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国立ハンセン病資料館 患者たちの手で集め、守った資料  【書庫拝見7】

国立ハンセン病資料館 患者たちの手で集め、守った資料 【書庫拝見7】

南陀楼綾繁

 国立ハンセン病資料館の書庫を見たいと思ったのは、YouTubeで観た一本の動画がきっかけだった。

 今年3月に同館が開催したオンラインミュージアムトーク「図書室からの招待状~頁をめくり、想いを辿る~」は、図書室職員の斉藤聖(あきら)さんが閲覧室や書庫を案内し、この図書室の役割を伝えるものだった。斉藤さんの優しそうな風貌やソフトな語り口が心地よく、見入ってしまった。

 私はハンセン病については無知だ。映画『砂の器』(野村芳太郎監督、1974)で、私が偏愛する俳優の加藤嘉がハンセン病患者の老人を演じ、故郷を追われ、各地をさまよう場面が印象に残っているぐらいだ。ちなみに、松本清張の原作にはこういった描写はない。

 しかし、この連載を担当してくれている晴山生菜さんが代表を務める皓星社は、『ハンセン病文学全集』全10巻(2002~2010)をはじめ、ハンセン病関係の書籍を多く刊行している。しかも、動画に登場する斉藤さんはもともと皓星社の縁で同館に関わるようになったというのだ。

 晴山さんによれば、近年、ハンセン病資料館の活動は活発になっており、展示や外部への発信も盛んだという。私のようにYouTubeをきっかけに、同館に関心を持つ人も多いのだろう。2022年7月には来館者総数50万人を達成するなど、新型コロナウイルス禍であることを差し引いても来館者は増加傾向にあるようだ。そのような情報を手がかりに、私にとっては未知の世界を訪れてみよう。

清瀬駅からハンセン病資料館へ

 7月1日、清瀬駅からバスに乗る。商店街を抜けると、そこから先は国立看護大学校、救世軍清瀬病院、東京病院など、医療関係の施設が目に付く。昔は「病院銀座」と云われていたそうだ。

 「ハンセン病資料館」というバス停で降りる。道を渡ってすぐのところにあるのが、国立ハンセン病資料館だ。ハンセン病問題に関する正しい知識の普及啓発によって偏見・差別の解消をめざす目的で、1993年に「高松宮記念ハンセン病資料館」として開館。2007年に国立ハンセン病資料館となった。同館の奥は、国立療養所多磨全生(ぜんしょう)園の敷地になっている。

 ハンセン病は古来、「癩(らい)病」と呼ばれ、差別の対象となってきた。1907年(明治40)には「癩予防ニ関スル件」が公布され、全国を5区域に区分し、各地に公立療養所がつくられた。1909年(明治42)に設立された全生(ぜんせい)病院が、のちに多磨全生園となる(以下、ハンセン病の歴史については『国立ハンセン病資料館常設展示図録2020』を参照)。

 1931年(昭和6)には、「癩予防法」によって、すべての患者を強制的に療養所に隔離できるようになった。これにより、1934年(昭和9)に20歳で全生病院に入院したのが、北條民雄である。北條は川端康成に小説を送ったところ激賞され、『いのちの初夜』が文學界賞を受賞するが、二十三歳で亡くなる。

 北條はこの地にやって来たときの心境を、『いのちの初夜』でこう綴っている。
「一時も早く目的地に着いて自分を決定するより他に道はない。尾田はこう考えながら、背の高い柊の垣根に沿って歩いて行った。(略)彼は時々立止って、額を垣に押しつけて院内を覗いた」(田中裕編『北條民雄集』岩波文庫)

 全生病院の敷地は3メートル近いヒイラギの垣根と堀で囲まれていた。ヒイラギは一般社会と患者の世界を隔てるものであり、患者の脱走を防ぐものでもあった。

 ハンセン病は、「らい菌」という細菌に感染することで引き起こされる感染症の一種だ。戦後、プロミンという特効薬によって、回復する患者が増えていった。しかし、国は従来通りの隔離政策を続け、多くの人が治った後も故郷や家族のもとに帰ることができず、療養所で亡くなった。

 現在、全国に国立13、私立1のハンセン病療養所があるが、入所者の高齢化などにより、その人数は年々減少している。

国立ハンセン病資料館外観。

病と差別に関する資料群

 ハンセン病資料館の図書室は2階にある。入り口で斉藤聖さんが迎えてくれる。動画と同じく、柔らかい人柄だった。
「皓星社にいた大学の後輩から、ここで資料をデータ化する仕事を紹介されました。当時はハンセン病については何も知らなかったです」と話す。前任者の退職に伴い、2021年に正規の職員となる。働くうちに、ここにある資料が他に替えがきかない、貴重な資料であることが判ってきたという。「本好きの自分にとっては天職みたいな職場ですね」と笑う。

 早速、閲覧室の奥にある書庫に案内していただく。

 図書室の蔵書数は現在3万6000点。そのうち書庫に収蔵されているものは約2万点だ。日本十進分類表(NDC)で配列されるものと、特殊分類の資料がある。後者のうち「H」が付くのは全国のハンセン病療養所や海外の療養所、関連団体・施設に関する資料だ。各療養所の年報や周年誌、報告書などが並ぶ。全生園関連では開院当初から発行されている『統計年報』とともに、『予定献立表』『国内諸行事プログラム』などとテプラ(印字機)で作成されたタイトルが貼られ、製本されたものもある。これらは後述する山下道輔さんらの手になるものだ。

「図書室の資料には図書資料と文書資料があります。図書資料は書籍や雑誌、ファイル類などで、文書資料は公文書や書簡などです。後者は別の収蔵庫に入っています。ただ、このように合本された一部の文書資料は図書資料扱いになることもあります」と、斉藤さんが解説する。

 療養所関係で重要なのは、各療養所が発行する機関誌だ。全生園では1919年(大正8)に『山桜』が謄写版で創刊。1952年に『多磨』と改題し、現在も発行されている。これらの雑誌には園内での患者の生活や感情が反映されており、利用度も高い。そのため、閲覧室に開架されている。

 このほか、1953年に成立した「らい予防法」への反対闘争や、1996年に同法が廃止された後に行なわれた国家賠償請求訴訟(2001年に国が控訴断念)に関する資料も並んでいる。新聞記事をファイリングしたものも多い。

 また、ハンセン病に限らず、水俣病、同和問題など、病と差別に関する資料を広く集めている。

ハンセン病資料館閉架書庫内

全生病院発足当時の『統計年報』

「ハンセン病」の一言を追いかけて――患者作品から週刊誌まで

 一方、NDCで配列された資料では、やはり、494.83(ハンセン病)が最も多い。海外の研究書も多い。次に多いのは900番台の文学で、療養所内で短歌、俳句、詩、小説などの創作活動が盛んだったことを示す。それ以外では、ハンセン病者が療養した草津温泉に関する本や、被差別、天皇制、人権問題に関する本が目に付いた。

 タイトルに「らい病」「ハンセン病」と入っていない本でも、どこかに記述があれば、スタッフ用の検索システムでヒットするようになっている。

 雑誌の棚には学術誌のほか、ハンセン病関連記事が載った一般誌もある。熊本ホテル宿泊拒否事件(2003)のルポが載った『女性セブン』、実在の回復者をモデルとした「すばらしきかな人生」掲載の『ビッグコミック』など。

 別の棚には、写真家の趙根在(チョウグンジェ)さんの蔵書約4000冊が並んでいる。趙さんは1961年に全生園を訪れたことから、全国の療養所で患者を撮影。指先に知覚麻痺のある視覚障碍者が舌で点字を読む様子を撮った写真が印象深い(『この人たちに光を 写真家趙根在が伝えた入所者の姿』国立ハンセン病資料館展示図録)。1997年に亡くなった後、寄贈された蔵書にはハンセン病関連はもちろん、歴史や民俗、文学に関する本も含まれる。本人が残したメモや付箋もそのままにされている。

 また、一番奥の棚にはマイクロフィルム化された資料の原本が、中性紙の箱に入れて保存されている。いずれも貴重なものばかりだ。その中には園内で子どもたちが通った「全生学園」の児童文芸誌『呼子鳥』(1934年創刊)や、映画『砂の器』の脚本もある。

 書庫を一通り見終えて、これまで知らなかったハンセン病の世界に、本を通じて少しだけ触れられた気持ちになった。

1928年から英国で発行されている研究雑誌『Leprosy Review』の合本

趙根在旧蔵書

マイクロフィルム化された資料の原本。

児童文芸誌『呼子鳥』。表紙の版画も子どもたちによるもの

全生図書館の時代

 ハンセン病資料館の図書室が現在のようになるまでには、多くの人たちの血がにじむような努力があった。

 全生病院に図書館ができたのは、1921年(大正9)。娯楽場内の一画だった(以下、全生園の歴史については、多摩全生園患者自治会編『倶会一処(くえいっしょ) 患者が綴る全生園の七十年』一光社 を参照)。雑誌『山桜』を創刊した栗下信策の熱意に基づくものだった。ここで所蔵されていたのは、一般教養のための書籍や雑誌が中心だったようだ。

 1936年(昭和11)には、新しい図書館が竣工。「全生図書館」となる。建材は上野の帝室博物館(現・東京国立博物館)を解体した際、一部を払い下げてもらったという(『ガイドブック 想いでできた土地』国立ハンセン病資料館)。現在、この建物は理髪・美容室となっている。「蔵書も沢山あり良く利用したものだ」(「写真で綴る思い出album」、『多磨』2010年1月号)という回想もある。

 この図書館の担当だったのが、入所者の松本馨だった。松本は「いつかは、われわれが『らい』の歴史を告発しなければ、と、そのころから考えており、そのため『らい』の文献だけの書棚を作り、貸し出しはせずに、カギをかけて保管していた」(瓜谷修治『ヒイラギの檻 20世紀を狂奔した国家と市民の墓標』三五館)。

 その後、松本は子どもの患者たちが暮らしている少年舎の寮父となり、数年後に戻ってみると、ハンセン病関係の資料を収めた書庫は無残な状態になっていた。「北条【ママ】民雄のものを集めた『北条文庫』も消え、本らしい本は残っていなかった」という。

 北條民雄の蔵書については、別の証言もある。北條とともに全生園で暮らした光岡良二は、北條の没後、形見分けとして蔵書から何冊かもらった。あとの本は全部患者図書室(全生図書館)に寄贈するつもりだった。

 しかし、病院側から「患者図書館内に『北条文庫』を作って永く記念するつもり」だから形見分けした本を返せと云われる。光岡らは生前の北條を厄介者扱いした病院当局が、死後、北條が文壇で知られるようになったことを利用しようとすることに怒った。

 「昭和二十三年、私が七年間の隔たり(引用者注:社会復帰のこと)をおいて再入院して来た時、患者図書館の書庫の『北条文庫』の棚は、どの全集もほとんど数冊の端本となり、北条の蔵書とは何の関係もない雑本が混り込み、惨憺たる荒廃の姿を曝していた。(略)当局がわざわざ設けた記念文庫にふさわしい管理の責任と誠意をそそいでいなかったことは明らかであった」(光岡良二『いのちの火影 北条民雄覚え書』新潮社)

 入所者にとって、図書館は「娯楽というより救いのオアシス」で「苦しい療養生活を支えてくれた大きな柱」だったことは間違いない(柴田隆行「解題にかえて」、山下道輔『ハンセン病図書館 歴史遺産を後世に』社会評論社)。しかしその一方で、ハンセン病関係の資料はないがしろにされていたのだ。

山下道輔さんとハンセン病図書館

 そこに登場するのが、前に触れた山下道輔さんだ。以下、『ハンセン病図書館』『ヒイラギの檻』に拠って経緯を見ていく。

 山下さんは1941年(昭和16)2月に、12歳で同じ病気だった父とともに全生病院に入った。この年7月には、全生病院は厚生省の所管となり、「国立癩療養所 多磨全生園」と改称される。

 翌年、山下さんは少年舎「祥風寮」に入る。ここで寮父の松本馨と出会う。松本は17歳のとき、ハンセン病と宣告されて自殺を決意するが、「おれは何のために生まれたのだ」という問いを解くために踏みとどまっている。それだけに、少年舎の子どもたちを熱心に指導した。小説を読み聞かせ、作文と詩を書かせた。このとき山下さんと一緒に学んだのが、のちの詩人・谺雄二だった。

 1966年、活動の停滞により自治会が閉鎖される。その後、1969年に再建されるが、そのとき中心となったのが松本だった。自治会は全生園創立60周年記念事業として、全生図書館内に「ハンセン氏病文庫」を設置することに決めた。そこにはハンセン病の資料を残すことが自分たちの責務であるという、松本の強い思いがあった。

 山下さんは当時、全生図書館の図書委員だった。
「そのとき山下が、『おとっつぁん、オレに資料やらせてくれ。資料に一生かける』と申し出て、資料室の責任者を任された」(『ヒイラギの檻』)

 その言葉通り、山下さんは谺をはじめ各地の療養所の知人に、手紙で資料の寄贈を依頼。神保町や園の周囲の古本屋をめぐり、ハンセン病関係の資料を収集した。

 1977年、創立70周年記念事業として、鉄筋コンクリート造りの「ハンセン氏病図書館」が建てられる(のちに「ハンセン病図書館」と改称)。この場所には、かつて「秩父舎」があり、北條民雄が暮らしていた。名作『いのちの初夜』が生まれた場所に図書館ができるとは、縁を感じる。

 山下さんの資料収集はここで本格化する。二代目園長だった林芳信が亡くなったときには、その蔵書を受け取りに行く。自治会長の松本が業務で各地の療養所に出向く際には付き添って、各園の本棚に同じ本が二冊並んでいると、一冊寄贈してもらうよう頼んだ。
「当時の私の頭には『ハンセン病に関する本ならどんな本でも手に入れたい』という思いしかありませんでした」(『ハンセン病図書館』)

  「ハンセン」という単語に反応しすぎて、プロレスラーのスタン・ハンセンが出てくる本まで入手したというエピソードもある(山下さんと交流の深い写真家・黒崎彰氏のインタビューhttps://leprosy.jp/people/kurosaki/)。本好きなら共感してしまう、行きすぎたハマりっぷりだ。

 林文庫と並んで同館の重要な資料が、『見張所勤務日誌』だ。園内の巡視の報告、郵便、死亡、葬式、面会、帰省などが記録されており、「当時の患者がいかに園・職員の支配下にあったか、それを証明する第一級の資料」だ(『ハンセン病図書館』)。園が所有していたこの資料が処分されようとしたとき、山下さんらが駆け付け、荒縄でくくられたそれらを救出した。

 『見張所勤務日誌』はかなり傷んでいたため、製本に詳しい知人が入所者の「佐藤さん」に指導しながら、製本を進めた。その後、山下さんと佐藤さんは600冊以上を製本したという。佐藤さんが手がけた製本は、いまもハンセン病資料館の図書室にあるが、プロ並みにしっかりした出来だ。

 山下さんは司書としての教育を受けておらず、独自のやり方でハンセン病図書館を運営した。そのどれもが、ハンセン病の専門図書館という特殊性を踏まえたものであることに感心する。

 同館ではNDCに拠らず、「短歌」「俳句」「論文」「ハンセン病資料」などに分類し、それらをまず全生園を先頭に、療養所単位で並べていく。

 療養所の機関誌が重要な資料であることは前に触れたが、同館では全生園が出していた『山桜』のある年の号がごっそり抜けていた。山下さんは全生園の医局の図書館から借りだした原本を手書きで筆写した。不自由な体で根を詰めすぎて、入院するほどだった。

 資料を集めるとともに、それが活用されなければ意味がないとも考えていた。ハンセン病について調べる研究者や学生に全面的に協力し、資料の館外貸し出しも行なった。その代わり、彼らの論文が発表されるとそれを寄贈してもらう。そうやって、蔵書を充実させていったのだ。

 その後、本だけでなく、入所者の生活に関する物品も集めるようになり、二年後にそれらを収容するプレハブ小屋も建てた。
『ハンセン病図書館』には、山下さんの話をもとに同館の見取り図が描かれている。「山下の城 ここで実に多くの人と本について語りあった」という一文に胸が詰まる。ここにはたしかに、本がつないだ人の縁があった。

 「資料を集めて、保存して、そこから利用者が希望する資料を探し出しては提供する。それを手にしたときの利用者の方の喜ぶ顔が何より自分への褒美でした。人の役に立てるというのは、生きている甲斐があるというものです」(『ハンセン病図書館』)

山下さんが筆者した『山桜』

ハンセン病図書館から、ハンセン病資料館図書室へ

 1993年、全生園の隣に「高松宮記念ハンセン病資料館」が開館した。

 ハンセン病の資料を収集保存するという趣旨に賛同し、山下さんはハンセン病図書館の蔵書の一部を寄贈する。しかし、資料館が貸出に消極的な姿勢をとっていることについて不満を持ち、「資料を保存することも大切ですが、それを死蔵させてはいけないと思います」(『ハンセン病図書館』)と述べている。その後も、外部のボランティアと一緒に資料の整理に携わっている。

「当時の図書室は一階の入り口近くにありました」と、2001年から資料館の図書室で働くようになった福富裕子さんは話す。2007年、資料館が国立となり、施設がリニューアルした際に図書室はいまの場所に移る。

 資料館の国立化にともない、山下さんは自治会長からハンセン病図書館が閉鎖されることを告げられ、呆然とする。資料館とハンセン病図書館は別の組織であり、国立化は理由にならないと思うのだが、自治会の真意は判らない。

 ハンセン病図書館は2008年に閉鎖され、蔵書のうち大部分は資料館の図書室に移された。林文庫もここに含まれる。それ以外の資料は、それまでの経緯に釈然としない思いを抱いていた山下さんが、『見張所勤務日誌』のように一部の貴重な資料を親友である谺雄二さんに託した(現在は資料館が所蔵)。現在、閲覧室には、約5000冊の旧蔵書が並ぶ。

山下さんは「資料集めは、遅れてやってきた、わたしの『らい予防法闘争』だ」と語った(『ヒイラギの檻』)。ハンセン病に関する資料を集め、研究者に提供することで、国のハンセン病に関する姿勢を告発しようとしたのだ。

 それとともに、山下さんにとって若い頃から本はなくてはならないものであり、本を集めることが生き甲斐だった。そして、自分が集めた資料の価値を理解してくれる研究者を全力で応援した。

「山下さんから『ハンセン病に興味のある学生が来館したら紹介してほしい』と云われて、何人か紹介しました。あとで論文を書いた人もいます」と、福富さんは話す。若い人にハンセン病研究の未来を託したいという気持ちがあったのだろう。

 開館以来、資料館の運営団体は三度変わっている。図書室も以前は利用しにくい面があったが、現在では開かれた図書室へと変化している。

 現在は、所蔵資料のデータベース化が進み、レファレンスにも丁寧に対応する。館外貸し出しを行なうのは、国立の資料館の図書室としては異例だが、山下さんのハンセン病図書館の伝統を受け継いだと思えば納得する。

「ハンセン病に関して何かしたいという人の役に立つ図書室であってほしい」と、退職した福富さんは云う。その願いは、かつて山下さんが抱いたものでもあっただろう。そして、いま、この図書室を守る斉藤さんの思いでもある。

 ハンセン病の資料をめぐって、過去、現在、そして未来を垣間見た思いだ。

 ハンセン病療養所の人たちが、どんなに過酷な生活を強いられてきたかを、ハンセン病について何も知らなかった私が理解できたと云うのは傲慢だろう。しかし、山下道輔さんの本に対する執念だけは、自分のこととして実感できる。彼のような稀代の本好きのおかげで、多くの資料が受け継がれているのだ。

 聞けば、他の療養所の書庫にも、貴重な資料が所蔵されているのだという。せっかくだから、そこにも足を延ばそう。そうすることで、ハンセン病との距離を少しでも縮めたい。

【追記】国立ハンセン病資料館の常設展示も企画展も素晴らしいので、ぜひご覧ください。また、過去の展示図録や紀要は、在庫があれば無料で入手できます。

 
 
 
 
 
南陀楼綾繁(なんだろう・あやしげ)

1967年、島根県出雲市生まれ。ライター・編集者。早稲田大学第一文学部卒業。明治大学大学院修士課程修了。出版、古本、ミニコミ、図書館など、本に関することならなんでも追いかける。2005年から谷中・根津・千駄木で活動している「不忍ブックストリート」の代表。「一箱本送り隊」呼びかけ人として、「石巻まちの本棚」の運営にも携わる。著書に『町を歩いて本のなかへ』(原書房)、『編む人』(ビレッジプレス)、『本好き女子のお悩み相談室』(ちくま文庫)、『古本マニア採集帖』(皓星社)、編著『中央線小説傑作選』(中公文庫)などがある。

ツイッター
https://twitter.com/kawasusu

 
国立ハンセン病資料館
https://www.nhdm.jp/

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