『張載思想研究 ― 宋明理学の中の「太虚」説』
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張載(横渠先生)は北宋の儒者。日本人にとっては終戦の詔勅に使われた「万世の為に太平を開く」という言葉(『張子語録』)によって親しい思想家です。先ごろ(2020年)生誕
一千年を迎えました。本書は張載の人物、思想、影響について探求した、史上初の日本語の 専著です。 張載は一般に朱子学の先駆者として知られますが、その思想内容について仔細に検討すると、単に「朱子に影響を与えた人」というだけでは済まない、独特な個性が明らかになってきます。島田虔次先生は一方では「張載の思想は朱子学に吸収されてしまった」(『中国革命の先駆者たち』)と述べつつ、他方では「中国に於ける最も傑出した唯物論哲学者」(「中国 近世の主観唯心論について」)と評価されました。多様な解釈を許容する単純ではない思想の真面目に迫るべく、長年継続してきた研究の成果を纏めたのが本書です。 張載はしばしば「気の思想家」と呼ばれますが、しかし張載は気の本体として太虚という 概念を唱え、修養の目的を虚と一体化することに置きました。虚の顕現が天地という世界で あり、聖人とは天人合一の境地に至った人ということになります。張載の思想はむしろ「虚の 思想」と呼ぶべきものだと言って良いでしょう。 朱子は張載の「一気の聚散による万物の生滅」という観念に大きな影響を受けましたが、 万物の本体には張載の「虚」ではなく二程子の「理」を据えて理気哲学を構築しました。換言すれば、張載の虚気渾然の哲学から虚の要素を排除して理気一貫の哲学に作りかえました。 朱子は張載思想の影響を受けつつその核心部分を排除したことになるわけですが、反面から言えば、世界を解釈するための思考の具として大々的に張載の思想を取り入れたことにもなります。 朱子に排除された虚気渾然の思想は、しかし忘れ去られることなく宋明理学思想に影響を 与え続けました。良知を説く王陽明の論理には張載の太虚説との強い類似が見られます。影響関係と見なすのは早計かもしれませんが、両者に共通する思考の基盤があったことは間違いないでしょう。 上記の論点それぞれについては既に先学の研究業績が存在します。本書は特に楠本正継 『宋明時代儒学思想の研究』(広池学園事業部、昭和37年)から大きな恩恵を受けました。 しかしこれらの論点を綜合して張載思想の全体像を描き出した日本語の著述は本書が史上初めてのものとなります。特に『大学』の「格物」に対する張載の解釈が近世儒学思想に長く影響した可能性があること、また張載および張載の門弟、呂大臨の人間観が、朱子学官学化の背後にあって儒学思想に連綿と影響し続けたことなどを明らかにしたのは本書の重要な特色です。 さらに中国共産党指導部による張載への言及を分析し、現代中国の政治思想状況を宋代の政治思想状況との相似形で捉えるという観点を提示しました。いわば一千年の時を経て「朱子学にも、陽明学にも、習政権にも影響を与え続ける哲学者」の面目を明らかにしたのは世界に先駆ける本書の特色と申されましょう。 本書は博士論文の書籍化であり、既発表の論文を用いて構成した箇所が多いのですが、纏めるに当っては全て一から見直しました。その結果、参考文献一覧に思いがけず多数の書籍名を掲出する必要が生じ、印刷物としての書籍を手許に置いておくことの重要性を再認識しました。三島復『王陽明の哲学』(大岡山書店、昭和17年版)を掲出した際には、かつて何の気なしに古書店で入手した本に今お世話になること、また三島復の父、三島中洲に関して先師松川健二の論著に『山田方谷から三島中洲へ』(明徳出版社、平成20年)があることを思い、何か書籍との奇縁といったことを感じたものです。 筆者は平成11年、文部省(当時)在外研究員に採用され、北京市清華大学に滞在しました。同年秋、張載の故地である陝西省郿県横渠鎮で開催された国際学会に出席して口頭発表を行ない、張載墓、張載祠(横渠書院)を見学しました。学会で荻生徂徠の第九代後裔、荻生茂博先生と面識を得ましたが、数年後、早すぎる逝去の報を聞いたのは誠に残念なことでした。 この時、北京への帰路を利用して洛陽南郊の関林(関羽墓)、白園(白楽天墓)、程氏墓、 邵雍墓を巡りました。平成30年、国際学会に招待されて横渠鎮を再訪し、基調講演を行なって横渠書院から名誉顧問に任ぜられました。西安からさらに西の奥にある横渠鎮を複数回訪問し、煉瓦積みの寒村が近代的な建物の並ぶ街道町に変貌するのを目撃した日本人は筆者だけではないかと思われます。本書の附録として横渠鎮訪問記録二篇を写真つきで収録しました。 一千年を経た古典哲学に新たな観点から光を当て、かつその現代的意義をも明らかにした 著作として、読書人のみなさまの御批正を賜れば幸いです。 ![]() 『張載思想研究 ― 宋明理学の中の「太虚」説』 山際明利 著 北海道大学出版会 刊 11,000円(税込) ISBN:978-4-8329-6899-8 (C3010) 好評発売中! https://www.hup.gr.jp/items/92342089 ※「大学出版へのいざない」は今回が最終回です。ご愛読ありがとうございました。 |
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