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SP盤 ヒコーキレコード 筑前琵琶 北白川宮殿下(台湾入)上 北白川宮殿下(台湾入)詩吟入 久国菊子北白川宮永久王(1910年(明治43年)2月19日 - 1940年(昭和15年)9月4日)は、日本の皇族。陸軍軍人、貴族院議員。北白川宮成久王の第1王子。北白川宮第4代当主。最終階級は陸軍砲兵少佐(薨後特進)、勲等は大勲位菊花大綬章。母は明治天皇の第7皇女房子内親王。妃は男爵徳川義恕の次女祥子。参謀たる陸軍砲兵大尉として蒙疆方面(モンゴル及び中国北部)へ出征していたが、演習中に航空事故に巻き込まれ殉職した。 尊き御身をもって大陸の第一線に御奮戦中、9月4日、蒙疆方面において御戦死あそばされた陸軍砲兵少佐、故北白川宮永久王殿下には、9月6日午後5時45分、雨雲はらむ初秋の夕空をついて、空路、立川飛行場に哀しき御凱旋をあそばされました。捧げつつの号令一下、吹きなす笛、悲壮に奏せられるうちに、尊き御遺骸は御学友の奉仕により、御霊車に御移し申し上げられました。厳粛の気は一瞬、広き場内に満ちて寂として声なく、秋草揺する夕風にはらはらと小雨さえ混じる中を6時5分、御霊車は暮色せまる立川より、半旗悲しく垂れる甲州街道を一路、高輪の御殿に向かわせられました。近衛師団長指揮の一個師団が粛然と堵列。各官衙、学生生徒、一般市民、幾重にも沿道を埋め、謹んでお迎え申し上げるうち、御霊車は8時15分、御殿正門に御到着。故殿下の御慈しみ深き御歳4才の若宮・道久王殿下には、日の丸の小旗を御手に、故北白川宮殿下、無言の御凱旋を御出迎えあそばされ、御いじらしき御姿を拝しては、感動にむせばぬ者なく、奉迎の人々は等しく頭を垂れ、故殿下の御冥福を深く深く祈り奉りました。

暢気堂書房

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図録 宮川香山 : 虫明焼と明治の陶芸 : 没後一〇〇年 福冨幸, 大山真季編 出版社 岡山県立美術館 2016年 ページ数 167 宮川香山(天保13年1月6日(1842年2月15日) - 大正5年(1916年)5月20日)明治時代の日本を代表する陶工。高浮彫、真葛焼(横浜焼)の創始者、帝室技芸員。2代目宮川香山・宮川半之助は養子。海外ではMakuzu Kozanとしても知られている。香山は天保13年(1842年)、京都の真葛ヶ原に陶工・真葛宮川長造の四男として生まれた。幼名は虎之助。19歳の時、父と兄が亡くなり陶工の家を継ぐと父が生前朝廷用の茶器を制作し「香山」の称号を受けていたため虎之助は初代香山の名を名乗り父の得意とした色絵陶器や磁器などを制作。その腕は評判を呼び慶応2年(1866年)、25歳の時、幕府から御所献納の品を依頼されるまでになった。明治3年(1870年)、29歳の時、薩摩の御用商人梅田半之助、実業家鈴木保兵衛らに招聘され翌年、横浜に輸出向けの陶磁器を作る工房・真葛窯を開いた。しかし、当時の関東地方には陶磁器を作る土がなく有名な工房があるのは京都や中国地方などに集中していたため、この地に工房を開くのはかなりの苦労を伴う事業だった。香山は当初欧米に流行していた薩摩焼を研究していくつもの作品を制作、この工房の作を「真葛焼」と名づけて輸出したが金を多量に使用する薩摩焼は制作費に多額の資金を必要とするため、香山は「高浮彫(たかうきぼり)」と呼ばれる新しい技法を生み出す。これは金で表面を盛り上げる薩摩焼の技法を、金のかわりに精密な彫刻を掘り込むことで表現したもので、薩摩焼の技法に変わる新 ¥2,000

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