文字サイズ

  • 小
  • 中
  • 大

古書を探す

πの会展 第1回パンフ フジカワ画廊 1980

暢気堂書房

πの会展 第1回パンフ フジカワ画廊 1980

¥2,000

  • 冊数 1
  • 販売条件等 3棚上段目木箱

クレジットカード使用可 銀行振込可 代引き可 公費可 海外発送不可

かごに入れる
気になる本に追加
印刷

店舗情報

店舗外観

〒203-0033
東京都東久留米市滝山6-2-14-103 
TEL:042-427-9144
FAX:--

308900206484
書籍商 暢気堂書房

新着書籍

古梅園墨談 全著者 松井貞太郎編 出版社 古梅園本店 刊行年 昭4年 解説 和綴 24頁 四六判(B6判) 「製墨の古梅園」 古梅園は天正5年(1577)、奈良の松井道珍が創業した製墨の老舗。代々、皇室や幕府の御用墨所を勤め、「紅花墨」「神仙墨」などの製墨で知られた。日本橋の古梅園(店主、芹川ふみ)は、奈良古梅園の東京支店であった。「日本橋通一丁目の古梅園は製墨の老舗にして東京の名物也」と記載あり。「古梅園」と記された製墨の絵と、「御用 御墨所 古梅園製墨 官工 南都松井和泉掾㊞」と記された商標が書き写されている。— 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「製墨の古梅園」より抜粋。「墨」という名は「染み」からなまり伝えられたものといわれています。我が国へは推古天皇の18年(西暦610年)高句麗の僧曇徴が製墨法を伝えたといわれています。墨はその後朝廷や寺院においてつくられるようになり、時代を経て室町末期に市井の造墨家として古梅園が創業致しました。製墨法が最も発展した江戸時代、古梅園は幕府の許可を得ながら、中国の造墨家との交流、研究を重ねより一層品質の良い墨をつくるようになり、その技は今も引き継がれている。400余年の間に培った伝統の技を守りながら、墨業一筋に。創業1577年 古梅園 ¥3,500
12冊 りのさとし 昭和42年一号〜三号,五号〜八号。昭和43年一号、九号〜十二号世界心道教 世界心道教は、愛知県豊川市に本部を置く宗教法人。創始者は会田ヒデ(1898年9月30日 - 1973年5月24日)。「天地月日御親水火風之大神」を祀る。教祖会田ヒデは1923年に天理教に入信し、同教の教師を務めていたが、1925年、大西愛次郎に賛同し、ほんみちへ移る。その後、1933年に元ほんみち信者であった勝ひさのの天理三輪講へ移って活動を続けていたが、1938年3月13日、大阪府西淀川区で月読之命と国狭土之命の2社が彼女の体に天下り、天啓者となったとされる[1]。更に1942年12月23日には10社が天下った。1943年より東京都渋谷区大岡山で人助けを始め、1944年1月、東京渋谷に移転。同年11月3日、「世界心道会」を設立した。以後、ヒデは「親様」と呼ばれるようになった。1946年3月、愛知県豊川市に移転。1949年、現在地である豊川市諏訪に本部を移し、1948年7月6日に宗教法人令による宗教法人として、また1952年7月11日に宗教法人法による宗教法人として発足した。会田ヒデは、天理教の開祖中山みきの著した『おふでさき』や『泥海古記』の文章を独自に解釈し、「1838年(天保9年:天理教創始の年)から100年後に新たな者から天の指図が下されるようになる」とした。彼女の言う「100年後」というのが、まさにヒデの体に天の月日が天下ったとされる年である。世界心道教の教義によれば、「従来の信仰では、ひたすら拝むことによって天の加護が得られたが、ヒデに神が天下った後は、拝むだけでは功徳を積んだことにならず、道をあけねば御利益は得られない」と説く。「道あけ」とは、心の改良を行うことである。身上(体の悩み)や事情(心の悩み)は人の心が天の心に反したために起こるものであり、心の改良を行えば御利益が得られる。これを「心のしんせいふっこう」と呼ぶ。世界心道教は、この新しい信仰のあり方を広く啓蒙することによって、理想世界の建設を目指すとしている。 ¥25,000
ウクレレ ラテン・ムード (1963) / ハーバード太田のウクレレとラテン・コンボ 10インチLPレコードオータサンが本国アメリカ・ハワイでレコードデビュー以前の、軍役で日本駐在中に日本のレコード会社に吹き込んだ数枚の10インチ音盤の一つ。ビクター盤は63年の本作と、61年の「南の夜のウクレレ・ムード /ハーバート大田とハワイアン・オーケストラ」があるが、のち2000年に「Ukulele Masters in Japan 1960-1964」というコンピレーションに再編されてCD化が実現している。本盤からの音源についてはA-3, B-1の2曲がCD化の際に収録時間の制約により選曲から漏れてしまった為、ここでしか聴く事ができないという事もあるが、なんといってもこのジャケットには抗しがたいコレクター欲をそそられてしまった。28歳の若き日のオータサンが波止場らしき場所で、愛器マーチンM-3を抱えた勇姿である。61年「南の夜の・・・」はモノラル盤(CD化の際にステレオで復刻が実現)、本盤はジャケットにも大書きされているようにステレオ収録というのが大きなセールスポイントであったようだ。当時の定価は1,300円。内容は「ラテン、ジャズのスタンダード曲を中心に、ピアノ、ベース、コンガ、ボンゴをバックに演奏しています」とライナーノーツにもある通り、ジャズ色の強いセッションとなっている。本作と同様、オータサンの除隊/ハワイ帰島前に吹き込まれたポリドール盤「南国のリズム ウクレレは歌う / ハーバート太田(ウクレレ) 山口銀次とルアナハワイアンズ」が和製エキゾチカであったのに対し、本盤では本格的な和製ジャズを聴く事ができる。本国デビュー前にして既にこの成熟した音楽性、はじめから只者でなかったのだという事が分かる。レーベル:ビクター (SLV-34)プロデュースや演者は不明SideA1. ベサメ・ムーチョ2. ムーン・イズ・イエロー3. ハウ・ハイ・ザ・ムーン → CD化の際に未収録4. イエスタデイSideB1. ナイト・イン・チュニジア → CD化の際に未収録2. クマーナ ¥2,000
梓みちよ『こんにちは赤ちゃん/梓みちよ第2集』東京キング/SKG-5010インチレコード/梓みちよ「こんにちは赤ちゃん / 梓みちよ第2集 (1964年・SKG-50・東海林修・中村八大編曲)第1面 こんにちは赤ちゃん 月光価千金 プリンセスプリンセス ブルーヴェルヴェット第2面 ダンケ・シェーン 恋はロマンチック 永遠に愛して 悲しみがいっぱい 盤質良好です。梓みちよ(1943年6月4日[1] - 2020年1月29日)、日本の歌手、女優。本名は林 美千代。血液型はO型。株式会社アラベスク所属で株式会社プロダクション尾木と業務提携。日本統治下の朝鮮釜山市生まれ。福岡県福岡市博多区出身。福岡女学院中学校・高等学校2年中退。宝塚音楽学校中退。1960年代から1970年代を中心にヒットを飛ばした。アメリカンポップスから歌謡曲まで幅広いレパートリーを持つ。1960年、福岡女学院高校を2年で中退して宝塚音楽学校に入学。同校在学中に渡辺プロダクションのオーディションに応募し合格し、上京し契約する。約1年間のレッスンを経て、1962年に“ボサノバ娘”のキャッチフレーズでキングレコードより「ボッサ・ノバでキッス」でデビューし、歌手として本格的に活動を始める。芸名の名付け親は渡辺プロダクション創業者の渡辺晋。「梓弓のようにしなやかで強くなって欲しい」の意味で名付けられたという。1963年7月、『夢であいましょう』の今月の歌として発表された「こんにちは赤ちゃん」(作詞・永六輔、作曲・中村八大)が大ヒットとなり、同年12月の第5回日本レコード大賞の大賞を受賞。また『第14回NHK紅白歌合戦』にも初出場を果たし、人気歌手としての地位を得た。また同曲は翌1964年3月の第36回選抜高校野球大会の開会式入場行進曲に採用された。更には1964年5月に東京都文京区の椿山荘で開かれた学習院初等科同窓会に招待されて、昭和天皇の御前でこの歌を披露した。明治時代以降において日本芸能界初の天覧歌謡曲となる。 ¥3,000

おすすめの書籍

政治記者後藤基夫 後藤基夫さんを偲ぶ文集刊行会 1985年 全 314ページ後藤基夫(1918年10月20日 - 1983年4月5日)日本のジャーナリスト、朝日新聞社常務取締役。大分県佐賀関町生まれ。第三高等学校を経て1941年12月東京帝国大学法学部政治学科卒業、1942年1月朝日新聞社入社、翌2月陸軍東部第62部隊入営。主計少尉として中国湖北省で終戦を迎える(ポツダム宣言受諾後に主計中尉)。1946年2月に朝日新聞社に復職。同年6月東京本社政経部員、1950年1月政治部員、1956年10月アメリカ総局員、1958年2月政治部に復帰、1960年1月政治部次長、1963年2月ロンドン支局長、1966年6月論説委員、1967年1月論説副主幹、1969年12月東京本社編集局長、1973年9月取締役・大阪本社代表、1974年6月常務取締役、1978年12月総合企画室担当(東京本社)、1981年4月東京本社代表となり、在職中に脳出血のため死去。享年66(満64歳)。東大在学中に昭和研究会の教育機関「昭和塾」に入り、三木清の影響を受けた。「室町将軍」と呼ばれた同郷の右翼の大物三浦義一(父親が元大分市長、衆議院議員)と親しく、政界の裏情報にも通じて「書かざる大記者」と呼ばれた。宮沢喜一は後藤を「一番親しい友人」と呼んでいる。「書かざる大記者」ゆえに敵対する政治家の双方から相談を持ち込まれることも多く、政治記者として読売新聞社の渡邉恒雄も一目置く存在だった。中ソ対立が社内の派閥抗争に波及していた当時の朝日においては、親中派の重鎮の一人で、東京本社編集局長時代の1971年秋に特派員団長として北朝鮮と中国を訪問し、金日成首相、周恩来首相と会見。総合企画室担当時代の1980年にも北朝鮮を訪れている。「書かざる大記者」のため、書いたものは少ないが、晩年、雑誌『世界』に連載された石川真澄、内田健三との鼎談で、戦後政治についての見聞の一部を語っている。
¥5,000

書籍の購入について

支払方法等:

商品と一緒に同封する郵便振替用紙で1週間以内にお支払いください。(公費購入の場合は後払いのご相談に応じます。)

商品引渡し方法:

ゆうメール・レターパック(350)(500)・ゆうパック

返品について:

当方の不備による場合のみ承ります。

他特記事項:

-

書籍の買い取りについて

古本・骨董品の出張買取のお申込み・ご予約は、お電話・またはメールにて承っております。 お気軽にお問合わせください。
出張費は無料です。旧家、蔵のあるお宅、昭和40年以前の古いお宅の買取は、遠方でも大歓迎です。