普段店主同士でも話さない
ことも・・・
古書店の最強のコンテンツは古書店主だった!
是非、肩の力を入れ、覚悟の上ご覧ください(笑)

※今月の新コンテンツはありません。

YouTubeチャンネル「東京古書組合」
https://www.youtube.com/@Nihon-no-Furuhon-ya

━━━━━【6月9日~7月15日までの全国即売展情報】━━━━━

https://www.kosho.or.jp/event/list.php?mode=init

------------------------------
第2回 戸田書店やまがた古本まつり(山形県)

期間:2023/05/02~2023/07/02
場所:戸田書店山形店 特設会場
   〒990-0885 山形市嶋北4丁目2-17

------------------------------
八文字屋書店SELVA店 第1回泉中央セルバ古書市(宮城県)

期間:2023/06/03~2023/06/20
場所:SELVA 2F センターコート
   〒981-3133 宮城県仙台市泉区泉中央1-4-1

------------------------------
書窓展(マド展)

期間:2023/06/09~2023/06/10
場所:東京古書会館 千代田区神田小川町3-22

https://www.kosho.ne.jp/?p=571

------------------------------
好書会

期間:2023/06/10~2023/06/11
場所:西部古書会館  杉並区高円寺北2-19-9

https://www.kosho.ne.jp/?p=620

------------------------------
アクロスモール新鎌ヶ谷古本市(千葉県)

期間:2023/06/10~2023/06/22
場所:アクロスモール新鎌ヶ谷 1F 中央エレベーター前
   千葉県鎌ケ谷市新鎌ヶ谷2-12-1

------------------------------
『BOOK DAY とやま駅』(富山県)

期間:2023/06/10~2023/06/10
場所:富山駅南北自由通路(あいの風とやま鉄道中央口改札前)

https://bookdaytoyama.net/

------------------------------
新興古書大即売展

期間:2023/06/16~2023/06/17
場所:東京古書会館 千代田区神田小川町3-22

https://www.kosho.ne.jp/?p=569

------------------------------
第103回シンフォニー古本まつり(岡山県)

期間:2023/06/21~2023/06/26
場所:岡山シンフォニービル1F  自由空間ガレリア

------------------------------
浦和宿古本いち(埼玉県)

期間:2023/06/22~2023/06/25
場所:さくら草通り(JR浦和駅西口 徒歩5分 マツモトキヨシ前)

https://twitter.com/urawajuku

------------------------------
フジサワ古書フェア(神奈川県)

期間:2023/06/22~2023/07/19
場所:有隣堂藤沢店4階ミニ催事場  JR藤沢駅南口フジサワ名店ビル4階

http://kosho.saloon.jp/spot_sale/index.htm

------------------------------
オールデイズクラブ古書即売会(愛知県)

期間:2023/06/23~2023/06/25
場所:名古屋古書会館 名古屋市中区千代田5-1-12

https://hon-ya.net/

------------------------------
ぐろりや会

期間:2023/06/23~2023/06/24
場所:東京古書会館 千代田区神田小川町3-22

http://www.gloriakai.jp/

------------------------------
高円寺優書会 ※催事が変更になりました(「古書愛好会」からの変更」)

期間:2023/06/24~2023/06/25
場所:西部古書会館  杉並区高円寺北2-19-9

https://www.kosho.ne.jp/?p=726

------------------------------
フィールズ南柏 古本市(千葉県)

期間:2023/06/27~2023/07/18
場所:フィールズ南柏 モール2 2階催事場  柏市南柏中央6-7

------------------------------
東京愛書会

期間:2023/06/30~2023/07/01
場所:東京古書会館 千代田区神田小川町3-22

http://aisyokai.blog.fc2.com/

------------------------------
大均一祭

期間:2023/07/01~2023/07/03
場所:西部古書会館  杉並区高円寺北2-19-9

https://www.kosho.ne.jp/?p=622

------------------------------
西部古書展書心会

期間:2023/07/07~2023/07/09
場所:西部古書会館  杉並区高円寺北2-19-9

https://www.kosho.ne.jp/?p=563

------------------------------
趣味の古書展

期間:2023/07/14~2023/07/15
場所:東京古書会館 千代田区神田小川町3-22

https://www.kosho.tokyo

------------------------------

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

このメールは「日本の古本屋会員」の方で、メールマガジンの配信
を希望された方にお送りしています。
ご不要な方の解除方法はメール下部をご覧下さい。
【日本の古本屋】は全国998書店参加、データ約656万点掲載
の古書籍データベースです。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

見逃したメールマガジンはここからチェック!
 【バックナンバーコーナー】

https://www.kosho.or.jp/wppost/plg_WpPost_category.php?catid=43

┌─────────────────────────┐
 次回は2023年6月下旬頃発行です。お楽しみに!
└─────────────────────────┘

*゜*.:*☆ 本を売るときは、全古書連加盟の古書店で ☆*.:*゜*
全古書連は全国古書籍商組合連合会(2,200店加盟)の略称です

https://www.kosho.or.jp/buyer/list.php?mode=from_banner

==============================

日本の古本屋メールマガジンその372 2023.6.9

【発行】
 東京都古書籍商業協同組合:広報部・「日本の古本屋」事業部
 東京都千代田区神田小川町3-22 東京古書会館
 URL  https://www.kosho.or.jp/

【発行者】
 広報部・編集長:藤原栄志郎

==============================

・メールマガジンの購読停止、アドレスの変更はこちら
 https://www.kosho.or.jp/mypage/

・このメールアドレスは配信専用です。
 返信いただいても対応致しかねます。ご了承下さい。

・メールマガジンの全てまたは一部を無断転載することを禁じます。

・メールマガジンの内容に対するご意見、ご感想は
  melma@kosho.ne.jp までお願い致します。

・メールマガジン内容以外のご質問は info@kosho.or.jp へお願い
 いたします。なお、ご質問の内容によりましては、返信が大幅に
 遅れる場合もございます。ご了承下さい。

============================================================
☆*.:*゜*・゜☆*.:*゜*・゜☆*.:*゜*・゜☆*.:*゜*・゜☆*.:*・
============================================================

東洋文庫 本の旅の果てに【書庫拝見14】

東洋文庫 本の旅の果てに【書庫拝見14】

南陀楼綾繁

 急に気温が上がった5月10日の午後、私は自転車で坂を上っていた。目的地は本駒込の「東洋文庫」だ。岩崎久彌が1924年(大正13)に設立した、東洋学の研究図書館である。

 入り口の巨大な「MUSEUM」という文字を眺めて中に入る。入ってすぐがミュージアムショップになっており、その奥に展示室がある。「フローラとファウナ 動植物の東西交流」という企画展が開催中で、多くの人が訪れていた。


東洋文庫の入り口

「フローラとファウナ」展で展示された『日本植物誌』フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト 1835-70年 ライデン刊(写真提供 東洋文庫)

「新型コロナウイルス禍以来、来場者が落ち込んでいましたが、いまは元に戻ってきました」と、普及展示部研究員・学芸員の篠木由喜さんは話す。

 篠木さんは大学院で展示教育を学び、2014年に同館に入る。観覧者の立場に立って、展示の仕方を考えるスペシャリスト。パネルの色や高さ、フォントを変えて見やすくしたり、展示物の解説文を中学生が読んでも判るように、あるいは英文を併記したりしたという。

 企画展ごとに図録を出しているのもいい。30ページほどの小冊子なので、気軽に買って持ち帰ることができる。

 篠木さんと文庫長特別補佐の牧野元紀さんの案内で、展示室に入る。壁際には長いガラスケースがあり、東洋文庫の名品が展示されている。

 左手の階段を上ると、目の前に現れるのがモリソン書庫だ。吹き抜けで天井の高い空間に、2階、中3階、3階と段々畑のように書棚が設置されている。G.E.モリソンの旧蔵書を基にした東アジア関係資料のコレクション「モリソン文庫」約2万4000冊が並べられている(一部の貴重書、パンフレットは書庫に入っている)。その光景はとにかく圧巻で、最初に見たときはしばらく呆然と眺めていた。


モリソン書庫

「2011年にミュージアムがオープンするまでは、モリソン文庫はジャンルごとにバラバラに配架され、蔵書票を見ないと区別できなかった。それをひとつの塊りとして見せることになったんです」と、牧野さんが説明する。

 牧野さんはベトナム史を専攻。国立公文書館アジア歴史資料センターを経て、2009年に東洋文庫に入り、ミュージアムの準備に関わる。
「大英図書館、イエール大学を視察して、書物をどう見せれば魅力的な展示になるかを探りました」

 モリソン書庫は3層になっている。資料の状態を保つためにサーキュレーターが導入され、空気が循環している。また、修復担当が適宜に書棚をチェックして、状態が悪いものは修復することもある。

 棚のところどころに、本と本の間に隙間がありプレートが指し込まれている。研究員が借りたり、展示に使われたりしていることを示すものだ。
「書庫の中にも、『モリソン書庫へ別置』という移動を示すプレートが入っていることがあります。宝探し感覚になりますね」と篠木さんは笑う。

 3階には閲覧室がある。その窓から、モリソン書庫の最上部を眺めることができる。

閲覧室の様子(提供 東洋文庫)

モリソンの「活きたライブラリー」

 モリソン文庫は、東洋文庫の設立の経緯に大きく関わっている(以下、『東洋文庫80年史Ⅰ』東洋文庫 を参照)。

 ジョージ・アーネスト・モリソンは1862年、オーストラリアで生まれ、10代から世界を旅する。ロンドン・タイムズのアジア駐在員となり、1900年(明治33)の義和団の乱を報道した。

 モリソンは中華民国の政治顧問として北京に住み、20年以上かけてアジアに関する欧文資料を収集し、「アジア文庫」と名付けた。その中には、「日記、書簡、メモランダムのほか、地図、新聞の切り抜き、写真、メダル、絵葉書、陥落直後の旅順の戦場で拾った日本人の葉書、招待状、劇場のプログラム、招かれた晩餐会のメニュー、日本国入国許可証、電車の切符、旅館や本屋の領収書、質屋の質札など」種々雑多な紙ものが含まれていた(ウッドハウス瑛子「G.E.モリソン伝」、『東京人』1994年11月号)。

 政治顧問からの退任を考えたモリソンが、自分の蔵書を手放す意思があると知った、横浜正金銀行取締役の小田切万寿之助はそのことを日本に伝えた。

 ちょうど北京に滞在中だった、国語学者で帝国大学文科大学学長の上田萬年は、教え子である石田幹之助にモリソン宅を訪ねるように云う。以下、石田の「東洋文庫が生まるまで」(『石田幹之助著作集』第4巻、六興出版)をもとに経緯をたどる。石田が約40年後に回想したものだが、瑞々しい語り口で、思わず長く引用したくなる。

 モリソンの邸宅は立派だが、半分を他人に貸して、本人は簡素な部屋で暮らしていた。「然るにこちらへ来いといつて通された書庫は之に反して十分の設備を調へた立派なもので、分厚な鉄筋コンクリートの壁で囲んだ、八メートルに二十メートル近くの長方形の一階建に、壁面といはず、中間の空地といはず。相当念入りに作つた書棚が或は一列に、或は背中合はせに排列されて中には本がギッシリ詰まつてゐる」

 それらを手に取ると、アジア学の貴重書ばかりだった。その報告を受けた横浜正金銀行総裁の井上準之助(1932年に血盟団のテロで命を落とす)は、岩崎久彌にアジア文庫の購入を要請し、岩崎はそれを快諾した。

 岩崎は、明治末期から書物の収集を開始。そのコレクションは「岩崎文庫」として、モリソン文庫と並ぶ東洋文庫の柱となる。1901(明治34)にインド学書約1万冊の「マックス・ミューラー文庫」を購入し、帝国大学図書館に寄贈した(関東大震災で焼失)。

 井上はモリソンの言い値が適正かどうかを調べるよう、上田に頼んだ。そのカタログを預かった石田は、丸善の栗本葵未(きみ)に相談する。「頭の中は本のことばかりなので、丸善の店の人は些か変人扱ひをしてをりました」が、洋書についての知識は誰にも負けなかった。石田は誰の蔵書かを隠して相談したが、栗本はすぐにモリソンのものだと見抜いたという。

 1917年(大正6)8月、石田は司書の美添鉉二と一緒に北京に渡り、アジア文庫の蔵書の確認と発送作業を行なった。モリソンはこのとき、文庫を手放す条件として、分散せずに保管すること、継続して定期刊行物を購入することなどを挙げた。

 モリソンはまた、カタログの本が全部あることを証明するために、石田がランダムに挙げた書名をすぐに取り出した。
「相当大きな本であらうと、小冊子であらうと、それも極めて片々たるパンフレットであらうと、あちらの隅からもこちらの隅からも立ちどころに持つて来てどうだちやんとあるだらうといつた顔をしてゐます。これには驚きました」

 十分信用できるということで、モリソン宅に大工を呼んで特製の木箱をつくるなど、発送の準備に入る。

 この間、石田はモリソンが本の裏表紙にさまざまな情報を書き込んでいることを見て、「なるほどこの文庫は主人公が日夕親しく実際に活用してゐたものだけあつてこれこそ活きたライブラリーだ」と痛感したという。

 9月、十数台の荷馬車に57個の木箱が積み込まれた。石田はいったん荷物と別れ、満洲を回って釜山経由で下関に着く。特急の車中、国府津から当時、時事新報の記者だった菊池寛が同乗し、石田を取材している。石田は第一高等学校で芥川龍之介や菊池の同級生だった。

 到着した荷物は深川佐賀町の三菱倉庫に収められた。しかし、「ここに思はざる一大事が突発して、それを機縁に私とも深い御縁が出来てしまひ、永いこと文庫のために働くことになるやうなことが出来致したのであります」。台風で高波が押し寄せ、箱詰めされた書物が水をかぶったのだ。石田はすぐ現場に向かい、本の救出の指揮を執った。心配した岩崎久彌も駆けつけ、岩崎の駒込別邸で修復を行なった。

 1924年(大正13)、岩崎はこの別邸の土地に本館と書庫を新築し、東洋文庫を設立した。そして、石田は図書部の主任となる。

「モリソン文庫」と「岩崎文庫」

 では、書庫に案内していただこう。

 貴重書を保護するために、書庫内にカメラやスマホは持ち込めない。そこまでは普通だが、外からの土やほこりなどを防ぐために、靴にカバーを掛けるのにはびっくりした。刑事ドラマで鑑識作業のときにやっているアレだ。不器用なので、着けるのに時間がかかってしまった。

書庫に入る前に靴にカバーを着ける

 エレベーターで上層階に上がり、貴重書庫に入る。ここには19世紀以前の洋書、江戸時代以前の和書、漢籍などがある。国宝に指定されている『春秋経伝集解』『史記』や重要文化財の『礼記正義』『論語集解』などは、別の階の特別貴重書の書庫に厳重に収められている。

 東洋文庫の蔵書は、約100万冊。そのうち漢籍が4割、洋書が3割、和書が2割、残りの1割がその他の言語という割合だ。「その他の言語には、アジアの十数言語が含まれます」と牧野さんは話す。

 中に入ると、整然と背の高い棚が並ぶ。2011年、新しい書庫に資料を移し終えた直後に、東日本大震災が発生。棚から床に落ちて、ダメージを受けた本もあったという。「そのため、本が飛び出しにくいように本の配置を変えたんです」と、牧野さんは云う。

 和本は帙に入れて、立てて並べられている。同館には帙、和漢書、洋書を修復する職人が属しており、専用の部屋もあるという。

 蔵書の柱となっているのは「モリソン文庫」と「岩崎文庫」の二つだ。

 モリソン文庫のうち、パンフレット類約6000点はこの書庫にある。壁際の棚には製本された表紙が並んでいるが、その中には複数の書類が収められている。どこに何が入っているかを見つけるのが大変そうだ。その内容については、岡本隆司編『G.E.モリソンと近代東アジア 東洋学の形成と東洋文庫の蔵書』(勉誠出版)に詳しい。

モリソン文庫のパンフレット(一部)

岩崎文庫は和漢書約3万8千冊。書誌学上の貴重文献を多く含む。その収集は帝国大学の和田維四郎のアドバイスに沿って進められた。中国の宋代に刊行された「宋版」や元時代に出版された「元版」など漢籍の稀覯書が多い。

 岩崎文庫には地図も多いというので、一枚見せてもらった。1813年(文化10)の「高野山細見大絵図」で、高野山内の道や施設を詳細に描いている。「端っこの方に、書き足した部分がありますよ」と、篠木さんが教えてくれる。

『高野山細見大絵図』橘 保春 1813(文化10)年
東洋文庫画像DB 『高野山細見大繪圖』

 この他、個人が収集したコレクションとしては、井上準之助氏旧蔵和漢洋書、辻直四郎氏旧蔵サンスクリット語文献、榎一雄氏旧蔵和漢洋書、山本達郎氏旧蔵東南アジア和漢洋書などがある。いずれも東洋文庫を支えた人物だ。

 次に3階の書庫へ。ここには中国、朝鮮、ベトナムなど漢字文化圏の資料が収められている。中でも大きな場所を占めているのが、河口慧海旧蔵のチベット大蔵経だ。

 ここには、松田嘉久氏旧蔵タイ語文献もある。これが同館に収まるには、意外な人物の関与があった。歴史研究者の石井米雄が、ベトナム戦争の取材で知られる岡村昭彦に東洋文庫にタイ語文献が少ないことを嘆いたところ、岡村がタイでキャバレーを経営していた松田を口説いて購入資金を寄付させたのだという(石井米雄「『松田文庫』とタイ研究の展開」『友の会だより』第5号、2009)。いつもながら、ひとつのコレクションが収まるまでにさまざまな人が関わっているのだと思う。

基礎を築いた石田幹之助

 主任を務めた石田幹之助について、もう少し。

 例の水浸し事件は、石田にとっては不幸なだけではなかった。それによって、モリソン文庫の本を一冊一冊手に取り、その特徴を覚える機会になったからだ。実際、石田は文庫の蔵書に精通しており、書庫の何階のどの棚になんという本があったかたちどころに答えたという(榎一雄「石田幹之助博士略伝」『石田幹之助著作集』第4巻)。

 その様は、石田自身が目にしたモリソンの様子と重なる。アジアの資料を収集した先達を尊敬した彼は「杜村(モリソン)」と号したという(『G.E.モリソンと近代東アジア』)。

 石田は「ふさふさとした髪をオールバックにされていて、太い枠縁眼鏡そして端正な袴をつけた瀟洒な和服姿で、いつもななめに煙草を咥えてにこやかにお話をされていた」(白鳥芳郎「石田幹之助先生と私」『石田幹之助著作集』第2巻月報)。彼はある海外の学者に「自分の会った図書館長のなかで第一の美男子」と評されたという(榎一雄『東洋文庫の六十年』東洋文庫)。

 石田は日曜日にも東洋文庫に出かけ、仕事や読書をした。また、暇があれば書店に足を運んで資料を収集した。東洋文庫の分類の基をつくったのも、石田だという。

 しかし、1934年(昭和9)、石田は東洋文庫を離れる。その理由は不明だ。石田にとって「東洋文庫を離れたことは、手足の一部をもぎとられたのに等しいことであったに違いない」 (榎一雄「石田幹之助博士略伝」)

 その後の石田は、國學院大學、日本大学などで教鞭をとり、東方学会の理事長も務めた。1967年に日本学士院会員になるが、その理由の一つは東洋文庫の蔵書の基礎をつくったことにあったという。石田は1974年に亡くなる。

 石田の蔵書は東洋文庫に寄贈され、牧野さんもその整理に関わっている。「手紙でもマッチ箱でもなんでも取ってあるので、整理が大変です」と苦笑する。数年後には公開される予定だ。

蔵書の疎開

 中国から旅してきたモリソン文庫をもとにできた東洋文庫だが、その後、もういちど本を移動せざるを得なかった。

 戦時中の1945年(昭和20)、東洋文庫の近くでも空襲があった。近隣にあった理化学研究所が標的とされたと云われる。4月12日には書庫棟の屋根に焼夷弾が落ちたのを、必死に消火して無事だった(星斌夫「東洋文庫蔵書疎開雑記」『アジア学の宝庫、東洋文庫 東洋学の史料と研究』勉誠出版)。

 そこで蔵書の疎開が緊急の問題となる。東洋文庫での研究会に参加していた、中国社会経済史研究者の星斌夫(あやお)が、郷里である宮城県加美郡中新田町への疎開を提案。大半の書籍が宮城県に疎開される(一部は新潟県に発送される予定だったが、結局送られないままに終わった)。

 物資が乏しい時期で、トラックや貨物の手配に苦心した。6月からやっと輸送が始まり、何度かに分けて駅に届いた。女学生の手で近くの民家に運び、そこから4キロ離れた場所と16キロ離れた場所に運んだ。トラックやリヤカーが手配できず、ある時は小学校の児童150名に運んでもらったという。

 最後の貨物が着いたのは8月7日だった。疎開の荷物は8つの倉庫に収納されていたが、戦後になっても返送計画が進まずに維持費がかかってしまう。結局、返送が始まったのは1949年2月だった。

アジアへの理解を高めるために

 このようにして蔵書を守った東洋文庫だったが、戦後の財閥解体によって岩崎家の庇護を失う。東洋文庫は国立国会図書館の支部となる(2009年に支部契約終了)。

 1982年には敷地の一部を売却し、その処分代金を当てることで、本館と書庫1号棟を建築した。売却した敷地には現在、駒込警察署が建っている。

 一方、蔵書は設立当時の約6万冊が、1949年には48万冊と増えていき、1995年には80万冊に達した。
「2011年にミュージアムができてからは展示に利用できるものを購入するようになりました。でも、ここにしかない本を購入するという方針はずっと変わっていません」と、牧野さんは話す。資料のデータベース化やデジタル化も進んでいる。

 現在のかたちになる前、東洋文庫は利用者によってハードルが高いイメージがあった。東洋史に関する著書の多い春名徹は、こう書く。
「かつての東洋文庫は、青年にとってあまり居心地のよい場所ではなかったことも事実である。改築前の古い建物は風格があったが、入り口を入って右手の閲覧室に近代の英語の新聞などを読みに行くと、ヨーロッパ人の研究者が漢籍から眼をあげてじろっと上目づかいに人の様子を見たりする。(略)私たち学生はたいてい何人か連れ立って、勇気を奮い起こして閲覧室に入っていったものである」(春名徹「文庫漂流記」『東京人』1994年11月号」

 それが2011年のリニューアルによって、ミュージアムがオープンし、外に開かれた印象がある。カフェが併設されていることもあり、最近では若者の観覧も増えており、子ども向けのワークショップも行なう。
「マンガを入り口に展覧会を楽しんでもらおうと、J-CASTのサイトで『マンガでひらく歴史の扉』を連載しています」と、マンガ好きである篠木さんは嬉しそうに話す。たとえば、「フローラとファウナ」展に関して、イギリスのプラントハンター(植物採集家)を主人公にした『Fの密命』を紹介している。

 展示部門が好調なのに対して、閲覧室の利用者は以前より減っている。これは東洋学を学ぶ若者が少なくなっているからだという。
「東洋学はアジアへの理解を高めるために必要な学問だということを、もっとアピールして、次の世代の研究者を育てなくてはという危機感があります」と牧野さんは語る。

 東洋文庫は来年、創立100周年を迎える。それに合わせて、デジタル化、年史の刊行、記念展覧会など、さまざまな事業を準備中だ。

 二度の大きな本の旅を経て、東洋文庫は国内最大で、世界でも五指に入る東洋学の図書館となった。そして、次の100年を見据えて、静かに変化を続けている。

 取材を終えて、すぐ隣にある〈BOOKS青いカバ〉に立ち寄ると、やっぱりアジア関係の本を探してしまった。どうも影響を受けやすいのであった。

 
 
 
 
 
南陀楼綾繁(なんだろう・あやしげ)

1967年、島根県出雲市生まれ。ライター・編集者。早稲田大学第一文学部卒業。明治大学大学院修士課程修了。出版、古本、ミニコミ、図書館など、本に関することならなんでも追いかける。2005年から谷中・根津・千駄木で活動している「不忍ブックストリート」の代表。「一箱本送り隊」呼びかけ人として、「石巻まちの本棚」の運営にも携わる。著書に『町を歩いて本のなかへ』(原書房)、『編む人』(ビレッジプレス)、『本好き女子のお悩み相談室』(ちくま文庫)、『古本マニア採集帖』(皓星社)、編著『中央線小説傑作選』(中公文庫)などがある。

ツイッター
https://twitter.com/kawasusu

 
東洋文庫
http://www.toyo-bunko.or.jp/

 
 
当ブログの全てまたは一部の無断複製・転載を禁じます

Copyright (c) 2023 東京都古書籍商業協同組合

東北の古本屋―広がる古本の裾野 【古本屋でつなぐ東北(みちのく)余話】

東北の古本屋―――広がる古本の裾野 【古本屋でつなぐ東北(みちのく)余話】

(日本古書通信社)折付桂子

 「古本屋でつなぐ東北」は『日本古書通信』二〇二二年八月~二〇二三年二月号に連載した、東北の若い古本屋さんによるリレーエッセイです。自らの針路を決めた古本屋との出会い、一度読まれた本ならではの想いを込めた売り方の工夫、地方の雄である古本屋三代目の覚悟、古本屋仲間と交流し情報交換する休日、細々(こまごま)とした地元資料を整理し伝える難しさ、震災と原発事故を乗越え被災地で頑張る日々、そして東北の古本屋として生きることはどういうことか、などについて七人の店主が胸の内を語ってくれました。そこには、古本屋という仕事に向き合う真摯な姿勢、地域に対する熱い思いが感じ取れます。一方で、葛藤もあります。東北はいわば辺境の地。食品でも何でも良い物が中央へと流れる中で、古本の世界でも同様の状況はあり、地元の資料を地元で繋いでゆくことの厳しさを阿武隈書房さんが指摘していました。ただ、そうした悩みを抱えつつも、地域と繋がり、仲間と繋がり、そして地元の文化を伝えてゆこうという思いは、東日本大震災を経て、より強くなったように感じます。

 実は、このリレーエッセイは、拙著『東北の古本屋』(二〇一九・私家版・絶版)及び『増補新版 東北の古本屋』(二〇二二・文学通信)に至る取材の積み重ねがあったからこそ出来た企画です。東日本大震災以来、毎年東北取材を続けて生れたのが、詳細な東北の古本屋ガイドで、業界から見た震災記録でもある『東北の古本屋』ですが、その過程で何度もお会いするうちに店主の方々と親しく言葉を交わせるようになりました。

 『増補新版 東北の古本屋』では東北六県六〇軒の古書組合員を紹介しています。そのうち店舗は四一軒(店舗率六八%は全国的に見ても高い方だと思います)。店舗は全て写真と地図を入れ、店主に話を伺い詳しく案内しています。今回の連載では、若い店主の思いをお届けしましたが、ベテランの声も含め、東北全体の様子、業界の復興状況を知りたい方は、本書を是非ご覧ください。

 とにかく今、東北の古本屋は元気です。宮城県では一昨年の暮れに阿武隈書房仙台店、昨年夏に大崎市のテンガロン古書店、そして今年一月に石巻市のゆずりは書房さんがそれぞれ店を開きました。新規加入も続いていて、宮城県の千年王国さんはこのGWから店舗営業を開始、山形県の四軒目の組合員・禅林堂さんも今夏、店を開く予定、福島県の星月夜書店さんも今はネット販売ですがいずれ店を持ちたいと伺いました。皆さんとても前向きです。

 勿論、世代交替の波はあり、盛岡市の浅沼古書店といわき市の平読書クラブさんが、年齢的な事情でこの三月で閉店されました。ともに硬派な品揃えで長く地域を支えてきた存在で、閉店は残念で淋しい限りですが、思いは若い方々が引き継いでくれるでしょう。

 また、即売展も宮城県を中心に活況を呈しています。一昨年、仙台市の老舗新刊書店=金港堂を会場にサンモール古本市が開かれました。宮城組合主催の催事としては半世紀ぶりというこの即売展は大盛況で、その後市内の新刊書店などから催事依頼が相次いだそうです。震災から復活、定着している仙台駅前イービーンズ展に加え、昨年は金港堂、丸善アエル、フォーラス、そして県境を越えて山形の戸田書店古本市にも有志が参加しました。更に今年は、仙台市の泉中央駅前セルバで八文字屋古書市も開かれます。福島県でも昨秋、組合員が主導する催事としては約二〇年ぶりという会津ブックフェアが開催され賑わいました。青森県でも二〇一九年のさくらの古本市をステップに二〇二〇年からアオモリ古書フェアが、東北の業者仲間が参加して開催されています。そして仙台ではフォーラス即売展をきっかけに、今春、新刊と古書を融合した新たな本の場=ブックスペースあらえみしも生れ、大きな話題となっています。想いを込めた店作り、広がる 即売展、新しい本との出会いの場…様々な形の店や場が古本の裾野を広げ、今後も古本の文化を繋いでいってくれると信じて見つめていこうと思います。

 

(写真はブックスペースあらえみし)

 
 
 
 


『増補新版 東北の古本屋』 折付桂子著
文学通信刊
ISBN978-4-909658-88-3
四六判・並製・312頁(フルカラー)
定価:本体1,800円(税別)好評発売中!
https://bungaku-report.com/books/ISBN978-4-909658-88-3.html

Copyright (c) 2023 東京都古書籍商業協同組合

Just another WordPress site