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『張愛玲の映画史──上海・香港から米国・台湾・シンガポール・日本まで』 【大学出版へのいざない3】

『張愛玲の映画史──上海・香港から米国・台湾・シンガポール・日本まで』 【大学出版へのいざない3】

河本 美紀(かわもと・みき) 九州大学・福岡大学非常勤講師

 中国語圏近現代文学を代表する作家、張愛玲(一九二〇─一九九五)は一九四〇年代前半、日本占領下の上海で活躍した。小説「金鎖記」、「傾城之恋」に代表されるように、古典と現代的な感覚を合わせた巧みな筆致、細やかな心理描写によって、不穏な社会でほろ苦い人生を送る人々をシニカルに描き出した。その悲観的な小説世界は、現在に至るまでファンを獲得し続け、日本でも多くの邦訳が出版されている。

 張愛玲は中華人民共和国建国後の一九五二年に上海を離れ、香港を経て米国へと生きる場所を求めた。資料が限られていたため、渡米後の張愛玲については、執筆活動が衰え、人目を避け旧作の書き直しや翻訳に従事し、ペシミズムに彩られた孤独な生涯を送ったというのが通説となっていた。

 しかし渡米後の張愛玲は、ロマンティック・コメディを主とする香港の映画脚本を多数手掛けていた。従来、反ロマン主義者と捉えられてきた張愛玲が、多くのクラシカルなロマンティック・コメディを手掛けたことは、映画に対する深い愛情に由来する。二〇世紀初め、近代的文化技術の産物として、黎明期の大衆芸術であった映画に魅せられた作家は少なくなかった。例えばフランツ・カフカや志賀直哉の映画に対する傾倒は、ハンス・ツィシュラー『カフカ、映画に行く』(瀬川裕司訳、みすず書房、1998)、ペーター=アンドレ・アルト『カフカと映画』(瀬川裕司訳、白水社、2013)、貴田庄『志賀直哉、映画に行く──エジソンから小津安二郎まで見た男』(朝日新聞出版、2015)にまとめられており、中国では魯迅と映画についての専門書も出版されている。本書はそのような作家と映画の関係を探る書籍の張愛玲版を目指した。

 初期映画に接したカフカ、志賀、魯迅から約一世代遅れて、一九二〇年、アジア最先端の場所で、中国の映画産業の中心地であった上海に生まれた張愛玲は、幼少時から豪華な設備を誇る高級映画館に通い、ハリウッド映画に心酔し、アニメーション映画への興味が高じて、アニメーターを目指したほどのシネフィルであった。小説家デビューの前には中国映画の映画評を書き、随筆では気に入った日本映画を紹介し、中華人民共和国建国後にハリウッド映画が一掃された後はソ連映画を観て、渡米後は米国人の伴侶と度々映画館を訪れた。生きる時代や場所が変わろうとも、映画は張愛玲の身近にあり続けた芸術だったのである。一九四〇年代後半からは、約二〇年間に渡り、上海と香港の映画会社に約二〇作品の映画脚本を提供し(映画化に至らなかった作品も多く、現在、映像を観ることができるのは七作品に止まる)、初期から晩年までの小説や随筆、友人に宛てた書簡のあちこちに、映画についての言及がある。しかし、張愛玲の映画に対するこのような関心の高さはあまり注目されることがない。張愛玲が脚本を手掛けた映画も、小説の作風とは相容れない、商業性の強い娯楽映画とみなされているため、研究は非常に手薄である。

 本書は、映画をキーワードに張愛玲とその作品群を捉えなおした。一九三〇年代から現代までのアジア、欧米の映画、文学、演劇を横断しながら、張愛玲が生涯を通じて持ち続けた映画への関心とその関わりを再現するという、張愛玲を軸にした映画史である。特に映画脚本に焦点を当て、脚本執筆時に張愛玲が参照した英国の戯曲との比較を通して張愛玲のオリジナリティを検証し、ハリウッド映画のスクリューボール・コメディ、シチュエーション・コメディ、ファミリー・メロドラマなどの視点を加え、脚本執筆から映画化に至る過程の再現を試み、張愛玲の映画に関する仕事により積極的な意義を探った。張愛玲の手掛けた映画脚本には、小説にはほとんど顔を出すことのなかった生来のひょうきんな一面と茶目っ気、ハリウッド映画に由来する映画的センスが存分に発揮されている。映画脚本家としての張愛玲は、上海、香港の映画に本格的なロマンティック・コメディをもたらした第一人者であった。

 従来の張愛玲のパブリック・イメージや作品世界は、色で表現すると、深青や深緑といった寒色系だったと言えよう。しかし従来、故郷の上海を離れ、失意のうちにあったと考えられていた張愛玲は香港で、自分の人生を、映画の午前興行を観終えて外に出た時に目の前に広がる静かな一日に例え、明るい希望を持っていたことが、近年明らかになった。本書の、研究書らしからぬ、また従来の張愛玲のイメージらしからぬ明るい装丁は、張愛玲が手掛けた軽やかで都会的でコミカルな映画脚本と、前向きで、チャーミングな、「可愛らしい」張愛玲の一面をイメージしたものである。

 
 
 
 
 


書名:『張愛玲の映画史──上海・香港から米国・台湾・シンガポール・日本まで』
著者名:河本美紀 著
出版社:関西学院大学出版会
判型等:A5  上製 610頁
税込価格:8,800円
ISBN:978-4-86283-348-8
Cコード:3074
2023年2月刊
http://www.kgup.jp/book/b618396.html

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