遅筆堂文庫 前編 小さな町に「本の海」が生まれるまで【書庫拝見10】南陀楼綾繁 |
山形県の小さな町に井上ひさしが蔵書を寄贈した図書館ができたというニュースを知ったのは、いつ頃だっただろうか。
私は小学生で『ブンとフン』を読んでから、この作家に熱中した時期がある。小説も好きだったが、小説家の日常生活が垣間見られるエッセイを愛読した。本に対する偏愛ぶりにも共感した。 75年の生涯で約280冊(共著、編著を含む)を著したこの作家のごく一部にしか接していないが、私も井上ファンのひとりと云えると思う。余談だが、雑誌編集者だったときに井上さんに原稿依頼をしたことがある。電話で一度は引き受けてもらったが、その後「やっぱり忙しくて……」と断られた。 2014年、その図書館〈遅筆堂文庫〉が入っている川西町フレンドリープラザで、「Book! Book! Okitama」(BBO)というブックイベントが開催された。仙台にいたときにそのことを知り、BBOの一箱古本市に出店するという友人に便乗して、川西町を訪れた。 フレンドリープラザは1994年に開館。遅筆堂文庫と町立図書館、文化ホールがある複合施設だ。一箱古本市は回廊状になったエントランスで行なわれ、とても雰囲気がよかった。運営の主体となっているのは『ほんきこ。』というグループで、読書会を開きミニコミを発行している。のちに触れるように、川西町にはミニコミの文化があり、遅筆堂文庫の誕生にも関連している。翌年の第2回からは毎年、一箱古本市の店主として参加するとともに、私が関わるトークイベントやワークショップを開催させてもらうようになったのだ。BBOは2018年に終わるが、翌年からはフレンドリープラザが運営を引き継ぎ、一箱古本市とトークイベントを開催している。 川西町を訪れるたびに、一日1回は遅筆堂文庫に寄って時間を過ごす。おそらく、東京以外で最も多く訪れた図書館と云えるだろう。 川西フレンドリープラザ 外観 井上ひさしの頭の中を再現する図書館スペースは1階が井上蔵書を基にした遅筆堂文庫、2階が町立図書館になっている(児童書は1階)。蔵書数は、遅筆堂文庫の整理済みのものが約12万8000点。のちに見るように別の場所に10万点以上を収める。町立図書館は約5万9000点だ。手に取ってみられる分だけで12万冊ある。人口1万5千人ほどの町に、これだけ立派な図書館があることに驚く。 入ってすぐのところにあるのは、井上ひさし展示室。正面に目に入ってくるのは、柱の周りに高く設置された書架だ。「本の樹」と名付けられたこの棚には、読者からのメッセージとともに寄贈された井上ひさしの著作を並べている。その周りに年譜や作品紹介、テーマごとの展示などがある。取材時には、中公文庫から再刊されてベストセラーとなった『十二人の手紙』にあわせて、「井上ひさしと手紙」という展示が行なわれていた。 1階のカウンター横には「研究室」と呼ばれる小部屋があり、ここには付箋や書き込みのある本が多い。また、井上自身の著作も壁面にずらりと並んでいる。さらに貴重な本は閉架書庫に収められている。 私はこの「研究室」がお気に入りで、いくらでも居られる。ある年には「図書館に泊まろう」というイベントがあり、この部屋の本棚の間に寝転がって、井上の作品を読みながら一夜を過ごした。 研究室への入り口 研究企画選定図書室内部 遅筆堂文庫の蔵書は、一般的な分類であるNDC(日本十進分類法)を用いずに、A~Zの分類で配列されている。井上からの「自分の頭の中で整理しているように分類してほしい」という希望によるもので、Aは言語、Bは江戸、Cは地図、Dは演劇……となっている。 大分類の下には細目がある。Lの社会で云えば、「アメリカ」「憲法・法律」「天皇」「風俗」「戦争」「都市論」といった具合だ。ひとつの細目には、研究書・ノンフィクション・小説などが一緒に並ぶ。たとえば「犯罪」の棚には、加賀乙彦『犯罪ノート』、カポーティ『冷血』、『近代犯罪科学全集』、重松一義編『日本刑罰史年表』が同居している。 この雑多な、カオス感がたまらない。どこから切っても面白いので、棚から本を抜き出す手が止まらない。たとえば、大作『吉里吉里人』の資料となった研究書を手に取って、そこに書き込みを見つけたりするとなんとなく嬉しくなる。 また、遅筆堂文庫では本の背表紙にラベルを貼らず、以前の図書館のように函やカバーもそのままにされている。それが、井上ひさしの蔵書に向き合っているという臨場感を高める。 10年近くこの町に通って感じたのは、町の人が抱く井上ひさしへの敬意だ。彼らは井上のことを「作家」と呼ぶ。一般名詞ではなく、彼らにとっては井上こそが作家なのだ。 昨年9月23日、今年もイベントに合わせて川西町を訪れた。今回はこれまで見たことのない部分まで含め、遅筆堂文庫をじっくり見ることができた。 『吉里吉里人』参考資料と思われる本(表紙) 『吉里吉里人』参考資料と思われる本(書き込み) 出発点になった本川西町は山形県南部の置賜地方に属し、米沢市に接している。置賜盆地の美しさを、1878年(明治11)にこの地を旅したイギリス人旅行家イザベラ・バードが「アジアのアルカディア(理想郷)」と評している。なお、フレンドリープラザの敷地の庭には、イザベラ・バード記念碑がある。碑文を書いたのは、バードの『日本奥地紀行』を初訳した英語学者の高梨健吉。高梨はこの川西町の出身で、川西町立図書館には高梨健吉文庫もある。 井上ひさし(本名・廈)は、東置賜郡小松町中小松(現・川西町)に生まれた。父・修吉は作家志望だったが、ひさしが5歳のときに病死した。 井上少年は父の蔵書を読みまくり、主要な本には目を通してしまう。新しい本を読みたかったが、町の図書館には蔵書が96冊しかなかった。 そんななかで、井上は初めて自分の本を手に入れる。中央公論社から出た宮沢賢治の『どんぐりと山猫』を、版元に直接注文したという。読み終えて感激した井上は、ハンコ屋の息子に頼んで蔵書印を彫ってもらい、それを本に押して「第1号」と書き込んだ(『本の運命』文藝春秋)。本とともに人生を歩んだ井上ひさしの出発点とも云えるこの本は、遅筆堂文庫に収められている。 井上一家は1949年に小松を離れ、一関へと移る。その後、仙台、東京、釜石を経て、再上京。放送作家として活躍しながら、小説家としてデビューする。 井上がはじめて手に入れた「自分の本」、『どんぐりと山猫』(遅筆堂文庫提供) 作家が本を手放すとき井上ひさしの蔵書が、なぜ生まれ故郷の川西町に運ばれ、ついに図書館が生まれるに至ったかは、遠藤征広『遅筆堂文庫物語 小さな町に大きな図書館と劇場ができるまで』(日外アソシエーツ)に詳しい。同書は、本を愛する作家と作家を敬愛する青年たちの交流を描いた名著で、何度も読み返してきた。 遅筆堂文庫設立の経緯を、同書と今回取材した遠藤勝則さん、阿部孝夫さん(NPO遅筆堂文庫プロジェクト前代表)の話をもとにたどってみる。 1977年、農協に勤めていた遠藤征広さんらによって、『先知らぬこの道を』というミニコミが創刊された。郵便局勤務の阿部孝夫さんもそのメンバーだった。 井上ひさしを愛読していた征広さんは、作家を故郷に呼ぶことを提案した。彼らの手紙が功を奏し、1982年に井上の講演会が実現する。締め切りに遅れた井上に直前に日程を変更させられるというハプニングはあったが、大成功を収める。 翌年、井上は劇団「こまつ座」を結成。生まれ故郷の小松町にちなむ。『先知らぬ』のメンバーは「こまつ座応援会」を結成。征広さんは旗揚げまで井上宅に住み込んで手伝った。その後、『先知らぬ』は「山形こまつ座」に発展。阿部孝夫さんが代表を務め、米沢市や長井市でのこまつ座の公演を実現させた。 1986年、井上は妻・好子と離婚。そのために市川市の自宅を出なければならなくなった。それを聞きつけた自治体と大学から「本を引き受けたい」という申し出があった。しかし、先方の必要な本だけを引き取るという方針に、雑本も含めての自分の蔵書だと井上は反発し、物別れに終わる。 一方、川西町では井上宅にあふれる本を目にしていた征広さんが、その一部を引き取って小さな図書館をつくることを構想していた。企画書づくりには町役場の企画課に勤めていた遠藤勝則さんも加わった。 そして企画書を読んだ井上から連絡があり、「全部の本を寄贈するので、図書館をつくってほしい」と申し出があった。横沢三男町長はこれを受け入れ、候補地の選定に入った。 「生きている図書館」を目指して 1987年2月、農村環境改善センター(農改センター)の2階に図書館を設置することが決まる。同月、遠藤征広さん、阿部孝夫さん、遠藤勝則さんら4人は、市川の井上宅からの1回目の本運びを行なった。 自宅に接した事務所の本は、こんな様子だった。 このとき、彼らが川西町から持参したのは、菊の箱だった。征広さんが仕事で使っていたもので、本を詰めるのにちょうどよかったという。2泊3日で、部屋ごとにひたすら本を詰めていく。道路が狭いため、本の箱はいちど2トントラックに積み、別の場所に停めた11トントラックに積み替えねばならなかった。 川西町にトラックが着くと、農改センターの2階まで階段で運び、仮置きする。 本運びの作業は、3月と4月にも行なわれた。驚いたのは、前回すっかり空にした書架にまた本が詰まっていたことだ。さらに、予期しなかった場所からも本が出現する。 3回にわたる作業を経て、井上の蔵書は川西町に運び込まれた。その数は当初の目算である4万冊を大きく上回り、7万冊に達した。 気が遠くなるような作業だったが、遠藤さんらにとっては作家と接することができる貴重な機会となった。 このとき、井上は図書館の名前を「遅筆堂文庫」としたいと話した。「遅筆堂」はしばしば締め切りを破ることへの自嘲の念からつけた屋号だが、根底には「遅くてもいいから納得のいくものを書きたい」という思いがあった。その名前を図書館に冠するのは、遅筆の背景に無数の本があるからだと征広さんは推測している。また井上は、利用者優先でなるべく長い時間開館している図書館にしたいという希望を述べた。 そして、4月29日には川西町民総合体育館で、井上ひさしの講演「世界の中の川西町」が開催された。井上はそこで遅筆堂文庫を「生きている図書館にしたい」と述べた。 96冊しか蔵書のなかった町で育った井上は、自分の蔵書による図書館を軸にして、故郷を文化的な町にしたいと考えたのだ。 展示室入り口 井上ひさし著作の棚 作家と町民の交流同年3月末からは遠藤征広さんが遅筆堂文庫の専従となり、ほかの3人の担当者とともに本の整理を開始した。このとき、征広さんはNDCではなく、件名での分類を提案した。井上の蔵書にあった『大宅壮一蔵書目録』を見て、大宅文庫に見学に行き、このほうが作家のこだわりを反映できるという確信を得た。 それから4カ月間、ひたすら本を箱から出して並べる作業を行なった。整理用にパソコンも導入した。 8月15日、終戦記念日に遅筆堂文庫はオープンし、井上も出席する予定だった。しかし、体調不良で欠席することとなる。仮オープンしたのだが、このとき、娘でこまつ座代表(当時)の井上都さんが持参した原稿用紙には、井上自筆の「遅筆堂文庫堂則」が綴られていた。 遅筆堂文庫は午前11時30分から午後8時30分まで開館。館外貸し出しはせず、閲覧のみだったが、全国から利用者が来館した。 翌年3月、遅筆堂文庫シンポジウムを開催。井上の基調講演と図書館関係者とのディスカッションを行なった。このとき、遅筆堂文庫を見た井上は「自分のところにあったときは本が眠った状態だったけど、ここでは本が生き生きしている」と喜んだという。 同年8月には遅筆堂文庫で、「生活者大学校」を開催。農業関係者を講師に迎え、3泊4日の手づくりの学校を開いた。校長はもちろん井上で、農民作家の山下惣一が教頭となった。その後、毎年開催されていく。 1994年、川西町フレンドリープラザが開館。遅筆堂文庫が農改センターから移り、別の場所から町立図書館も移転する。また、劇場を併設し、こまつ座の演劇やコンサートなどさまざまな催しを行なう。生活者大学校の会場であり、2010年に井上が亡くなったあと、2015年から井上を偲ぶ「吉里吉里忌」も開催されている。 まさに、井上が夢想したように、図書館を中心に「人が集まるところ」が生まれたのだ。 作家と町民の長い交流から生まれた、遅筆堂文庫の「本の海」。次回は、その心臓部とも云える書庫の中に分け入っていこう。 1967年、島根県出雲市生まれ。ライター・編集者。早稲田大学第一文学部卒業。明治大学大学院修士課程修了。出版、古本、ミニコミ、図書館など、本に関することならなんでも追いかける。2005年から谷中・根津・千駄木で活動している「不忍ブックストリート」の代表。「一箱本送り隊」呼びかけ人として、「石巻まちの本棚」の運営にも携わる。著書に『町を歩いて本のなかへ』(原書房)、『編む人』(ビレッジプレス)、『本好き女子のお悩み相談室』(ちくま文庫)、『古本マニア採集帖』(皓星社)、編著『中央線小説傑作選』(中公文庫)などがある。 ツイッター |
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