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N22031003〇ディジタルPDF和本JPEG版 太政官日誌 明治2年己巳(1869年) 第7号、第8号、第9号・10+16+12丁〇和本古書古文書
松本奎堂 : 天誅組の総裁 <郷土偉人伝選書 ; 第4>
日本出版百年史年表
写真で見る江戸東京 <とんぼの本>
子爵 田中不二麿伝 <尾藩勤王史> 保存状態良好です。(並本)
津軽承昭公伝
幕末維新を歩く : 箱館、会津、水戸、江戸、多摩、京、萩、土佐、薩摩…全国の史跡をたどる <JTBキャンブックス>
大阪編年史
地方公務員制度資料 第1部 第2部
◆新品◆ 外征と公議 国際環境のなかの明治六年政変
六角紫水書簡 文部省教学局長宛
開陽丸艦長澤太郎左衛門の生涯
S.R.ブラウン書簡集 : 幕末明治初期宣教記録
江戸編年事典
押小路甫子日記 第一 日本史籍協会編・刊 刊行年 大正6年初版 解説 裸本 A5版 752ページ押小路甫子、江戸時代後期から明治時代にかけての女官、著作家。大外記押小路師武の養女。孝明天皇幼時の御乳人を務め、のち孝明朝の大御乳人。日記『大御乳人甫子記』や、随筆『大御乳人甫子雑記』を著した。 文化5年10月7日(1808年11月24日)、左大史の壬生知音の次男壬生正路の娘として生まれる。初名は満子。その後、大外記の押小路師武の養女となる。壬生家と押小路家は、共に「地下官人の棟梁」とされ、下級実務官僚の首座とされた家格である。天保6年(1835年)7月、仁孝天皇第四皇子の煕宮(後の孝明天皇)の儲君御乳人となる。東宮御乳人を経て、弘化3年(1846年)2月、孝明天皇が受禅し、大御乳人(中級女官である命婦の次席)となる。慶応3年(1867年)1月、明治天皇践祚に伴って大御乳人を辞すが、明治4年(1871年)6月まで前大御乳人として勤仕した。隠居女官名は椹木。明治17年(1884年)9月12日、数え77歳(満75歳)で死去。その日記『大御乳人甫子記』全25冊は、安政6年(1859年)から明治4年(1871年)までの職務記録を記した貴重史料[1]。『大御乳人甫子雑記』全3冊と合わせ、大部分は『日本史籍協会叢書』に『押小路甫子日記』として所収されている。押小路甫子時代江戸時代後期‐明治時代生誕文化5年10月7日(1808年11月24日)死没明治17年(1884年)9月12日改名満子→甫子別名隠居女官名:椹木官位儲君御乳人、東宮御乳人、大御乳人、前大御乳人主君孝明天皇→明治天皇氏族小槻氏嫡流壬生家→中原氏嫡流押小路家父母実父:壬生正路養父:押小路師武
写された幕末 第3(人物篇)
写された幕末 第3 (人物篇)
岩崎彌太郎 <人物再検討叢書>
近世珍話 翻刻
家老席日誌『覚書』 : 盛岡南部家文書 慶応編 <新南部叢書 別巻>
岩崎弥太郎 人物再検討叢書 第9
日本に於ける武家政治の歴史 <日本文化名著選 ; 第2輯>
江戸編年事典 新装版
亜麻百年
一八六八‐一八七〇 : 明治前期の災害対策法令 第1巻
総合詳説日独言語文化交流史大年表
海援隊始末記
明治文化全集 第二十三巻 思想篇
大阪編年史 全27巻中第1巻欠品 26冊セット
NHKさかのぼり日本史5 幕末
北海道交通史論
池田市史 史料編 第5
新島襄先生詳年譜 改訂増補
阿部正次充行状
曽根静夫書簡 原保太郎宛二通
夏目漱石周辺人物事典
新島襄先生詳年譜 改訂増補版
大日本神祇史
江戸と江戸城 <SD選書 ; 第4>
大日本神祇史 6版
SD選書 江戸と江戸城
日蓮教学精要 本多日生著 昭38年初版函付 出版社 財団法人統一団 サイズ B6 全414頁本多日生(1867年4月17日(慶応3年3月13日) - 1931年(昭和6年)3月16日)僧侶。日蓮宗妙満寺派、顕本法華宗元管長、法号は聖応院日生。近代日本の代表的な日蓮仏教の改革者として名を残す。 1884年(明治17年)以降、明治政府のもと仏教各宗派の教団近代化が始まり、日蓮宗妙満寺派にいた日生は革新派として近代化の体制整備に奔走し、1889年(明治22年)、24歳の若さにして妙満寺派教学部長に就任する。しかし、日生の革新的な宗制改革は、宗内の守旧派から反発を呼び、保守派の錦織日航が管長に就任すると、1891年(明治24年)、教学部長を罷免される。日生に対する守旧派の処分は続き、福島県二本松の蓮華寺への左遷命令を拒否した日生に対して1892年(明治23年)、僧籍剥奪処分が下る。以後、日生は「顕本法華宗義弘通所」を設立して独自の布教活動を始める。宗内での盛んな日生復権運動の結果、1894年(明治27年)、宗門は「仏教各宗綱要」の日生への執筆依頼のために僧籍を復権。それと同時に、かねてから構想していた日蓮門下統合に向けて僧俗を問わずに運動を展開する拠点として「統一団」を結成する。団報「統一」を発刊し、現在までその活動は継続されている。日生は宗門の宗務総監に就任した後、日蓮宗妙満寺派を正式に「顕本法華宗」とする公称許可を得て、1905年(明治38年)、39歳で顕本法華宗管長に就任した。以後21年間、同職を務める中、1909年(明治42年)には以前からライフワークとしていた僧俗一体の布教伝道、社会教化、門下統合の拠点とするため「天晴会」を組織、佐藤鉄太郎海軍中将、小笠原長生子爵などの有力軍人、政治家、名士たちが名を連ねた。関連団体として、各地で頻発する労働争議に対応するための労働者・勤労者を中心とした「自慶会」や、共産主義、無政府主義に対抗するための政治運動拠点として「知法思国会」も組織し、幅広い分野での日蓮主義伝道活動に務めた。1922年(大正11年)、広く日蓮門下に呼びかけ宗祖・日蓮大聖人の「立正大師号追諡」を実現させる。以後日生は宗祖を一貫して「立正大師」と呼称し続けた。
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